迷いの森
「おい……待て……」
ジークは目の前の光景を見上げながら、思わず声を漏らした。
そこに立っているのは、巨大な白い樹だった。いや、樹と呼ぶにはあまりにも異様な存在。幹はまるで骨のように白く、表面は滑らかで、ところどころに脈打つような淡い光が走っている。そして何より、その幹の中央には、まるで生き物のようにゆっくりと開閉する巨大な裂け目があった。
それは、口だった。
ジークは眉をひそめる。
「……この中に入れっていうのか?」
レアリスは、いつもの穏やかな表情のまま答える。
「入るのは……あなた」
そして少しだけ首を傾げた。
「入って……?」
その言い方は、まるで子供が「どうぞ」と言うような無邪気さだった。
だがジークは、怪訝な顔をする。というより、露骨に嫌そうな顔だった。
「……おい」
だが、そのときだった。
レアリスが、そっと近づいてくる。
その距離が、妙に近い。
ジークは思わず一歩下がりかけて、しかし止まった。
「わ、わかった。わかったから」
半ば観念したように言う。
すると。
巨大な白い樹が、ゆっくりと動いた。
ギ……ギ……ギ……
幹が軋むような音を立てながら、中央の裂け目が大きく開く。
それは、まるで巨大な口が開かれるかのようだった。
ズル……ズルズル……
樹の内部から、白い蔦のようなものが蠢く。
ジークの背筋を、冷たいものが走った。
「何が……」
口の中を見ながら呟く。
「新しい目的だ……よ」
レアリスは、優しく答える。
「魂を治すから……」
少しだけ言葉を選ぶようにして。
「でも……すごく痛い……かも?」
ジークは眉をひそめる。
「痛み……?」
そして小さく笑った。
「死ぬのではないのか?」
「わたしは……」
だがレアリスは、首を振る。
「死ぬのはダメ」
そう言うと、そっとジークの背中に手を当てた。
その瞬間だった。
ジークの体に、ふっと魔力が流れ込む。
まるで空っぽだった器に、再び水が満たされるように。
ジークの目が見開かれる。
魔力が、戻っている。
ジークは思わず笑った。
(魔力さえ使えれば……!!)
心の中で叫ぶ。
(魂を使って……今すぐにでも……!!)
だが、その瞬間だった。
ぽんっ。
軽く。
本当に軽く。
レアリスが背中を押した。
ジークの体が、前に傾く。
「な――」
そのまま、白い樹の口へ。
ズルッ。
絡め取られるように。
吸い込まれた。
次の瞬間。
ギチギチギチッ!!
全身が、締め上げられる。
無数の蔦が、ジークの体を拘束していた。
まるで生きた縄のように、体のあらゆる部分に巻き付き、締め上げ、固定する。
動けない。
完全に、動けない。
その様子を見ながら。
レアリスは、ぴょんっと軽く跳んだ。
巨大な白い樹の幹の上へ、まるで子供のように軽やかに飛び乗る。
そして、そっと幹に手を当てた。
目を閉じる。
まるで祈るように。
レアリスは、ぼそりと呟く。
「魂が……削られるのって……ほんと……痛いから」
まるで、事前に伝えておくかのように。
やさしく。
だが、その声の裏にある内容は、あまりにも恐ろしいものだった。
ジークは魔力を使おうとする。
だが。
使えない。
この木の中では、魔力がまったくうまく動かない。
まるで世界そのものが、魔力を拒絶しているかのようだった。
レアリスは静かに言う。
「それで死ぬことは……ないね?」
ジークは叫ぶ。
「ふざけるな!!」
「一体なにを――」
その瞬間だった。
ドスッ。
一本の蔦が、ジークの腹を貫いた。
そして。
ドスドスドスドス。
ザクザクザクザクザクザク。
無数の蔦が、一瞬で全身を貫いた。
まるで槍の雨だった。
普通なら、即死。
だが。
ジークは死なない。
アルティナの祝福。
死からの離脱。
それは死を拒絶する力。
そしてそれは。
逃れられない苦痛を、延々と味わう力でもあった。
声すら出せない。
次々に刺される。
抜かれる。
刺される。
抜かれる。
繰り返される。
肉体は、もはや原型すら残っていない。
だが。
それでも終わらない。
蔦は細かく、細かく、細かく。
肉を裂き。
魂を探る。
ジークの魂と。
アルティナの魂。
それを切り分けるように。
まるで糸を解くように。
だが。
それは荒療治などではない。
死ぬ療治だった。
レアリスに悪意はない。
ただ。
彼女は、できるからやっている。
木を操る力。
それはレアリス本来の力。
そして魂を魔力ごと切り分ける繊細な技術。
それはディアの力。
二つが重なり合うことで、初めて可能になる技だった。
しばらくして。
レアリスは小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
そして言う。
「ねぇ」
「生きてるね?」
ジークの顔だけが、ゆっくりと形を取り戻していく。
「ふざ……けろ……」
だが。
魂が切り分けられるにつれ。
肉体も、ゆっくりと戻っていく。
レアリスは首を傾げた。
「あれ……」
「足りない……」
そこで気づく。
アルティナの魂が、欠けている。
そこには意識はない。
ただ。
魂の形だけが、静かに作られていく。
レアリスは、空を見上げた。
じっと。
遠くを見つめる。
「そう……」
小さく呟く。
「残りは……あそこ……」
ジークはかすれた声で言う。
「ま……待て……」
だが。
レアリスは答えない。
次の瞬間。
ドンッ!!
地面を蹴り。
空高く飛び上がる。
まるで重力など存在しないかのように。
彼女の目は、ある一点を見ていた。
そこは。
魂の回廊。
アルティナの残りの魂を、見つけるために。
ジークの身体には、無数の白い蔓が縫いつけるように突き刺さっていた。まるで巨大な針と糸で肉体を固定されているかのように、肩、腹、太腿、背中、首筋――至るところから白い蔓が貫き、絡みつき、逃げることを許さない。
「ふざけるな……」
ジークは歯を食いしばる。
「こんな状態で……おいていくな!!」
蔓がきしむ。
「痛いんだ!!」
だが、空を見上げてもレアリスの姿はもうない。彼女はまるで興味を失ったかのように、空高くへと飛び去り、影すら残さず消えてしまった。
ジークは荒い息を吐く。
「アルティナ……」
ゆっくりと呟く。
「おまえが言っていた“壁”ってのは……こいつのことか……?」
ジークにはアルティナの魂は見えない。だが、それでも語りかけずにはいられなかった。
あまりにも圧倒的だった。
いや――圧倒的という言葉ですら足りない。存在そのものが違いすぎる。
今までジークは、力で世界をねじ伏せてきた。人も魔物も、魔女ですら恐れなかった。だが、あの少女は違った。恐怖の形が違う。
戦えば勝てるかどうかの恐怖ではない。
――そもそも戦うという概念すら意味を持たない存在。
それを理解してしまった。
ジークの胸の奥に、はっきりとした感情が芽生える。
畏怖。
死ぬことにも、殺すことにも何も感じないはずだったジークの心に、初めて本物の恐怖が芽生えていた。
そして、もう一つ理解する。
自分の身体。
魂。
それが完全に元の形に戻っている。
だが同時に、もう一つ理解する。
――権能が使えない。
ジークに与えられていた力。
アルティナの祝福。
それは根こそぎ、アルティナへと戻されていた。
「ふざ……けるな……」
ジークの拳が震える。
「これからだ……これからだったのだ……」
そのときだった。
体を縫い止めていた蔓が、ゆっくりとほどけていく。
シュル……シュル……
一本、また一本と外れていく。
ジークは目を見開いた。
「……は?」
身体が自由になる。
「もう……いいのか?」
巨大な白い樹は、何の反応も示さない。というより、ジークの存在など最初から興味がなかったかのようだった。
ジークは立ち上がる。
「な……なんなんだ……」
怒りと困惑が混ざる。
「私は!!」
「新しい目的を探そうと言ったのは――あいつだろう!!」
だが、叫んでも答えはない。
ジークは舌打ちする。
「……だが」
拳を握る。
「自由になったならそれでいい」
「やることは同じだ」
だが、周囲を見回すと違和感に気付く。
「……ここはどこなんだ」
ジークは歩き出す。
すると、まるで追い出されるように樹界の境界を越えた。
そこには、先ほどとはまったく違う景色が広がっていた。
古びた巨大な木。
その幹の中に作られた家。
そして石で組まれた小さな祭壇。
静かで、不気味なほど静かな場所だった。
その祭壇の中央。
そこに――
丸くなって眠る、小さな白い獣がいた。
ジークはそれを見た瞬間、理解した。
「あれも……」
目を細める。
「あいつなのだろう」
レアリスの分体。
ならば。
ジークの口元が歪む。
「この白い獣なら」
ゆっくり歩く。
「今の私でも救ってやれる」
そう言って、躊躇なく掴みかかろうとする。
だが。
掴めない。
手が触れる直前で、力が抜ける。
何度やっても。
掴めない。
「な……」
ジークの手が震える。
「なんなんだ……」
「意味が……」
そのときだった。
白い獣がゆっくりと目を開いた。
「ここは迷いの森」
落ち着いた声だった。
「そしてジュラの守護地」
ジークは目を細める。
白い獣はゆっくりと体を起こした。
「レアリスに招かれたとは」
ゆっくり言う。
「どうやら、私にも役目があるわけだ」
そして微笑む。
「ゆっくりしていけ」
「私の名はメーレ」
「元は神獣で、いまはレアリスの使いだ」
ジークは眉をひそめる。
「神獣だと……?」
怒りがにじむ。
「おまえ達は!!」
「一体私をどうするつもりだ!!」
メーレはにやりと笑った。
「簡単なことだ」
「ここでレアリスの相手をする」
「それがおまえの役目だ」
そして言った。
「そして、ここがおまえの居るべき場所だ」
メーレはトテテテと歩く。
「ここを使え」
「トイレはそこ」
「腹が減ったらこっち」
「眠るときはその家を使え」
そして最後に言った。
「ここから出ることはない」
ジークの目が見開く。
「ふざけるな!!」
「私はこんなところに用はない!!」
「出ていく!!」
「邪魔をするな!!」
メーレは笑う。
「邪魔などしない」
「好きなだけ足掻いてみよ」
「人間」
ジークは笑い出す。
「ハハハ!!!!」
そのまま走り出した。
「こんなわけわからん場所にいてたまるか!!」
森を突き抜ける。
走る。
走る。
走る。
だが――
気付くと。
また同じ場所に立っていた。
祭壇。
白い獣。
メーレ。
ジークは息を切らす。
「は……」
「は……?」
メーレが言う。
「だから言っただろう」
「ここは迷いの森だ」
そして少し笑う。
「どうしても出ていきたいなら――」
ジークは叫ぶ。
「おまえを倒せばいいのだろう!!」
魔力を解放する。
巨大な攻撃を叩き込む。
だが。
霧散する。
すべて。
どれだけ魔力を込めても。
どれだけ力を振るっても。
触れようとしても。
すべてが消える。
メーレはあくびをする。
「説明はしたぞ」
「レアリスが来るまで」
「好きなだけ試すがいい」
ジークは膝をつきそうになる。
「はぁ……はぁ……」
歯を食いしばる。
「好きなだけ体をいじって……直して……?」
拳を握る。
「そしてここで暮らせ……だと……?」
怒りが爆発する。
「ふざけるな!!」
森に叫びが響く。
「ふざけるなぁぁぁ!!」
その声は、迷いの森の奥へと、いつまでもこだまするのだった。




