絵の行方。
リアノは、床に散らばった紙片を前に、しばらく動くことができなかった。
それが何であるのか、最初から分かっていた。
かつてレイズの部屋に飾られていた、一枚の肖像画。
まだ幼かったレイズと、リアノ。そして、メルェ。
三人が並んで笑っていた、遠い日の絵だった。
しかし今、その面影は無残なまでに引き裂かれている。紙は何本もの亀裂によって分断され、角は踏みつけられたように潰れ、ところどころに深い皺が刻まれていた。
なかでも、レイズが描かれていた中央部分の損傷はひどかった。
顔の半分は失われ、身体を形作っていた紙片もいくつか見当たらない。三人を繋いでいたはずの手と手も途中で裂け、まるで最初からそこに誰も存在しなかったかのように、白い空白だけが残されていた。
「…………」
リアノは震える指を伸ばし、最も近くに落ちていた破片を拾い上げた。
小さな紙片に描かれていたのは、金色の髪の一部だった。
それだけで、胸の奥が強く締めつけられる。
次に拾った破片には、青い瞳の端。
さらにその隣には、不格好に上がった口元の一部が残っていた。
かつてのレイズは、絵を描かれる間もじっとしていられなかった。何度も姿勢を崩し、メルェへ話しかけ、リアノへ笑いかけては、リリアナに注意されていた。
そのときの表情。
そのときの声。
そのとき、部屋を満たしていた温かさ。
それらすべてが、破れた紙の向こうから鮮明に蘇ってくる。
「……忘れてはいけない」
零れた言葉は、誰かへ伝えるためのものではなかった。
自分自身へ言い聞かせるような、切実な誓いだった。
今のレイズは、この絵に込められた時間を覚えていない。
ここにメルェがいたことも。
三人で笑っていたことも。
自分がどれほどこの絵を大切にしていたのかも。
もう、思い出すことはできない。
そして、あの日のレイズと同じ記憶を持つ者も、ほとんど残ってはいなかった。
誰かに話したところで、完全に同じ温度で分かち合えることはない。
ならば。
自分が覚えていなければならない。
誰も知らなくなったとしても。
レイズ自身が忘れてしまったとしても。
あの時間が確かに存在したことを、自分だけは忘れてはならない。
リアノは床へ膝をつき、一枚ずつ破片を拾い集め始めた。
焦ってはいけない。
少しでも乱暴に扱えば、脆くなった紙はさらに破れてしまう。
指先へ力を込めすぎないように気をつけながら、色と線を頼りに隣り合う破片を探していく。
金色の髪。
青い瞳。
白い服。
リアノの淡い髪。
メルェの小さな角。
一つを合わせ、また一つを隣へ重ねる。
だが完全には元へ戻らない。
失われた部分は、どうしても埋められなかった。
線は途中で途切れ、色も僅かにずれる。無理に合わせようとすれば、別の場所が歪んでしまう。
それでもリアノは諦めなかった。
何度も位置を変え、重ね方を確かめ、剥がれかけた端を慎重に伸ばしていく。
やがて、ぎこちなくはあっても、一枚の絵としての姿が戻り始めた。
そこに浮かび上がったのは、現在のレイズとは異なる少年の姿だった。
素直ではなく。
不器用で。
思いついたことをすぐ行動へ移しては、周囲を困らせる。
けれど、決して誰かを傷つけることを望んでいたわけではない。
臆病な者がいれば、自分なりの方法で笑わせようとした。
悲しんでいる者がいれば、その隣へ何も考えず座った。
身分も、種族も、立場も。
幼い彼にとっては、人と人の間を隔てる理由にはならなかった。
かつてのレイズも、決して悪役などではなかった。
少なくともリアノが知るレイズは、誰かを苦しめて喜ぶような少年ではなかった。
ただ、守り方を知らなかった。
自分の気持ちを伝える術も知らず、誰かを大切に思うほど、不器用に振る舞ってしまうことがあった。
それでも。
彼は勇敢に、真っ直ぐ進もうとしていた。
完成にはほど遠い。
裂け目も残っている。
レイズの身体の一部は、どうしても見つけられなかった。
それでもリアノは、繋ぎ合わせた絵を両手でそっと持ち上げた。
絵を抱えるようにして、自分の部屋へ運ぶ。
廊下で誰かとすれ違わないよう、周囲の気配を確かめながら歩いた。
この絵を、今のレイズへ見せるつもりはなかった。
見せたところで、困らせてしまうだけかもしれない。
彼の知らない過去を突然突きつければ、戸惑わせ、苦しませることになるかもしれない。
だから誰にも見せない。
誰にも触れさせない。
リアノだけが知る場所へ、大切に保管する。
かつてはレイズの部屋の壁に飾られ、三人の笑顔を誰にでも見せていた絵。
それはもう、二度と同じ場所へ戻ることはないのかもしれない。
けれどリアノにとって、それはただの古びた肖像画ではなかった。
失われたレイズの記憶の代わりに。
メルェという少女が、この屋敷で確かに笑っていたことを。
リアノ自身が、二人と共に温かな時間を過ごしたことを。
そして、かつてのレイズが確かにここで生きていたことを証明する、たった一つの宝物だった。
リアノは部屋の奥へ進み、人目につかない場所へ絵を立てかけた。
破れ目の多い肖像画を見つめながら、小さく微笑む。
「……大丈夫です」
声は僅かに震えていた。
「レイズ様が忘れてしまっても……私が覚えていますから」
静かな部屋へ、言葉が溶けていく。
「メルェがいたことも、三人で笑っていたことも……あの日のレイズ様が、どんな方だったのかも。私は、絶対に忘れません」
微笑みを保とうとした。
けれど、目の奥へ滲んだ涙までは抑えることができなかった。
視界の中で、破れた絵が揺らぐ。
その揺らぎに重なるように、遠い日の情景が鮮明に浮かび上がってきた。
まだ幼かったレイズが、メルェを笑わせようと無邪気に振る舞っていた頃。
暗く怯え、他者の顔色ばかり窺っていたメルェ。
その胸の奥へ沈んでいた冷たすぎる感情を温めようと、レイズは意識することすらなく手を伸ばしていた。
相手が魔族であることなど、彼にとっては大した問題ではなかった。
人間と魔族。
本来ならば容易に越えることのできない隔たり。
それすらも、幼いレイズの前では最初から存在しないもののように扱われていた。
少なくとも、あの時間の中では。
アルバードの屋敷には、種族の違いなど忘れてしまえるほど穏やかな空気が、確かに育ち始めていたのだ。
メルェは、そんなレイズへ少しずつ心を開いていった。
怯えて俯いていた少女が、彼の前では笑うようになった。
名前を呼び。
追いかけ。
隣へ座りたがるようになった。
そしてリアノもまた、レイズへ抱く感情が、ただ主人へ向ける忠誠だけではないことに気づき始めていた。
当時の彼女には、その感情へ名をつけることなどできなかった。
ただ、レイズが笑えば嬉しかった。
傷つけば苦しかった。
誰かのために無茶をすれば、止めたいと思った。
傍で支えられる存在になりたいと、強く願った。
あの頃の時間は、本当に温かかった。
だからこそ。
リアノは、その温かさを忘れるわけにはいかなかった。
記憶の中で、幼いレイズの声が響く。
「リリアナ!」
遠慮などまるでない、大きな呼び声。
机へ向かっていたリリアナは筆を置き、振り返る。
「はいはい。今度はどうしましたか?」
「リリアナって、絵を描けるよね?」
期待に満ちた顔で問いかけるレイズへ、リリアナは少しだけ困ったように笑った。
「描けるというほどではありません…。人並みに、少し嗜んでいる程度です」
その言葉を聞いたリアノは、素直に目を輝かせた。
「すごいです……。リリアナ様は、本当に何でもおできになるのですね」
「そんなことはありません。リアノが少し大げさなのです」
メルェは二人の会話を交互に見たあと、元気よく手を挙げた。
「はい! レイズくん!」
「どうした、メルェ?」
「絵って、なんなのー?」
あまりにも素直な疑問だった。
レイズは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑い始める。
「そっか。メルェは見たことないのか」
「ないよ!」
「絵っていうのはな、紙の中に人とか景色を残すんだよ」
「紙の中に入るの?」
「違う違う。本人が入るわけじゃなくて、本人そっくりに描くんだ!」
「そっくり?」
「完成したら分かるよ!」
二人が身分など忘れたように話していると、リアノは少し困った顔で口を挟んだ。
「メルェ。レイズ様は、いずれアルバードを背負う、とても偉いお方です。ですから、その口調はもう少し……」
しかしレイズは、気にした様子もなく笑った。
「リリアナの前なら大丈夫だよ。な?」
同意を求められたリリアナは、呆れたように息を吐く。
「私に許可を求めないでください」
レイズはすかさず。
「でも、セバスやおじいさまの前では気をつけてくれよ?」
レイズは周囲を気にするように声を潜めた。
「二人とも怒ると、すっごく怖いんだから!」
「レイズ」
リリアナが静かに名前を呼ぶ。
それだけで、レイズの肩が僅かに跳ねた。
「な、なんだよ」
「お二人が怖いのではなく、貴方が叱られるようなことばかりしているのではありませんか?」
「そんなことないよ!」
「昨日も、厨房から焼き菓子を勝手に持ち出したと聞きましたが」
「あれはメルェに食べさせようと思っただけだよ!」
「先に料理長へ一言伝えればよかったでしょう?」
「言ったら駄目って言われると思ったから……」
「つまり、悪いことだと分かっていたのですか?」
「うっ……」
言葉に詰まるレイズを見て、メルェが不安そうに首を傾げる。
「わたし、お菓子食べたらだめだったの?」
「メルェは悪くありませんよ」
リリアナはすぐに優しい声へ戻った。
「ですが、レイズはもう少し周りを心配させないようにしなければいけません。貴方に何かあれば、ヴィル様もセバスも、本当に悲しまれるのですから」
「でも、おじいさまはいつも厳しいことばっかり言うんだよ」
レイズは頬を膨らませた。
「木刀だって持たせてくれないし。僕だって早く強くなりたいのに」
「木刀を持つことだけが、強くなるということではありませんから…」
リリアナは椅子から立ち上がり、レイズの前まで歩み寄る。
「戦うための強さは、まだ貴方が学ぶ段階ではないということです」
「じゃあ、今は何を学ぶんだよ!」
「守るものを守るための強さです」
レイズはよく分からないという顔で瞬きをした。
「同じじゃないのか?」
「全然違うのよ。」
リリアナは僅かに膝を曲げ、レイズと同じ目線へ下りた。
「敵を倒すことだけを考えるなら、必要なのは剣や魔法かもしれません。ですが、誰かを守るためには、それだけでは足りないのです」
「どうして?」
「誰を守りたいのか。そのために何をしなければならないのか。自分が倒れてしまえば、残された者がどうなるのか。そういうことを考えられなければ、本当の意味で誰かを守ることはできません」
幼いレイズに、そのすべてが理解できたわけではなかった。
それでも彼は、リリアナの言葉を真剣に聞いていた。
「だから今は、焦らずに学んでください。人の話を聞くこと。自分の立場を知ること。そして、自分を大切にすること。それもすべて、守るための強さなのです」
少しの間、考え込んでいたレイズは、やがて強く首を振った。
「やだ!」
「レイズ?」
「僕だって、おじいさまみたいに強くなるんだ!」
拳を握りしめ、胸を張る。
「剣も持てるようになって、魔法も使えるようになって、いつかみんなを守れるくらい強くなるんだから!」
リリアナは困ったように笑った。
「本当に……誰に似たのでしょうか」
その言葉の奥に、僅かな懐かしさが含まれていたことを、当時の三人は気づかなかった。
メルェもレイズの隣で元気よく手を挙げる。
「わたしも!」
「メルェも?」
「うん! わたしも、レイズくんを守れるように頑張るから!」
「本当か?」
「ほんと!」
二人が顔を見合わせて笑う。
その様子を見つめていたリアノも、胸の前で両手を握った。
「それでしたら、私も……そのときには、必ずレイズ様を支えられるようになります」
「三人とも、随分と気が早いですね」
リリアナは優しく笑う。
「急ぐ必要など、本当にありません。貴方たちには、これから長い時間があるのですから」
そう言いながら、机の上へ紙を広げた。
「ほら。三人とも絵を描いてあげますから、そこへ並んでください」
「絵……?」
メルェはまだよく分かっていない顔で紙を覗き込む。
レイズは得意げに笑い、メルェの背中を押した。
「だから、完成したら分かるって。ほら、リアノもこっち」
「私もよろしいのですか?」
「当たり前だろ。三人の絵なんだから」
「三人の……」
リアノはその言葉を胸の中で繰り返した。
主人と使用人。
人間と魔族。
本来ならば、同じ一枚の絵に並ぶことなど不自然に思われてもおかしくはない。
けれどレイズにとっては、それが当然だった。
三人で過ごした時間を残す。
ただそれだけのことだった。
「リリアナ、分かってるよね…?」
「何がですか?」
レイズは自分の腹へ視線を落とし、少しだけ気まずそうに告げた。
「僕を、もう少し細く描いてね?」
リリアナは一瞬だけ沈黙した。
リアノは慌てて否定する。
「レイズ様は、十分に細いと思います」
「リアノ。そういうときは正直に言っていいんだぞ!」
「私は正直に申し上げています!」
「それと、様はいらないから!」
「え?」
「メルェみたいに、レイズくんでいいよ」
あまりにも軽く告げられた言葉に、リアノの顔が一気に赤くなった。
「そ、それはできません! レイズ様は、私の主人となるお方ですから」
「でも、メルェはくんって呼んでるぞ」
「メルェは……その……」
助けを求めるようにリリアナを見る。
しかしリリアナは、面白そうに微笑んでいるだけだった。
「三人しかいないときなら、よいのではありませんか?」
「リリアナ様まで……!」
「ほら、リリアナもいいって言ってる」
「よいとは言っていません。ただ、レイズがどうしても望むのであれば、三人だけのときに限っては構わないのではないかと」
「じゃあ決まり!」
「ま、待ってください。私はまだ……」
「リアノ」
レイズが期待に満ちた目を向ける。
その視線を正面から受け、リアノは何も言えなくなった。
「……レ、レイズ……くん」
消えてしまいそうな声だった。
けれどレイズは満足そうに笑う。
「うん!いいね!」
その笑顔を見た瞬間、リアノの胸の奥へ、これまで知らなかった温かさが広がった。
メルェも楽しそうに笑いながら、リアノの腕へ抱きつく。
「リアノも、レイズくんって呼んだ!」
「こ、これは三人のときだけですからね」
「分かってるよ」
「本当ですか?」
「本当、本当」
「レイズは、そう言って約束を破ることがありますから」
リリアナの冷静な指摘に、レイズは口を尖らせる。
「今日は破らないよ!?」
「今日だけなのですか?」
「そういう意味じゃない!」
三人の笑い声が、穏やかな部屋へ広がっていく。
リリアナはその姿を見つめながら、ゆっくりと筆を動かし始めた。
「では描きますから、少しだけ動かないでください」
「どれくらい?」
「終わるまでです」
「長い?」
「レイズが動かなければ、早く終わります」
「じゃあ動かない!」
そう宣言してから、僅か数秒。
「メルェ、前向けよ」
「レイズくんも動いてるよ」
「僕はいいんだよ!」
「よくありません…」
リリアナの声に、三人は慌てて姿勢を正す。
それでも少しすれば、また誰かが動き、誰かが笑い出した。
絵を描くには、あまりにも落ち着きのない三人。
けれど、リリアナは一度も本気で怒らなかった。
紙の上へ残されていく三人の姿は、完璧に整った肖像などではなかった。
レイズは少し得意げに胸を張り。
メルェは満面の笑みを浮かべ。
リアノは緊張しながらも、二人の隣で穏やかに微笑んでいる。
それは身分を示すための肖像画でもなければ、アルバード家の威厳を示すためのものでもない。
三人が、ただ三人としてそこに存在していたことを残すための絵だった。
あまりにも温かく。
何も失われていなかった頃の、かけがえのない時間。
「できましたよ」
リリアナが告げると、三人は一斉に紙へ駆け寄った。
「わぁ……!」
初めて絵を見たメルェは、目を大きく見開いた。
「これ、わたし?」
「そうですよ」
「レイズくんもいる!」
「リアノもいるぞ」
レイズは満足そうに頷いたあと、絵の中の自分をじっと見つめた。
「……リリアナ」
「何でしょうか」
「細くなってない…」
「ありのままに描きましたから」
「もう少しくらい細くしてくれてもいいだろ!」
「真実を残すことも、絵の役割です。」
「そんな役割は今はいらない!」
不満そうに叫ぶレイズの隣で、メルェとリアノは楽しそうに笑っていた。
その光景は。
その時間は。
いつまでも続いていくものだと、リアノは信じていた。
明日も。
その次の日も。
三人で笑い合うことができるのだと。
けれど――。
まるで夢が突然終わるように、情景はリアノの脳裏から消え去った。
目の前へ戻ってきたのは、静かな部屋
そして、何本もの亀裂によって引き裂かれた肖像画。
「…………」
リアノは絵の前へ膝をついたまま、しばらく動けなかった。
あの頃のレイズは、もういない。
メルェもここにはいない。
リリアナの声も、三人の笑い声も、今では記憶の中にしか残されていない。
絵の中では三人が並んでいる。
けれど現実では、そのすべてが引き離されてしまった。
「必ず……」
リアノの唇から、掠れた声が零れる。
「私も……必ず、レイズ様を……」
最後まで言葉にすることはできなかった。
守ると誓った。
支えると約束した。
あの日、まだ幼かった自分は、何も知らずにそう口にした。
けれど現実の自分は、何一つ守ることができなかった。
レイズの記憶も。
メルェの笑顔も。
三人で過ごした、温かな場所さえも。
「ごめんなさい……」
絵の中の少年へ向けるように、リアノは呟いた。
「私は……何も、守れませんでした」
堪えていた涙が頬を伝う。
一滴。
また一滴。
絵を濡らさないよう、慌てて顔を背ける。
けれど涙は止まらなかった。
「それでも……今度こそ…」
拳を強く握りしめる。
「今度こそ、必ず支えます。たとえ、あの日のことをレイズ様が思い出さなくても。私のことを、あの頃と同じように見てくださらなくても……」
胸が痛かった。
忘れられていることが、悲しくないはずがない。
けれど、それを理由にレイズを責めることなどできなかった。
忘れたくて忘れたのではない。
誰よりも大切にしていたものを失い、その事実すら知らぬまま、今を懸命に生きようとしている。
ならば自分がするべきことは、過去を押しつけることではない。
今のレイズを支えること。
彼がもう一度、誰かを守りたいと思えるように。
今度こそ、その隣で力になること。
「……大丈夫です」
リアノはもう一度、絵へ向かって微笑んだ。
涙に濡れた、ひどく不器用な笑顔だった。
「私が覚えていますから。レイズ様が、決して間違えてなかったことも。メルェを笑顔にしたことも……私に、未来を願わせてくださったことも」
裂けた絵の向こうで、幼いレイズが笑っている。
失われた部分があっても
完全な姿へ戻らなくても。
それでも、その笑顔だけは確かに残っていた。
「だから……もう一度、必ず」
リアノは肖像画を胸元へ抱き寄せた。
「私は、貴方を支えます」
誰にも聞かれることのない誓い。
けれど、それは幼い日に交わした約束の続きを、もう一度始めるための言葉だった。
リアノはしばらくの間、悔し涙を流し続けた。
失われた時間を惜しむように。
守れなかったものへ謝るように。
それでも最後には、絵を抱く腕へ力を込める。
過去を取り戻すことはできない。
破れた絵も、完全には元へ戻らない。
だが、繋ぎ合わせることはできる。
失われた部分を抱えたままでも、残されたものを守り続けることはできる。
それは、今のレイズも同じだった。
記憶を失い。
過去の自分を忘れ。
かつて持っていた多くのものを失っている。
それでも彼は、再び前へ進もうとしている。
ならばリアノも、立ち止まっているわけにはいかない。
いつの日か。
レイズが自分の過去と向き合うことになったとき。
この絵を見せられる日が来たなら。
そのときは、すべてを話そう。
三人で笑ったこと。
メルェが彼を慕っていたこと。
そしてリアノ自身も、主人としてだけではない特別な想いを、幼い頃から抱いていたことを。
だが今はまだ。
この絵は、彼女だけの秘密だった。
失われた時間を抱きしめ。
未来へ進むために守られる、小さな宝物。
静かな部屋の中。
肖像画の三人は、今も変わらず笑っていた。




