樹界
レアリスに引っ張られるように、ジークは奥へ奥へと連れていかれていた。逃げようにも、いまの自分にそれが不可能であることは、ジーク自身が一番よくわかっている。身体はいうことをきかず、力も思うように使えず、ただ一方的に連行されていくしかない。その屈辱に歯を噛みしめながら、ジークは低く唸った。
「……よせ……」
自分でも何を制したいのかわからないまま、言葉だけが漏れる。そんなジークの声に、レアリスは振り返り、不思議そうに首を傾げた。
「逃げない……?」
あまりにも場違いな問いだった。ジークは乾いた笑みを浮かべる。
「逃げられると……思うか……?」
レアリスは少し考える素振りを見せ、それから素直に答える。
「無理……でも、ダメ」
レアリスにもわかっているのだ。ジークがこの場から逃げることなど不可能であることも、自分がこうして拘束しなくても結末は変わらないことも。だが、それでも拘束を解かない。あえて解かない。身体にはすでにわからせた。なら次は心にわからせる。そして最後は魂に理解させる。どのような形になろうと、自分からは逃がさない。そんな意思が、何気ない一言の奥に冷たく沈んでいた。
圧倒的すぎる捕獲だった。圧倒的すぎる拘束だった。どれも決して手を抜かない。逃げられないと知ってなお拘束し続けるその在り方に、ジークはぞっとする。力の差だけではない。そこには執拗さがあった。理解させるまで終わらせないという、奇妙な徹底があった。
レアリスは前を向いたまま、小さく言う。
「でも……もう少しでつくから……ね?」
ジークは歯ぎしりしながら周囲を見渡した。見えるのは見慣れぬ景色、感じるのはただ異様な気配だけだ。
「一体ここはどこなんだ……。何を……させるつもりだ……」
レアリスは歩みを止めずに答える。
「私が、貴方……直してあげる。貴女もね……?」
その言葉の意味は、ジークにもわかった。禁忌まで犯して自分に深く絡み合ったアルティナの魂と、自分の魂を分ける。そういう意味なのだろう。だが、そんなことが本当に可能だとは到底思えなかった。
「そんなの……できるわけないだろう……」
レアリスはあっさりと言う。
「私には…できない。でも、この体はできる……よ?」
ジークは眉をひそめた。意味がわからない。レアリスにはできないのに、レアリスの体ならできる。その言い回しは、まるで自分と体とが別物であるかのようで、しかもその答えの形は、どこか魔女の依代を思わせた。ジークは低く問い返す。
「……つまり、お前は誰かの体を乗っ取っているというのか……?」
レアリスはその言葉にまた首を傾げる。
「乗っ取る……?」
少し考えてから、首を横に振る。
「私は……食べさせた……。お腹いっぱいに……」
ジークは目を細める。
「食べ……?」
レアリスは自分の胸元へ手を当て、静かに続けた。
「この子に、ディアに、たくさん私のすべてを食べさせた……。それで、いまの私もディアも生まれたから……」
ジークは一瞬、言葉を失った。自分の一部を喰わせるどころではない。すべてを食わせたというのか。そんな行為は、狂気と紙一重だ。いや、紙一重ですらない。もし少しでも噛み合わなければ、食われて終わりだったかもしれない。
「とんでもないことをするな……。食われて終わりだったかもしれないというのに……」
だがレアリスは穏やかに言う。
「お互いに足りないもの……与えた……から」
その声音に後悔はない。恐れも、迷いもない。ただそうするしかなかったのだとでもいうような自然さだけがある。その自然さこそが、ジークには不気味だった。
ジークはしばし黙り込んだあと、話を戻すように口を開いた。
「それで……ここは?」
レアリスは前方を指差した。
「ジュラ……ジュラの樹界」
ジークは聞き返す。
「樹海……?」
レアリスは首を振る。
「樹界……」
樹海と樹界。言葉にすればほとんど同じ響きだ。だが、レアリスの言っている“じゅかい”と、ジークが思い浮かべた“じゅかい”は、まるで別物なのだと、その訂正の仕方だけで直感させられる。森ではない。海でもない。もっと別の、何か境界そのもののような場所なのだと。
そこは、ジークの知る“樹海”ではなかった。
木が生い茂る場所。
木々が根を張り、土に支えられ、空へ向かって伸びていく場所。
ジークが思い浮かべていたものは、そういう普通の森の延長だった。
だが、目の前に広がっていたのは、そんな理解を一瞬で踏み砕く光景だった。
樹界。
そこは、樹が自由な形として成り立つ場所だった。
岩のような形をした木がある。
その表面はごつごつと荒く、遠目には完全に岩にしか見えない。だが近づけば、その割れ目のひとつひとつに木目が走っており、内側から淡く樹液のような光がにじんでいる。
机の形をした木がある。
四本の脚を持ち、平らな天板を支えている。まるで誰かが道具として削り出したような完成された形をしているのに、継ぎ目も切断面もなく、一本の木としてそこに生えていた。しかも、時折その脚がきしむようにわずかに動き、まるで生き物が立ち位置を直すように姿勢を変える。
人のような形をした木もあった。
腕があり、脚があり、首があり、顔のような凹凸まである。だがそれは人ではない。目があるべき場所には節があり、口のあるべき場所には縦に裂けた樹皮があるだけだ。それでも、遠くから見れば、そこに誰かが立ってこちらを見ているような錯覚を覚えた。
土も、木だった。
足元を踏みしめるたび、ぐしゃりでも、ざくりでもない、乾いた繊維を圧するような音が鳴る。地面の表面は一見すれば土のように柔らかく、細かい粒が重なっているように見える。だがよく見れば、そのひと粒ひと粒が、細かく砕けた木片であり、さらにその下には層のように何重にも木目が走っていた。
色も異様だった。
茶や緑だけではない。
紫の木があり、青白い木があり、赤黒く脈打つ木があり、金属のような銀色をした木もある。どれも本来の木とは思えない色彩をしている。だが、それでもすべてが木だった。節があり、年輪があり、樹液の流れがあり、枝があり、根がある。
空気に漂う匂いも、森のそれではなかった。
青草の匂いではない。
湿った土の匂いでもない。
削りたての木材の匂いと、古びた家具の匂いと、生木の青臭さと、樹液の甘さと、何かが朽ちているような匂いが、すべて混ざり合っていた。
ジークは思わず足を止めた。
「……なんだ……これは……」
それは驚愕というより、理解の拒絶だった。
見えている。
形としてはわかる。
だが脳が、それをどう認識していいのか決められない。
レアリスは構わず歩いていく。
「樹界……だよ?」
あまりにも当然のように言うその声音に、ジークは苛立ち混じりに言い返した。
「見ればわかる……! そういう意味じゃない!」
視線を巡らせる。
あちらにも木。
こちらにも木。
上を見ても、空にまで枝のようなものが走っている。
空そのものが、巨大な樹皮の裏側のようにも見えた。
「こんなもの……森でも、樹海でもない……」
レアリスは少しだけ振り返る。
「だから……樹界……」
その言い方は、まるで“違っていて当たり前”だと言わんばかりだった。
ジークは奥歯を噛む。
ここは異常だ。
ただ景色が奇妙なだけではない。
生えている樹々のすべてに、妙な圧がある。
目には見えないのに、そこに意思があるような。
いや、意思というより、“在り方”そのものを主張してくるような圧力。
足元の木の土が、じわりとわずかに沈む。
否、沈んだのではない。
こちらの重さに合わせて、繊維が編み直されたように形を変えたのだ。
ジークは一歩後ずさる。
「……生きているのか」
その呟きに、レアリスは少し考えてから答えた。
「生きてる……というより……そのまま……かな…?」
「そのまま……?」
「樹が、樹として、自由に在る場所……」
自由。
その言葉が、ジークには妙に引っかかった。
自由に在る。
つまり、木は木らしくあらねばならない、という常識すらここにはないのだ。
立っている必要も。
天へ伸びる必要も。
葉をつける必要もない。
机でも、岩でも、人でも、ただ“木として成り立てばいい”。
だからここは、樹界。
樹の世界ではなく、樹という概念が自由に形を得る界。
ジークは舌打ちした。
「ふざけた場所だ……」
すると、近くにあった“人の形をした木”が、ぎし、と音を立てた。
ジークの背筋が強張る。
木はゆっくりと首を傾ける。
いや、首のような部分が軋み、こちらを向いたように見えた。
節のある顔。
裂け目のような口。
何もないはずのそこから、低く、木が擦れるような音が漏れる。
ジークは反射的に身構えた。
「……動くのか」
レアリスは平然としている。
「うん……動くよ…?」
「先に言え!!」
ジークが怒鳴ると、その“人の木”はまた、ぎしぎしと体を鳴らした。
まるで笑っているかのように。
さらに周囲を見ると、岩のような木の表面にも、机の形をした木の脚にも、無数の細かな節が脈打つように揺れている。
静止していたのではない。
あまりにも自然にそこに在ったせいで、気づかなかっただけだ。
ここにあるものはすべて、ただの景色ではない。
見ている。
感じている。
そして、この異物――ジークを、確かに認識している。
ジークは低く唸った。
「……気味が悪い」
レアリスは歩みを止めない。
「大丈夫……」
「何がだ!!」
「まだ……見てるだけ……だから」
「まだ……?」
その言葉に、ジークはぞくりとした。
その時だった。
前方に広がる“木の地面”が、音もなく盛り上がる。
土のように見えていた木片の層が、波のように持ち上がり、ゆっくりと形を変えていく。
四つの脚。
長い首。
角のように枝分かれした突起。
それは獣の形をした木だった。
鹿に似ている。
だが、その体表は年輪の模様で覆われ、目の部分には透明な樹液が溜まっている。
木でできているのに、呼吸するように胸部が上下していた。
ジークは思わず一歩退いた。
「……なんだ、こいつは」
木の獣は、ゆっくりとレアリスのそばへ寄る。
そして頭を擦り寄せるように、枝の角を彼女の肩に触れさせた。
レアリスはその角を撫でる。
「いい子……」
ジークは目を見開いた。
「懐いている……?」
「うん……」
レアリスは当然のように答える。
「ここ、好き……だから」
その答えがまた、ジークには理解できない。
好きだから。そんな単純な理由で、この異様な世界にこれほど自然に馴染めるものなのか。
木の獣は今度はジークの方を向いた。
節だらけの顔。
透明な樹液の瞳。
そこに敵意はない。
だが、好意もない。
ただ観察している。
値踏みするように。
ジークは思わず身を固くした。
「こいつも……お前の言うことを聞くのか」
レアリスは少し考える。
「言うこと……というより……わかってくれる」
「なんだそれは……」
ジークは苛立つ。
何を聞いても曖昧だ。
だが、その曖昧さの中にこそ、レアリスとこの場所の関係の深さがあるのだと直感してしまうのが、なおさら不快だった。
レアリスは木の獣の首筋を撫でながら、前を見た。
「もう少し……奥……」
「まだ行くのか……」
「うん……直すから……」
ジークは苦々しく息を吐く。
「本気で、アルティナを引き剥がすつもりなのだな……」
レアリスは否定しない。
ただ静かに歩き出す。
木の獣もついてくる。
周囲の樹々が、まるで道を譲るように、少しずつ形を変えていく。
机の木が脚を折りたたんで低くなり、岩の木が横へ滑るようにずれ、人の形をした木々が枝の腕を引いて道を広げる。
ジークは、その光景にまた息を呑んだ。
この世界は、ただ木でできているのではない。
木そのものが、世界として意思を持って動いている。
ジュラの樹界。
その名の意味を、ジークはようやく理解し始めていた。
ここは森ではない。
世界そのものが樹なのだ。
そしてレアリスは、その中心へ向かっている。
ジークは嫌な予感を抑えきれなかった。
「……おい」
「今度はなんだ……」
レアリスは振り返らない。
ジークは、前方のさらに奥、木々の向こうに見え始めた巨大な影を睨みながら言った。
「お前……どこへ連れていく気だ」
木々の隙間の奥。
そこには、山のように大きな“何か”があった。
幹なのか。
建造物なのか。
生き物なのか。
遠すぎてまだわからない。
だが一つだけ確かなのは、それがこの樹界の中でも明らかに格が違う存在だということだった。
レアリスは、その巨大な影をまっすぐ見つめたまま、静かに答える。
「いちばん……奥……」
その声は、いつも通り穏やかだった。
「ここで……いちばん、分けるのが上手な場所……」
ジークの喉がひくりと鳴る。
「上手……?」
「うん……」
レアリスは小さく頷いた。
「樹界は……形をわける場所でもあるから……」
その意味を、ジークはすぐには理解できなかった。
だが、わからないままのほうがよかったのかもしれないと、胸の奥で何かが警鐘を鳴らしていた。
それでも、レアリスの歩みは止まらない。
木の獣が先導し、木の道が開かれ、異形の樹々が見送る中を、二人はさらに奥へと進んでいく。
そしてジークは、これから自分が目にするものが、ただの景色の異様さなどでは済まないのだと、ようやく理解し始めていた。
そしてその違いは、このあと広がる景色を見て、ジークがすぐに理解することになるのだった。




