本当の名前。
そんなお通夜のような空気が、アルバードの屋敷全体をゆっくりと覆っていた。
誰も大きな声を出さない。
誰も軽口を叩かない。
いつもなら誰かが何かを言って、その誰かに別の誰かが反応して、少しずつ空気が動いていくはずなのに、今はそれがない。
暖炉の火の音だけが、やけに大きく聞こえる。
さっきまで、確かにここにいた。
本当のレイズがいた。
レイズであって、レイズではなかった存在ではない。
今ここにいるレイズともまた違う。
アルバードで生まれ、アルバードで歪み、アルバードを失い、それでも最後までアルバードを想っていた、本当のレイズ。
その存在が、今はもういない。
それが、部屋の中の全員に痛いほどわかっていた。
静まり返った部屋の中で、レイズがぽつりと言葉を落とした。
「みんな……ありがとう」
その声は、いつものようでいて、いつもよりも少しだけ低く、少しだけ柔らかかった。
レイズはゆっくりと周囲を見渡した。
ひとりひとりの顔を、確かめるように。
イザベル。
リアノ。
リアナ。
クリス。
皆、泣いていた。
泣き方はそれぞれ違う。
声を殺している者もいれば、目元だけを濡らしている者もいる。
けれど、失ったものの大きさだけは、誰にも同じように重くのしかかっていた。
レイズは小さく息をつき、それから続けた。
「これで、心置きなくあいつは……行けたんだよな」
その言葉の意味を、ここにいる誰も完全には理解していない。
無の世界で、今もなお賑やかなやり取りが行われていることなど――もちろん、知る由もない。
あちらでは、レイズの魂が、ニトやウルティアやディアブロに振り回され、想像もしていなかった方向へ話が進んでいる。
けれど、この場にいる彼らが知っているのは、ただ一つ。
本当のレイズは、もうここにはいない。
それだけだった。
リアナは涙を流しながら、何度も何度も小さく頷いた。
「もう……行くって……わかってましたから……」
その声は震えていた。
覚悟していた。
わかっていた。
頭では、ずっと前から、そうなるのだと理解していた。
けれど、理解していることと、受け入れられることは違う。
リアナの目からまた一筋、涙がこぼれる。
「わかってたのに……やっぱり……つらいです……」
クリスは静かに目を伏せたまま、低く言った。
「立派でしたね」
その短い言葉に、彼なりの敬意がすべて込められていた。
レイズは小さく笑った。
笑ったが、その笑みも長くは続かない。
「ああ」
そして、少し言葉を探すように視線を落とした。
「あいつは……」
喉の奥で何かがつかえる。
それでも、言わなければならないと、自分に言い聞かせるように。
「ちゃんと、レイズは……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
イザベルが震える声で言う。
「寂しいよ……」
その一言は、責めるでも、すがるでも、慰めるでもなかった。
ただただ、本音だった。
「レイズ……」
幼い頃から知っていた。
遠いようでいて近かった従兄弟。
近いようでいて、ずっと遠かった存在。
ようやく話ができた。
ようやく、ちゃんと顔を見て、言葉を交わせた。
なのに。
イザベルは唇を噛んだ。
「やっと……やっと話せたのに……」
その先は、言葉にならなかった。
リアノもまた、深く頭を下げる。
「レイズ様……どうか……心安らぐままに……」
その祈りは、どこまでもリアノらしかった。
最後まで、自分の感情を押しつけるのではなく、相手の安らぎを願う。
泣いているのに。
本当は、いなくならないでほしいと叫びたいはずなのに。
それでもリアノは、最後までレイズの心を優先しようとしていた。
その場にいる誰もが、同じ想いを胸にしていた。
どこかへ消えていったレイズ。
その背中を思い浮かべながら、皆が静かに目を伏せる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ただ、暖炉の火がぱちりと音を立てる。
レイズはその沈黙の中で、何かを決めたように顔を上げた。
「……それじゃあ」
その一言で、皆の視線が彼に集まる。
「みんなに大事な話がある」
イザベルが顔を上げた。
目元は赤く、声にはまだ涙が残っている。
「こんな時に……なによ……?」
責めるような響きが少しだけ混じる。
けれどそれは、本気で責めているのではない。
これ以上、何か重いものを聞きたくない。
そういう弱さの表れだった。
レイズは頭をかきながら言った。
「ああ」
「俺の中に、少し混ざっていたレイズが完全にいなくなったから……わかったんだけどな」
そこまで言って、一度だけ息をつく。
言いにくい。
自分でもそう思う。
けれど、今ここで言わなければ、もう二度と言えなくなるような気がした。
だから、ゆっくりと、ひとつずつ言葉を置くように告げる。
「俺は、やっぱりレイズじゃない」
イザベルがすぐに言い返した。
「またそんなこと言って!!」
声を荒げたのは、怒っているからではない。
怖かったのだ。
また何かを失う気がして。
また大事なものを名前ごと、意味ごと、遠くへやってしまうような気がして。
レイズは首を横に振る。
「今回ばかりは違うんだ」
「完全に……俺はレイズじゃなくなってる」
リアノが戸惑う。
「なにを……」
レイズは少しだけ照れくさそうに笑った。
いつものような、どこか力の抜けた笑い方。
だがその笑みにも、今日は妙な緊張がある。
「俺はちゃんと名前がある」
「レイズ・アルバードじゃない」
「ちゃんと別の名前がさ」
クリスが静かに呟く。
「……本当のレイズ様の名前……」
その言葉に部屋の空気が変わる。
ここにいるのは、今まで“レイズ”として受け入れていた存在だ。
だが彼自身が、“自分はレイズではない”と認めようとしている。
ならば、彼の本当の名前は何なのか。
レイズは頷く。
「ああ」
「俺の名前は――」
その瞬間。
イザベルが叫んだ。
「やめて!!」
涙をこぼしながら、一歩前へ出る。
「いまここにいるんだから!!」
「あなたが!!」
「あなたがレイズなの!!」
「レイナのお父さんなんでしょ!!」
その叫びには、必死さが滲んでいた。
名前を変えられたら、遠くに行ってしまう気がした。
レイズではなく別人だと確定してしまう気がした。
そうなったら、これまで過ごしてきた時間の意味まで変わってしまうようで、怖かった。
レイズは少し困ったように笑う。
「……そうだけどな」
それから、逃げるのをやめるように、ゆっくりと言った。
「俺の名前は――零」
「レイっていうんだ」
その名前に、リアナが目を見開いた。
「その名前は……」
「レイズ様の……祖母様の名前では?」
零は肩をすくめて笑う。
「ああ」
「不思議なことにな」
「俺も“零”なんだ」
「偶然だよな」
口では偶然だと言う。
だが、その偶然の重なりを、彼自身がただの偶然だと割り切れていないことは、表情を見ればわかった。
零は少しだけ遠くを見る。
「それにな」
「俺には妹がいるんだ」
イザベルは顔を背けた。
「もういい!!」
「そんな話!!」
「知りたくない!」
拒絶だった。
聞きたくない。
これ以上、この人が自分たちの知るレイズではないと証明されるような話を聞きたくなかった。
だがリアナは、静かに尋ねた。
「妹の名前は……?」
零は少し笑った。
「零菜」
「レイナって名前なんだ」
イザベルが固まる。
「……どういうことよ……」
声がかすれる。
冗談では済まない一致だった。
零は頭をかいた。
「俺にもよくわからない」
「たぶん偶然なんだと思う」
そう言いながらも、その顔には納得しきれない色がある。
少し恥ずかしそうに笑ってみせる。
「でもさ」
「なんだか嬉しくてな」
イザベルが小さく言う。
「……嬉しい……?」
零は頷いた。
「ああ」
「あっちの世界にも零菜がいて」
「こっちにもレイナがいる」
「不思議と繋がりを感じるんだ」
そして真面目な顔になる。
「俺は……どうにも」
「これが、この世界と無関係とは思えない」
部屋が静まり返る。
クリスもリアノもリアナも、ただ黙って零を見ていた。
零は続ける。
「たぶんだけど」
「この世界と、俺のいた世界は……何か繋がりがある」
イザベルが聞く。
「どんな繋がり……?」
零は少し笑った。
「もしかしたらさ」
「この世界の、もっともっとずっと未来が」
「零としての俺なんじゃないかって」
イザベルは呆然とする。
「そんな……」
「そんなこと……あるの……?」
零は肩をすくめた。
「俺の世界じゃ」
「魔法も魔力も精霊も」
「全部ただの物語の話なんだ」
「誰も使えない」
クリスが考え込む。
「それはつまり……」
「遥か未来では、それらが消えている……ということですか」
零は頷く。
「もしこの世界と繋がってるなら」
「俺がここにいる理由も」
「少しは説明がつく気がする」
そして少し笑った。
「レイズも」
「イザベルも」
「もしかしたら」
「俺の遠い遠い先祖なのかもしれないな」
けれどそこで終わらなかった。
イザベルは静かに口を開いた。
「ここと……レイズの世界は同じってこと……?」
零は少し困ったように笑う。
「同じかどうかは正直まったくわからない」
「でもここはどうしても現実なんだ」
イザベルは眉をひそめた。
「現実ってなによ……」
零はゆっくりと言う。
「俺の世界ではこの世界は仮想世界だ。誰かが想像した場所なんだ。そして俺はその世界に今こうして生きてる。でも想像された世界だなんて到底思えない」
リアナはすぐに言った。
「そうですよ!? ここは現実です!」
クリスも静かに頷く。
「現実でしかありません」
リアノは少し前へ出る。
「レイズくんの世界について……もっと知りたいです」
イザベルは零を見つめる。
「それで、あなたはもっと遠い未来のレイズって言いたいの?」
零は頷いた。
「そうだ。今から何千年という未来かもしれない。もしそうだったとしたら、きっとこの世界から魔法なんて概念も、魔力なんてのも、魂についてもすべて無い」
イザベルは驚く。
「それでどうやって生きていけるのよ……」
零は笑った。
「魔法がなくても生きていける。それも逆に言えば平等な世界とも言える」
クリスが首を傾げる。
「平等……ですか?」
零は頷く。
「だってさ、この世界ではあまりにも個人が力を持ちすぎてる。生きてる人々に、生きてる魔族に、全部みんなそんなに大きな力の差は生まれない。権力とかはまた別だが、人一人で何かできる? そんな世界じゃない」
零は続ける。
「みんなで支え助け合う。望んでなくてもそうしなくては生きていけない。そんな世界がある」
イザベルは少し苛立つ。
「それで……ほんとにそんな世界があったとして……それが何になるの……?」
零は小さく笑った。
「俺がここにいる意味は、この世界を俺の世界と同じ道筋に導くことなのかもしれない」
部屋が静まり返る。
零はゆっくり続ける。
「あまりにもおかしいんだ。俺にすべてが都合よく、強いやつが、強い力が、そして真実が収束している」
零は少し遠くを見る。
「俺は本当はこの仮想と思っていた世界のアルバードを、レイズをただ主役にしたくて、そして救いたくてここにあるんだと思っていた。でもそれも違うんだ。アルバードを救えば終わりじゃなかった」
零は静かに言う。
「じゃあ俺にとっての終わりはなんなのか」
イザベルやリアナ、リアノを見る。
「イザベルやリアナ、リアノと幸せな環境を過ごせばそれで終わりなのか?」
零は首を振る。
「でも終わらない。常にこうして何か問題が俺のいるところに集まってくる。それはきっと偶然なんかじゃない」
少し間を置く。
「それはきっと、まだ続きがあるんだって」
イザベルは震える声で言う。
「そんなの気にしないで……私たちと今を生きるんじゃだめなの?」
零ははっきり言った。
「ダメだ」
部屋の空気が張り詰める。
「それぞれの在り方を、それぞれの生き方を、俺はあまりにも知りすぎている」
零は低く続ける。
「たぶんだが、ここには魔女もレアリスも全部含まれる。知らないことがたくさんある。だが知ったことがあまりにもある」
そして言う。
「俺はレイズとしてこの世界にただ居るんじゃない。何かを、まだ大きな根本的な物を変えるために今もここにある」
零は静かに笑った。
「そして俺はこの世界を選んだ。前の世界でも様々な繋がりがあった。環境があった。決して悪くない人生だ。でもそれを手放しても俺はここにいることを選んだ」
零は少し目を閉じる。
「レイズは……あいつは……あいつも選んでる」
リアノは震える声で聞く。
「これから……どうするんですか?」
零は少し考えた。
「これからか」
そして言った。
「これから俺は更なる事実を知るために動く」
零は首を振る。
「レイズ・アルバードとしてじゃない」
そして静かに言う。
「レイズとして進む」
少し息を吐く。
「だから俺はここから動き出そうと思う」
イザベルが叫ぶ。
「ちょっと!! 私やレイナ!! それにリアノとリアナ!! 他の人たちも!! アルバードだって!!」
クリスも叫ぶ。
「そうです!! レイズ様!! 貴方は!! ここの王です!! アルバードから離れるなどありえません!!」
零は静かに答える。
「ここにいれば俺たちは幸せかもしれない。でもな、そうじゃない。俺はこの世界をすべて見るためにここを離れる」
零は続ける。
「この場所を捨てるわけじゃない。もう俺にとってこの場所で出来ることもすることもない」
イザベルは怒鳴る。
「ふざけないで!! 私たちのあなたへの思いは!?」
クリスは深く息を吸う。
「わかりました……覚悟をしたということですね?」
零はイザベルを見る。
「イザベル。俺はお前だけじゃない。この世界にいる皆が大切だ」
その時、リアナが口を開いた。
「レイズくん」
涙を流しながら言う。
「私のお腹の子を抱くっていう話は……?」
その言葉にイザベルもクリスも驚いた。
「リアナのお腹に子供!?!? ちょっと!!」
「リアナ……レイズ様の子を……?」
リアナは泣きながら言う。
「そうです。約束しましたよね? 私の子を必ず抱かせてほしいって」
零は頷く。
「ああ。約束した」
リアナは震える。
「破るつもりですか……?」
零は首を振る。
「破るつもり? そんなわけない」
リアナは言う。
「どこかへ行ってしまったら……抱けないですよ……?」
零は苦笑する。
「話がだいぶ飛び飛びになってるけどさ。今すぐここから出ていくわけじゃないよ」
リアナは聞く。
「じゃあ……いつ?」
イザベルは力なく言う。
「もう……好きにして……私は……もう……」
零は静かに言う。
「少なくともガイルが戻ってくるのを待つ。ガイルが必ず何かを持ち帰ってくるはずだ。そこから行く先を決める必要がある」
リアナは小さく頷く。
「そう……なんだ……わかった」
リアナはその場を離れた。
クリスは言う。
「レイズ様!! リアナに……それにイザベル様とリアノがそれではあまりにも!!」
零は静かに言う。
「クリス。お前は俺に、レイズに忠誠を誓ったって言ってたな」
クリスは即答する。
「ハッ!! それは今も変わりありません!!」
零は続ける。
「これからどんなことが起きても、お前は必ずアルバードを守ってくれ」
クリスは驚く。
「なにを言って!! 私は!!」
零は言う。
「お前はクリス・アルバードなんだろ?」
クリスは震える。
「まだ……その名を……」
零は言う。
「ああ。昔、冗談半分でアルバードの名をお前に与えたことがあったな。でも今のは本気だ。本気でお前がアルバードだ」
クリスは首を振る。
「違う……私ではない……アルバードは……レイズ様……それにイザベル様やリアノ、リアナに与えられたものです」
零は優しく言う。
「クリス、お前だから俺は安心して行ける。お前が、お前だからこそ俺は委ねることができる」
そして言う。
「だから頼んだ。もう決めたことなんだ」
零は少し遠くを見る。
「あいつが……俺に託した。この場所を。だから俺はそれを断る。もうあいつの感覚が、レイズとしての感覚が俺にはあまりにも無いんだ」
リアノが震える声で言う。
「レイズくん……私は……それでも一緒に行きたいです」
零は優しく笑う。
「リアノ」
少しだけ目を伏せる。
「お前は本当に最後まで受け入れてくれるよな。でもな、リアノが心から受け入れていたのはあいつだ。レイズなんだろ」
静かに言う。
「だけどあいつ、本当に消えたんだよ。帰ったんだ。俺はもうすでに、お前たちの知ってるレイズじゃない」
そして最後に、はっきりと言った。
「俺はもう迷わない。お前たちも、だからちゃんと自分を選べ。もうこれは、国とかの話じゃない。世界についての話だ」




