心の溝はあまりにも深く。
そしてレイズは、神妙な面持ちのまま、クリスのもとへ向かった。
廊下を歩く足取りは重い。
それでも止まらない。
扉の前に立ち、控えめにノックをする。
「クリス。俺だ」
中から、慌ただしい物音が響いた。
椅子が引かれる音、何かが倒れそうになる気配。
「レイズ様! お待ちを!」
少しして、扉が開く。
髪を整えきれていないクリスが姿を見せる。
レイズは察していた。
いま、この部屋にはディアナもいることを。
「邪魔して悪かった。でも……急ぎ伝えることがある」
「はい……一体、何が起きたのでしょうか」
クリスの表情は真剣だった。
その背後にある静けさが、逆に重い。
レイズは、ぽつりと告げる。
「いま、俺の部屋に……レイズがいるんだ」
一瞬、空気が止まる。
「はい……?
いま目の前にいらっしゃるではありませんか」
「そうじゃない。
俺じゃないレイズだ。
レイズ・アルバードがいる」
クリスの視線が、わずかに揺れる。
「つまり……レイズ様ではなく、レイズがいると……?」
「いや、おれがレイズで、レイズ様はあっちだろ」
「私が心から忠誠を誓う相手は、いまのレイズ様ですから」
声色は変わらない。
「ややこしいな!!
いいか、俺はレイズだけど、ただのレイズだ!
本物の、おまえ達が仕えていた本当のレイズ・アルバードは!
あっちだろ!」
クリスは落ち着いたまま答える。
「私にとってのレイズ・アルバードは、いまのレイズ様です。
元々のレイズについて、私はほとんど関わりがありません。
それで……私に伝えて、どうなさるおつもりですか」
「いい加減にしろよ……!
ヴィルの本当の孫だ!
本当のアルバードの当主としてここにいたやつだ!
おまえ達が、本当に守りたかった当主だ!
わかるだろ!?」
「言いたいことは理解しています」
静かに、しかし揺るがず。
「ですが、私が、ヴィル様が、ここを任せてアルバードに立つと決めたのは、いま私の目の前にいるレイズ様です」
「なら……なにも感じないのか?
驚きもないのか?
嬉しくないのか……?」
「嬉しいか嬉しくないか、ですか」
少し間を置く。
「どちらでもよろしいかと」
その冷静さが、逆にレイズの胸を締め付ける。
「なんでだよ……。
なんでクリス……」
「それがたとえ本当のレイズ様であっても、私が認めるわけにはいきません。
それは、いま目の前にいるレイズ様を否定することに等しい。
私の忠誠を裏切ることになります」
淡々とした声の裏に、固い決意がある。
「なにも感じないわけではありません。
ですが、それを認めることができないのです」
「なら……俺とあいつ両方に忠誠を誓えばいいだろ。
おまえの忠誠は、俺であり、あいつでもあるだろ?」
「私が生涯忠誠を誓うと決めたのは、レイズ様ただひとり。
忠誠は、安易に誓うものではありません」
「なんでだよ……。
誓いだなんだって、よく言ってたじゃないか」
「それはレイズ様だからです。
他に誓いを立てたとするなら、ディアナを愛するという誓いのみ。
忠誠は、それほど軽いものではありません」
レイズは、言葉を失いかけながらも続ける。
「なら……あいつに、話しかける言葉はないのか……?」
クリスは目を伏せる。
「それこそです。
私はかつてのレイズを、失礼とわかりながら見限っていました。
そんな私が、いまさらどのような顔で向き合えるとお思いですか」
「おまえは、見限ってたわけじゃない」
「いいえ。
私たちは避けていました。
関わろうとしなかった。
ヴィル様の命で初めて向き合った。
そして、そのレイズ様は貴方です。
彼ではありません」
「それでも……頼む。
あいつを一人にしないでやってくれ」
「それはお願いですか。
命令でしょうか」
「どっちもだ。
あいつを……送ってやってくれ。
もう長くはいられない」
「わかりました。
見送ることはいたします。
ですが、私から話すことはありません」
「どうしてそんなに冷たいんだ……」
「未来も知っているのでしょう。
その未来で彼は失敗し、アルバードを滅ぼした。
それが本来の結果。
受け入れるべきものです。
いまのレイズ様が変えた現実に、彼は関係ありません」
レイズは、苦しげに言葉を重ねる。
「ヴィルが大切にしていた孫なんだ。
俺と混ざっていた。
死属性も氷属性も、あいつの力だった。
二人で変えたんだ。
みんなで変えた。
あいつも、その和の中にいるんだ」
クリスは、静かに応じる。
「確かに素質はあった。
それを活かしたのはレイズ様です。
活かせなかったのは、かつてのレイズ。
私がかける言葉はひとつ。
いまのレイズ様を私たちに呼んでくれたことへの感謝のみ」
怒りが、こみ上げる。
「そんな気持ちで会う必要なんてない。
なら来なくていい。
俺とリアノとイザベルで充分だ」
「承知しました」
それでも声は乱れない。
「私たちは彼を見限り、期待をしなかった。
その事実を忘れたわけではありません。
だからこそ、信じられなかった者がいまさら顔を合わせることは、残酷です」
レイズは、ようやく理解する。
切った側の人間。
信じなかった側の人間。
その立場の重さ。
「だから、繋がりを持てた者で送るべきです。
それが、本当のレイズ様の心を苦しめない方法です」
長い沈黙。
「……俺が、間違ってたのか」
「いいえ。
これは私たちの心の問題です。
会いたい者もいれば、怖い者もいる。
そこで生まれた溝は深い。
交わらない関係もあったのです」
そして静かに。
「どうか、本当のレイズ様に心安らぐ時間を。
そして、送り出してあげてください」
レイズは目を閉じる。
「……わかった。
すまなかった、クリス」
「いえ。
よろしくお願いいたします」
「ああ……ありがとう」
クリスは深く頭を下げ、部屋へ戻る。
廊下に残されたレイズの足は重かった。
ただ一度、
あいつに「ただいま」と言わせたかった。
みんなに「おかえり」と言ってほしかった。
アルバードに帰れたと、
温かさを感じさせてやりたかった。
だが、それを許さないほどに、
積み重なった時間はあまりにも重かった。




