本物
アルバードの屋敷は、夜の灯りに包まれていた。
外では冷たい風が吹いているはずなのに、厚い石壁の内側は不思議なほど穏やかだ。廊下の壁に掛けられた燭台の火は揺れても消えず、窓の外で鳴る風の音さえ、どこか遠い出来事のように聞こえる。
暖炉の火が静かに揺れ、橙色の光が部屋を柔らかく照らしている。
その暖かさの中で、レイズはリアノと向かい合って座っていた。
今日は――リアノとレイズが一緒に過ごす日。
何か特別な儀式があるわけではない。ただ、二人でゆっくりと時間を共有する。それだけの約束だ。けれど、その「それだけ」が、今のレイズにとってどれほど貴重か。何が起きようと、どこかで誰かが血を流していようと――それでも、ここには守りたい温度がある。
だからこそ、リアノの表情が曇っているのが、余計に胸に刺さった。
「レイズくん……ガイル様は……大丈夫なんですよね?」
不安を隠そうとしても隠しきれない声だった。慎重に言葉を選んでいるのに、心臓の鼓動がそのまま声に混じってしまうような、細い震え。
レイズは少しだけ視線を上げ、天井を見た。
灯りが柔らかい。火は温かい。けれど、視線を上げるたびに思い出す。いまこの屋敷の外で、どれだけのことが動いているのかを。
「ぁあ……ガイルなら負けることがない、って言いきりたいとこだけどな」
苦笑が漏れる。自分でもわかっている。こんな時に笑っている場合じゃない。それでも、笑うことでしか、胸の奥の圧を逃がせない。
「未知数なんだよ」
「未知数……ですか?」
リアノは首を傾げる。彼女は戦いの中に身を置いてきた。血と泥と、命の重さも知っている。だがそれでも「未知」という言葉には、また別の怖さがある。
「それに……ラスボス、とは……?」
レイズは肩をすくめた。
「ぁあ。ガイルは本来なら“ラスボス”と呼ばれる存在だ」
「そしてアルティナは、裏の……別の物語のラスボスだった」
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その小さな音が、妙に大きく聞こえた。
レイズは、火を見つめたまま続ける。
「ラスボスってのはな、最期の敵って意味だ」
「物語の一番最後に立ちはだかる存在」
「そしてその称号を持つやつは、例外なく強すぎる」
リアノは静かに息を呑む。
強すぎる――その言葉の裏には、勝てるかどうか、という単純な話だけじゃない。近づくだけで世界が歪む、常識が壊れる、理屈が通じない――そんな領域の話が含まれている。
「そんな称号同士がぶつかったら……どうなるなんて」
リアノは言い切れないまま言葉を途切れさせた。
レイズは首を横に振る。
「わからない」
短く、重い返事。
「でもな」
少しだけ、目が柔らかくなる。
「ガイルはもうラスボスなんかじゃない」
「アルティナもきっと……もうラスボスと呼べる存在とは言えない」
「それは……敵じゃないからですか?」
リアノの問いはまっすぐだった。
レイズは少し考え、ゆっくり答えた。
「敵って意味なら、アルティナは敵だろうな」
「でも、なんとなくだ」
「なんとなく、わかるんだ」
言葉を選ぶ。こういう直感は、説明しようとすると嘘くさくなる。けれど、口にしなければリアノは納得しない。
「アルティナはもう“最期の敵”にはならない」
「もっと別の……」
視線が遠くを見つめる。火の向こうに、見えない影を探すように。
「もっとヤバイのが、きっといる」
「それはきっとさ……」
言いかけて、レイズは言葉を止めた。
理由は二つあった。
一つは、口にすれば現実になるようで怖かったから。
もう一つは、いま一番大事なものが目の前にあるからだ。
レイズはリアノの手を取った。
指先が触れる。
リアノは少し驚いた顔をする。だがすぐに、その驚きは安堵に変わる。握られた手から伝わる熱が、言葉より雄弁だった。
「レイズくん……どこへ?」
リアノは小さく尋ねる。
「レアのとこに行く」
迷いなく答える。
「あれはレアリスの分体だってことがわかったからな」
リアノの瞳が揺れる。
レアリス――その名が出るだけで、空気の質が変わる。説明できない圧が、言葉に混ざってくる。
「でも、たぶんあれはそれだけじゃない」
暖炉の火が揺れる。
「あいつは俺の部屋を選んで、そこにいる」
「なら、それはレアリスの意思だけじゃない」
「レアリスの中にいた……」
小さく息を吐く。
「もしかしたら、本当のレイズなんじゃないかって思ってる」
リアノの瞳が揺れる。
「本当の……レイズ様?」
声が震える。怖いわけじゃない。ただ、触れてはいけないものに触れてしまう気がした。
「だから一緒に確かめてみないか?」
レイズは優しく微笑む。
リアノは少し戸惑いながらも言う。
「でも……本当もなにも……」
「いまのレイズくんは、ちゃんと本物ですよ……?」
レイズは笑った。
「ああ、そうだな」
「じゃあ言い方を変える」
「もう一人のレイズだ」
暖炉の火が小さく爆ぜる。
「きっと……部屋に塞ぎ込もってるのは」
「あいつが、もっとも長く、そして苦しんだ場所があそこで」
「そして、もっとも安らかに休める場所なんだと思う」
リアノは胸に手を当てる。
「そんな……でも私……なんですか?」
レイズは少しだけ意地悪く笑う。
「忘れたか?」
「レアは、あの絵を大切にしている」
「あの絵には、リアノも、俺も、メルェも」
「昔のまま、そこに残されてる」
リアノの目に涙が滲む。
「変わらないんだ」
「ずっと昔から、あの絵だけは」
「あいつが存在してきた時を止めたまま、残り続けている」
リアノは、静かに涙をこぼす。
「あの絵を……メルェを……いまも想い続けているんですね……」
レイズは首を横に振った。
「ちがう」
優しく、はっきりと。
「リアノ」
「おまえとも、メルェとも過ごしていた、その時間を想い続けてるんだよ」
部屋の空気が、さらに柔らかくなる。
外では、きっと世界が揺れている。
ガイルが叫び、
ジークが抗い、
レアリスが静かに歩み出している。
だがここには、
確かに、守りたい時間がある。
レイズは立ち上がり、リアノの手を引いた。
「行こう」
リアノは小さく頷く。
「はい……レイズくん」
二人は暖炉の火を背に、静かに部屋を出る。
廊下の灯りは温かい。けれど、その温かさは、どこか遠慮がちだ。まるで、これから二人が向かう場所に触れてはいけないと、灯り自身がわかっているかのように。
――あの部屋へ。
止まった時間を確かめるために。
――アルバードの屋敷、あの部屋の前。
廊下は静まり返っていた。
昼間であれば、使用人の足音や、遠くで響く鍛錬の音がわずかに届くはずの場所だ。だが今は違う。まるで、この扉の向こうだけが時間の外に取り残されているかのように、重たい沈黙が沈殿している。
レイズは扉の前で立ち止まった。
隣にはリアノがいる。
彼女は両手を胸元で組み、じっと扉を見つめている。その横顔は、覚悟と不安が入り混じった複雑な色をしていた。
「……レイズくん」
小さな声。
レイズは視線を扉から外さないまま答える。
「なんだ」
「……大丈夫、ですか?」
問われているのは「扉を開けても大丈夫か」だけじゃない。
中にいるものを見ても大丈夫か。
聞いてはいけない言葉を聞いても大丈夫か。
そして――自分たちの中にある、何かが変わってしまっても大丈夫か。
沈黙。
「……わからねぇ」
正直な言葉だった。
「でもな」
ゆっくりと息を吐く。
「ここまで来て、逃げるわけにはいかねぇだろ」
リアノは小さく頷く。
「はい……」
レイズは扉に手をかける。
指先に冷たさが伝わる。木の扉なのに、冷たい。まるでこの部屋だけ、夜の外気が染み込んでいるみたいだった。
軋む音とともに、部屋の空気が流れ出す。
薄い埃の匂い。長く閉ざされていた空気。
そこにいた。
壁に掛けられた一枚の絵。
止まった時間の中で笑っている三人。
レイズ。
リアノ。
メルェ。
そして、その絵の前に、白い小さな体が丸くなっていた。
レア。
レアは眠そうに、ちらりとレイズとリアノを見た。
ただ、見るだけ。
そこに特別な感情はない。
懐かしさも、怒りも、拒絶も、何も。
ただの白い存在。
レイズはゆっくりと歩み寄る。
喉が、わずかに鳴る。
「なぁ……」
声が思ったより低い。
「おまえは……レイズ……なんだよな?」
沈黙。
返事はない。
というよりも、問いの意味そのものがわかっていないような顔だった。
レアは小さく首を傾ける。
尻尾だけが、ぱた、ぱた、とゆっくり揺れる。
それだけ。
「……ちがうのか?」
レイズは、壁の絵へ視線を向ける。
「あの絵……」
「好きなんだよな?」
そっと指を伸ばす。
絵の端に触れようとした瞬間――
ぶわっと毛が逆立つ。
鋭い視線。
触るな。
はっきりとした拒絶。
「あぁ、ごめんごめん」
レイズはすぐに手を引っ込める。
「触らねぇよ」
苦笑する。
「隣、いいか?」
リアノも遠慮がちに言う。
「わ、わたしも……ご一緒しても……?」
レアは鼻をふん、と鳴らした。
完全な拒絶ではない。
少しだけならいい、と言っているようだった。
二人は、絵の前にゆっくりと腰を下ろす。
静かな時間が流れる。
レイズは白い毛並みを見つめる。
「……まったく」
「リアノには優しいな、おまえ」
リアノは小さく笑う。
「そんなこと……ないですよね?」
問いかけても返事はない。
レイズは少しだけ身を乗り出す。
「なぁ……少し撫でてもいいか?」
その姿があまりにも愛らしかった。
理性より先に、本能が動いていた。
リアノも慌てる。
「あ、あ……わ、わたしも……」
レアはゆっくり目を閉じた。
好きにしろ、と言わんばかりに。
リアノが先に撫でる。
柔らかい。
温かい。
拒まれない。
受け入れている。
リアノの指先が震える。
安心しているのか、気持ちいいのか、それとも――ただ「触れられても壊れない」ことを確かめているのか。
レイズも、そっと手を伸ばす。
「じゃぁ……俺も……」
頭のあたりに、軽く手をのせる。
その瞬間だった。
胸の奥から、何かが一気に引き抜かれた。
「……っ!?」
視界が白くなる。
身体が、急に軽くなる。
軽いというより――空洞になった。
「あ……あ……」
「おれ……?」
言葉がうまく出ない。
息がうまく吸えない。
胸が冷たい。
リアノが振り向く。
「レイズくん!?」
レイズは理解した。
自分の中に、ほんのわずかに混じっていたもの。
本当のレイズの魂。
それが、完全にレアへ戻ったのだと。
レアはゆっくり目を開く。
先ほどまでとは違う。
そこに、明確な意志が宿っている。
鼻息をひとつ鳴らし、そして――
初めて言葉を発した。
「……おい」
低い、落ち着いた声。
「ここは俺の部屋だ」
「出ていってくれないか?」
レイズも、リアノも、瞳を大きく開く。
言葉の圧が違う。
空気が変わる。
レイズは立ち上がる。
「おまえ……やっぱり!!」
「いたのか!!」
「なぁ!!おまえと話したいことが――」
レアは体を起こす。
白い毛並みの小さな体。
それなのに、声と視線は、確かに「レイズ」だった。
「あぁ」
「俺もだ」
「ようやく……声を出せる」
「長かった……本当に長かった」
リアノは震えながら呟く。
「レイズ様……」
その呼び方は、無意識だった。
レアの視線がリアノに向く。
優しいが、距離がある。
「リアノ」
「外してくれ」
「こいつと話すことがありすぎる」
その声音は妻に向けるものではない。
使用人へ向けた、自然な命令。
リアノは理解する。
本当のアルバード・レイズ。
背筋が自然に伸びる。
心臓が跳ねる。
だが同時に――どこか懐かしい感覚が、胸の奥に差し込む。
この距離感。
この丁寧さの中の遠慮のなさ。
その人は、確かに「当主」だった。
「……はい、レイズ様」
「失礼いたします」
そして小さく。
「……お帰りなさいませ」
言ってしまった瞬間、涙がこぼれそうになる。
だがリアノは堪えた。
この場で泣くのは違う。
この場は――二人の場所だ。
扉が閉まる。
部屋には二人だけ。
レイズとレア。
沈黙。
レイズは、どう口を開けばいいかわからなかった。
言いたいことは山ほどある。
謝りたい。
確かめたい。
怒りたい。
抱きしめたい。
でも、何から言えばいい。
レアが先に口を開いた。
「俺を、消してくれ」
レイズの呼吸が止まる。
「……は?」
声がひっくり返りそうになる。
「俺はもう疲れた」
「終わりでいい」
「すでに死んでいる」
レイズの拳が震える。
頭が真っ白になる。
「ふざけるな!!」
叫びが部屋に響く。
「ヴィルの最期、忘れたのか!!」
空気が張り詰める。
「“そこにいたのか”って言っただろ!!」
レアの目が揺れる。
レイズは叫ぶ。
「ヴィルはずっとおまえを探してた!!」
「俺が見たんだ!!」
「俺を見る顔が……どこか寂しそうだった!!」
「ずっとおまえのことを探してたんだよ!!」
涙がこぼれる。
止まらない。
「最期におまえを見つけて……」
「嬉しそうに笑ってた!!」
「……そこにいたのか、って」
「……おまえを見つけて」
「……うれしそうに、笑ってたんだ!!」
レアの目から、静かに涙が落ちる。
ぽとり、ぽとり、と。
小さな体が震える。
「……わかってる」
声が掠れる。
「嬉しかった」
「赦された気がした」
「まだ家族でいられる気がした」
レイズは、息を荒くしながら叫ぶ。
「なら戻れよ!!」
「ここにいろよ!!」
レアは首を振る。
「戻れない」
即答だった。
「俺の魂は欠けている」
「レアリスが送った」
「この小さな体が限界だ」
レイズは崩れそうになる。
「……混ざれ……」
「頼む……」
「戻れねぇなら……また混ざれ……」
自分でも何を言っているかわからない。
必死だった。
レアは静かに言う。
「おまえがおまえであること」
「それが俺への最大の感謝だ」
レイズの目が揺れる。
レアは続ける。
「言うのが遅くなったな…」
「みんなを……」
「真実を教えてくれて……ありがとう」
そして、息を吸う。
その息が、泣きそうに震える。
「だから……頼む」
「俺は……俺は!!」
「本来あるべき所へ……行かせてくれ」
「頼む……」
レイズは何も言えない。
喉が潰れている。
言葉が出ない。
目の前の存在は「本物」だ。
だからこそ、拒絶できない。
だからこそ、受け入れたくない。
やがてレイズは震える声で言った。
「……逃げるな」
それは命令でもない。叱責でもない。
ただの願いだった。
「みんなに会え」
「ただいまって言え」
レアはゆっくり頷く。
「……そうだな」
「逃げるわけにはいかない」
小さく、でもはっきりと。
「わかった」
止まっていた時間が、静かに動き出した。
だが、レイズはまだ終われない。
息を整えながら、レイズは言葉を重ねた。
「……なぁ」
「俺、あのとき……」
レアは目を伏せる。
「……あの世界か」
「夢みたいなものだったな」
レイズは首を振る。
「夢じゃない」
「ちゃんと、おまえと話せた」
「俺は……」
喉が痛い。
でも言いたい。
「一番おまえに会いたかった」
「どうして、って伝えたかった」
「おまえは……悪役レイズなんかじゃない」
「おまえは……アルバードのレイズだ」
「セシルとリヴェルの息子で」
「レイと……ヴィルと……ヴィズの孫で」
「全部、全部、見つけてきた」
「全部知ることができた」
「それら全部……おまえの繋がりだ」
レアは、息を吐く。
「……あぁ」
小さく。
「本当に恵まれていた」
レイズは噛みしめるように言う。
「そうだ」
「恵まれていた」
「おまえは……恵まれていたんだ」
レアは静かに言う。
「よく知っている……」
レイズは、まだ言う。
まだ終わらせない。
「なぁ!!」
「イザベルやリアナ……ほかにも話をしないのか!?」
レアは気まずそうに目を逸らす。
「……余計につらくなるだけだ」
「それにリアナは俺のことを嫌いだ」
「イザベルも……俺のことを、嫌いだからな」
レイズは即座に言う。
「なら、絶対に話していけ」
「いま、みんなを連れてくる」
「おまえの言葉で」
「ちゃんと伝えて」
「ちゃんと、お別れをしろ」
レアは、息を吐く。
「はぁ……」
白い毛が揺れる。
「そうだな……」
「逃げることなんて、許されるわけがない」
「それだけのことをした」
レイズは、声を落とす。
「逃げる必要なんてない」
「ちゃんとここに帰ってきたんだって」
「ただいまって……言ってやってくれ」
レアはゆっくり頷く。
「……そうか」
「……わかった」
その返事が、胸を締めつける。
レイズは、扉へ向かって歩き出す。
リアノが廊下で待っている。
この先に、イザベルがいる。リアナがいる。アルバードのみんながいる。
その全員に――「本当のレイズ」は会わなければならない。
それが、逃げないということだ。
それが、帰ってきたということだ。
扉に手をかけた瞬間――
レイズは、ほんの少しだけ振り返った。
白い小さな体。
けれど、その目は、確かに「当主」の目だった。
そしてレイズは、胸の奥で思う。
この部屋の時間は止まっていた。
だが今、動き出した。
止まっていたものが動くとき。
そこには必ず痛みが伴う。
それでも――動かさなければならない。
そして、
もう一人のレイズに会うために。
レイズは扉を開け、廊下の灯りの中へ踏み出した。




