クルシアは本当に…
ガイルはスカイドラゴンの背にまたがったまま、腕を伸ばした。
黒炎が、指先から“鎖”の形になって走る。
空中に見えない刻印が幾重にも編まれ、ジークの手首、足首、首筋へ――痛みのないはずの拘束が、骨の奥を締め上げるように食い込んだ。
「……おい、逃げんなよ」
声は低い。怒鳴りはしない。
だが、さっきまで聖国を震わせていた怒りが、そのまま圧になって残っている。
ジークはスカイドラゴンの腹側で、四肢を縛られたまま吊られている。
意識はない。反応もない。
首の傷口はふさがっているのに、目は開かず、呼吸も薄い。
――死んでいるように見える。
ガイルは舌打ちし、拘束の強度を上げた。黒炎の鎖が、さらに内側へ食い込む。
「……ぜんぜん、意識が戻らねぇな」
スカイドラゴンが翼を一度打つ。夜の雲が切れ、冷たい風が背中を叩いた。
ガイルはジークを見下ろし、眉をしかめる。
「ほんとに生きてんのかよ。こいつ……」
その時、隣の背――ティルシーの体が、わずかに身じろぎした。
いや、体そのものが動いたのではない。
中にいる“声”が、息を整えた。
「生きてるわよ……」
ティルシーの口が開く。
だが出てくる言葉はティルシーのものではない。抑えた声色で、くぐもったような温度で、確実に別の女の気配がした。
エルディナ。
魂だけがそこに居座っている。
「ねぇ……気になってたのだけど、少し話を聞いてもいいかしら……」
風にさらわれないように、彼女は一つ一つ言葉を選ぶ。
「素敵なガイルさん」
ガイルは即座に顔をしかめた。
背中の黒炎が、いら立ちで一瞬だけ強く揺れる。
「きめぇぞ……おまえ」
「な、なんですって!?」
ティルシーの声帯で叫ぶには可愛すぎない怒りが、空に響く。
「それより!!」
エルディナは声を震わせた。怒りではない。焦りだ。確かめるべき恐怖を、確かめたくない恐怖を、必死に押し込めるような震え。
「ウルティアは……ウルティアは……」
喉が詰まる。
「消えたのですか……?」
ガイルは、空を見たまま言った。
その言葉は残酷なくらい簡単だった。
「ぁあ。消えたぜ」
次の一言が、さらに冷たい。
「もう、この世界には……あいつは魂すら残ってねぇはずだ」
ティルシーの体――エルディナが、息を飲んだ。
黙る。風の音だけが増える。
「そう……」
やっと言葉が出る。
「そんなことが……本当にできるんですね……」
涙ではない。だが声が確かに濡れていた。
「私も……アルティナ姉様も……ジークも……消すんですか……?」
ガイルは鼻で笑った。
「……あー」
短く息を吐く。
そして、心の底をそのまま吐き捨てる。
「俺の気持ちとしては、すぐにてめぇらは消してやりてぇ」
わずかな間。
「特にアルティナは……ディアブロを……使いやがった」
その言葉に、怒りが滲む。
黒炎が、スカイドラゴンの鱗の隙間で細く爆ぜた。
「絶対に許さねぇ」
エルディナは、驚いたように目を見開く。
「ディアブロって……あの魔王のことですよね?」
ガイルは即答する。
「ほかに誰がいんだよ」
エルディナは困惑を隠せない。
魂が揺れているのが、声の間から見える。
「あの……ディアブロを……」
「支配して使役なんて……できるはずないのに……」
ガイルは苛立ち、言葉を切った。
「ぁあ? んなことはどうでもいいんだよ」
指を鳴らすように拘束を締める。ジークの体がわずかに軋む。
「こいつは消す」
「この世界に残しておけねぇ」
「レイズが決めれなくても……俺が決めてんだ」
エルディナは、そこで初めて“レイズ”という名前を掴んだように口を開く。
「その……レイズって方が……?」
その瞬間。
後ろから、ホーリードラゴンの背で風に耐えながら――クルシアの叫びが飛んできた。
「ティルシーの体でこれ以上会話をしないで!!」
「耳に触るわ!!」
エルディナは、わずかに肩をすくめるように言った。
「この娘は……貴方の妹なんですか?」
クルシアは即答だった。
「そうよ!!だからさっさと出ていってよ!!」
エルディナは、どこか寂しげに笑った。
「私は……ダルクの姉だっていうのに……」
その瞬間、ガイルが腹を抱えるほど豪快に笑った。
「クハハハハ!!」
そして、意地悪く言う。
「肉体自体が姉妹で、魔女としての魂でも姉妹なんだろ?」
「ならよぉ――結局、姉妹じゃねぇかよ」
クルシアの声が跳ねる。
「違う!!私の妹はティルシーだけ!!」
「そんな女は知らないわ!!」
エルディナは、柔らかく、しかし痛いことを言う。
「そんなこと言ってもね……」
「本当に忘れちゃってるのね……ダルク……」
「ダルク、ダルクって!!」
クルシアは歯ぎしりするほど怒鳴った。
「私はクルシア!!」
「ダルクって次呼んだら殺すわよ!!」
ガイルは笑いを消し、少しだけ真面目な声になった。
「おい」
空気が変わる。
冗談の温度が抜ける。
「もうわかってんだろ」
「肉体を殺したら――この女の言う通り」
「肉体が死ぬだけで、こいつらが死ぬわけでも、消えるわけでもねぇ」
クルシアは噛みつくように言った。
「なら!そのレイズってのに頼んで、その女を消すわ!」
「そしたらティルシーは戻ってくるのよね!?」
エルディナは、ため息のように答える。
「戻れないわよ……」
クルシアの呼吸が止まる。
エルディナは続けた。残酷な真実を、隠す意味がないという顔で。
「魔女じゃなきゃ、そんなことできない」
「私が消えたら……」
言葉が、ゆっくり落ちる。
「ティルシーっていう娘も……ただ朽ちていくだけよ……」
クルシアの声が、かすれた。
「そんなことは……許さない……!」
そして次の瞬間、彼女は叫ぶ。
「ねぇ!!貴方!!」
「私に仮に魔女が混ざっているなら――」
「私の魔女としての部分は消せるの!?」
ガイルは目を細めた。
「ぁあ!? んなこと俺にもわかれねぇよ」
少し間を置き、現実を突きつける。
「だがな……ディアブロは、アルティナと一緒に消えた」
「望みは薄いと思うぜ」
クルシアの声が落ちる。
「そう……」
「なら私も消えるのね……」
ガイルは苛立ち混じりに吐き捨てた。
「だからそれはわからねぇ!」
「決めるのはレイズだ!」
そして、そこで初めて“別の壁”の存在を言う。
「それに――おまえたちを消すことを、許してくれねぇやつがいるんだよ」
エルディナの声が、少しだけ尖った。
「それは……誰なの……?」
ガイルは面倒くさそうに答える。
「ぁあ? 聞いたことあんだろ」
「レアリスだ」
その名を言った瞬間、空気がさらに冷えた。
ガイルは吐き捨てるように続ける。
「こいつも意味がわかんねぇ」
「どういう基準で消していいのかも、教えてもくれねぇからな」
スカイドラゴンが高度を上げる。雲の上に出て、月光が鱗に反射する。
ガイルは、少しだけ声を落とした。
「ただな」
「ウルティアは……選んだ」
「その“選んだ”って意味は、俺にはよくわからねぇ」
エルディナは、そこで息を止めた。
ガイルは続ける。
「だけど、きっと魔女としてじゃねぇ」
「あいつは――たぶん、人としての自分を選んだ」
エルディナの声が、震える。
「そんなに……本気で貴方を愛していたのね……」
ガイルは即座に鼻で笑った。
「バカかよ」
「愛せばなにもかも救われる」
「消されない」
「そんな都合のいい話が、お前らに許されるわけねぇだろ」
エルディナは、静かに言う。
「わかってるわ……」
そして、やっと“本心”を置いた。
「ねぇ……私はジークを愛してるの」
「ジークは……私たちのせいで歪んで、こんなことになったの」
「だから……ジークは消さないでほしい」
ガイルは、ため息を吐くように言った。
「それこそ無理だろ」
短いが、重い。
「あいつは殺しすぎだ」
「いくら改心しようが、事情があろうが――」
「それを許さないやつが、あまりにも多すぎる」
少しだけ、皮肉っぽく笑う。
「まぁ……俺も人をたくさん殺したことはあるぜ?」
「そこんとこは強くは言えねぇけどな」
エルディナは、か細く言った。
「そうよ……彼だって……」
「私たちが……そうしなければ……人を殺したりなんてしなかった……」
「元々は、すごく根の優しい子なの……」
ガイルは笑いながらも、目は笑っていない。
「らしくねぇこと言うな」
「生まれた時から悪いやつなんていねぇのは当たり前だろ」
そして、断ち切る。
「経過だ。結果だ」
「しでかしたことの責任は――心を入れ換えるとかじゃ、無理に決まってんだろ」
クルシアが、怒りで震えながら割り込んだ。
「そうよ!!その男は!!」
「たくさんの人を殺したわ!!無抵抗の人も!!」
声が裂ける。
「戦って殺すなら私は許すけど――戦わずに殺すなんて許せない!!」
「命を汚している!!」
エルディナは、ティルシーの体で小さく笑う。
「ダ……クルシア?」
からかうように、しかし悲しそうに。
「その考え方がもう、そもそも魔女なのよ……貴女は……」
クルシアは意味がわからない顔で怒鳴り返す。
「なんですって!?」
「これのどこが魔女なのよ!!?」
まったく理解しないクルシア。
ガイルは肩をすくめる。
「まぁ言ってることはわかるぜ」
「俺も戦って死ぬのは仕方ねぇと思う」
そして、空に向かって吐き捨てるように言う。
「戦いってのは命をかけることだ」
「そういう意味では、その女の考え方は、俺は否定しねぇ」
クルシアは即座に勝ち誇った。
「ほらね!?」
エルディナは、呆れたように息を吐く。
「戦いを観て楽しんでる貴女は、例外よ……」
ガイルが急にムキになる。
「はぁ!?戦うのはおもしれぇだろ!!」
「てめぇら人間だって闘技場とかで殺しあいを観て喜んでるやつ、たくさんいるだろぉが!!」
「ならそいつらも魔女と変わんねぇだろ!!」
いつの間にか、魔女であるダルクの考え方に肩を持つガイル。
エルディナは、諭すように言った。
「はぁ……そうじゃないのよ」
「戦う必要がないのに」
「戦わせることを純粋に楽しみにしてる」
「その感性が……普通とは違うのよ」
ガイルは唸る。
「わっかんねぇな……ほんと……」
だが、ふっと声を柔らかくした。
「……だがな」
「クルシアっていったか」
「てめぇは……消されることはねぇと思うぜ」
クルシアは驚く。
「なんでそう言い切れるの?」
ガイルは笑った。
意外と優しい笑いだった。
「おまえは、魔女の中なら一番人間だからだよ」
クルシアは息を飲み、震えながら頷く。
「そ……そう……」
「そうよ……私は人間なんだから……」
エルディナがぼそっと呟く。
「魔女だって……元は人よ……」
ガイルは、少しだけ黙り、空を見上げた。
「ぁあ? ……ぁあ、そうかもしれねぇな」
エルディナは受け入れていた。
自分が消されることを。
だが――どうしてもジークだけは、この世界に在ることを許してほしい。
それが彼女の本心の願いで、彼女の本心の愛情だった。
エルディナは、風の音に紛れるくらい小さく言った。
「ねぇ……消される前に……貴方としたいのだけど……」
ガイルは、反射で振り向きかけて止まる。
「は? なにをだ!?」
エルディナは、ティルシーの体で、呆れたように笑った。
「貴方……そんなこともわからないのね……」
ガイルは眉を寄せる。
「意味がわかんねぇ」
――色欲の魔女エルディナ。
ガイルとしたいのは魔女としての欲求。
だがジークに対する想いだけは本物ではある。
クルシアが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「あんた!!いや、きさま!!」
「ティルシーの体でその男を!!誘惑するな!!」
ガイルは目を丸くし、次の瞬間、腹を抱えて笑った。
「は?誘惑?」
「これでか??」
「クハハハハ!!」
「まったくそそらねぇよバーカ!!」
エルディナは、しばらく黙った。
何か言い返すこともできた。
でも、それをしない。
ただ――静かに、黙るのだった。
スカイドラゴンの翼が、月光を切った。
前方に、遠く、アルバードの光が見え始める。
ガイルの黒炎が、再び静かに燃え直した。
拘束されたジークの体は、まだ目を覚まさない。
――だが、その内側では。
終わらない喧嘩が、まだ続いている。
目覚めの瞬間は、近いのか。
それとも、最悪の形で“混ざったまま”目を開くのか。
ガイルは言葉にしないまま、ただ前を見据えた。
アルバードへ。
消すために。
そして――救うために。
スカイドラゴンの翼が夜気を裂き、雲を押し分ける。
その背で、拘束されたジークは依然として目を閉じたまま。
黒炎の鎖は脈打つように締まり、魂ごと逃げ場を奪っている。
ティルシーの体――そこに宿るエルディナは、しばらく黙っていた。
色欲の魔女らしい軽口も、挑発もなく、
ただ、風を受けて目を細めている。
その沈黙が、かえって落ち着かない。
ガイルは鼻を鳴らした。
「……なんだよ」
「急に静かになりやがって」
返事はない。
その代わりに、後方から怒号が飛んできた。
「ちょっと待ちなさいよ!!」
ホーリードラゴンの背で、顔を真っ赤にしたクルシアが叫ぶ。
「さっきの言葉!!」
ガイルは振り向かない。
「ぁあ?」
クルシアは、怒りと羞恥と焦燥がごちゃ混ぜになった声で続けた。
「そそらないって言ったわよね!?」
「ティルシーがそそらないって!!」
風を切る音の中でも、はっきり聞こえる。
「あんた!!」
「ティルシーが魅力ないって言いたいの!?」
数秒の沈黙。
ガイルは眉をひそめたまま、空を見ている。
「……おまえ」
そして振り向きもせずに言った。
「なにを聞いてんだよ!?」
スカイドラゴンが一度翼を強く打つ。
「ってか!!どっちだよ!?」
「誘惑するなって怒ったり、魅力ないのかって怒ったり!!」
「どっちなんだよ!!」
クルシアは一瞬言葉に詰まる。
「それは……!!」
うまく整理できない。
怒りの矛先が、自分でも曖昧になっている。
「だって!!」
「ティルシーの体でそんなこと言われたら腹立つに決まってるでしょ!!」
ガイルは呆れたように笑った。
「安心しろ」
「体がどうとかじゃねぇ」
「そもそも色気がねぇって話だ」
その瞬間。
「はぁあああああ!?」
クルシアの絶叫が夜空に響いた。
「最低!!」
「いまのは完全に悪意よ!!」
ガイルは肩をすくめる。
「事実だろ」
「俺がそそられねぇって言ってんだ」
「おまえが騒ぐ意味がわかんねぇ」
クルシアは怒りで顔を真っ赤にしながら、言葉を詰まらせる。
「だって……!!」
守りたいのか、怒りたいのか、
妹を侮辱されたくないのか、
魔女に体を使われたくないのか。
全部混ざっている。
その様子を、ティルシーの体でエルディナが見ている。
そして――
フッ、と。
鼻で笑った。
小さく。
静かに。
けれど確実に。
挑発でも、艶でもない。
ただ、人間の姉妹喧嘩を外から見ているような、
少しだけ羨ましい笑い。
「……なによ」
クルシアが睨む。
エルディナは、視線を月へ向けたまま言う。
「貴女……」
「ほんとに人間ね」
クルシアは反射で言い返す。
「だから人間だって言ってるでしょ!!」
ガイルはため息をつく。
「やかましい」
「夜空で姉妹喧嘩すんな」
そして拘束されたジークをちらりと見る。
「……おい」
「起きるなら早く起きろ」
「面倒くせぇ空気だ」
返事はない。
だが――
ジークの指先が、ほんのわずかに動いた。
エルディナはそれを見逃さなかった。
瞳が細くなる。
「……もうすぐよ」
その声は、誰に向けたものでもない。
ガイルの黒炎が、わずかに強く揺れる。
アルバードの灯りが、はっきりと見えてきた。
夜は、まだ終わらない。




