懐かしき食卓。
レイズの食卓には、ずらりと食事が並んでいた。
皿、皿、皿。
銀のトレイに、木の盆に、湯気の立つ鍋。
香草の匂い、焼き目の匂い、甘いソースの匂い。
そして――その中心に、存在感だけで圧をかけてくる“それ”。
豚の丸焼き。
首から尾まで丸々一頭。
艶やかな皮は蜜で照り、肉汁が今にも零れそうにふっくらと盛り上がっている。
添えられた果実と香草が、異様な豪華さに拍車をかけていた。
なのに。
そこに座るのは、アルバードの国王――レイズ。
そして、その隣には当然のようにクリス。
だが、この屋敷の空気は“王の食卓”とは少し違う。
格式がないわけじゃない。
礼儀がないわけじゃない。
ただ――ここはアルバードだ。
王であっても、王だからといって、座が上になるわけではない。
王であっても、王だからといって、遠ざけられるわけではない。
むしろ、王だからこそ真ん中に置いて、笑って、からかって、守る。
そういう、妙な共同体。
そして今日。
メンバーもまた、ずらりと並んでいた。
イザベルは肘をついて、楽しそうに目を細めている。
双子の片割れ――リアナは、席につく前から既に機嫌が良さそうだ。
リアノは静かに微笑んで、場の空気を柔らかく整える役に回っている。
ジェーンは椅子にどかっと腰を下ろし、遠慮のない視線で料理を観察している。
リリィは、控えめに座りながらも目が泳いでいた。
ルルは――今日はここにいない。
レイナは小さな手を膝に揃え、隣のアリスは椅子の上でそわそわと揺れている。
クリアナは、父の隣と決めた席に、誇らしげに胸を張っていた。
そして机の端には、子供が作ったのだろう、少し歪な形の焼き菓子や、切り分けが雑な果物や、盛り付けだけは一生懸命なスープが並ぶ。
豪華な料理の中に、手作りの“ささやかなもの”が混ざっているのが――この家らしい。
最初に口を開いたのはジェーンだった。
「……あんたら、いつもこんなに食べるのかい?」
半笑い。
いや、もはや呆れている。
リリィも恐る恐る手を上げるように言った。
「す、すごいたくさん……いいんですか? わ、私たちも……」
レイズはにこっと笑う。
その笑顔は王のものではなく、完全に“家の主”の笑顔だ。
「もちろんだ。遠慮なんかいらない」
「それに……懐かしいのも並んでるな」
レイズの視線が、ど真ん中の豚に吸い寄せられた。
そして同時に、クリスの視線も固まっている。
固まっている、というより――止まっていた。
レイズは首を傾げる。
「どうしたクリス。なにか気になることがあるのか?」
「いえ。ありません」
クリスは即答した。
だが、その目が丸焼きから外れない。
「ですが……この豚の丸焼きは……」
レイズは何も疑わず、頷いた。
「あぁ、みんなで少しずつ分けて食べるんだろ?」
「俺とクリスで切り分けるってことだ」
その言葉に、リアナが満面の笑みで首を振る。
「いいえ」
「それは――レイズ様の分です」
間髪入れずにクリアナも元気よく頷いた。
「それはパパの分なんだってー!」
レイズは、固まった。
「……は?」
クリスも、まるで“やはりそうですか”とでも言いたげに頷いた。
「やはり……そういうことですか」
「そういうことってなんだよ!?」
レイズは瞬時に現実を理解しようとするが、理解が追いつかない。
リアナはさらに追撃してくる。
追撃の矛先は丸焼きではなく、レイズの頭だった。
「それはそうと、気になってはいたんですが……」
「レイズくん、その髪型って……寝癖なんですか?」
「いや、そこじゃないだろ!?」
レイズは両手を広げて机を指す。
「俺の髪型とかじゃない!」
「豚の丸焼き一匹!? そんなに食えるか! みんなも食べるだろ!」
机の上を改めて見れば、他にもずらりと並んでいる。
肉の串焼き、魚の香草焼き、山盛りのパン、濃厚なシチュー、彩り豊かなサラダ。
……この時点で普通なら十分すぎる。
ジェーンが肩を竦める。
「あたしは別に……それはいらないぞ?」
リリィも頷いた。
「はい……これだけでも、すごく多いので……」
イザベルは、どこか懐かしそうに目を細めた。
「……なんだか思い出すわね」
そしてレイナが、無邪気に爆弾を落とす。
「パパって、あれをひとりで全部食べれるの!?」
「はぁ!? 無理だろ!? なに言ってんだ!?」
レイズは思わず机を叩きそうになるが、ここで叩いたら豚が揺れるのでやめた。
「おい……誰が言ったんだそんなこと」
すると、クリスが真面目な顔で言う。
「レイズ様は……これくらい、一人で平らげていた」
「やはり……強さの秘密は、ここにあるのかもしれません」
「なんでそこで納得するんだよ!?」
なぜか食べる気満々のクリスが、ナイフを整える。
レイズは額を押さえた。
「クリス? 普通に考えろ」
「俺が普段からそんなに食ってたか?」
クリスは目を低くする。
真剣な顔で、淡々と。
「えぇ……二頭食べることもあったではないですか」
「それは昔だ!!」
レイズは心の中で叫んだ。
この世界に来たばかりの頃、環境が過酷で、魔力も使いすぎて、腹が減りすぎて、勢いで――食べた。
食べたが……今もそうだと思われているのは、何か違う。
レイズは冷静に視線をリアナへ向ける。
「リアナ……その……俺はヘルシーな……サラダとかも食べたいんだが……」
リアナは眉を八の字にして、真剣に言う。
「そんなことをしたら……ただでさえ痩せ細っているのに……骨になっちゃいますよ?」
「なるか!?」
レイズは腕をまくり、筋肉を見せる。
彫刻みたいに筋が走る腕。
薄い皮膚の下に、鍛え抜かれた肉がしなやかに盛り上がっている。
並大抵の鍛え方では作れない、戦うための体。
それを見て、クリスが小さく頷く。
「……レイズ様、確かに……かなり縮みましたね」
「え? いまさらかよ!?」
「とっくに痩せただろ!? 俺は!?」
だが、その言い訳が終わる前に――
クリスは静かに言った。
「それでは、いただきます」
そしてフォークを突き刺し、肉を一口。
「おい!? 待てクリス!」
クリスは一言。
「とても美味しいです」
「レイズ様、冷めてしまわぬうちに」
「いや、そういう問題じゃ……」
レイズは抵抗を諦めた。
フォークを刺し、ナイフで切り分け、口に運ぶ。
――うまい。
うますぎる。
「……やっぱ、うまいよな」
「ほんとに……意味わかんねぇ……」
リアナがニコニコしながら拍手する。
「いつ見ても見事です!」
「ありがとうって言いたいけど、そういう意味じゃなくてだな……」
こうして、レイズとクリスが黙々と“自分の分”を食べ始めると、
周囲もそれぞれ料理に手を伸ばし始めた。
笑い声。
食器の触れ合う音。
パンの裂ける柔らかな音。
スープの香り。
アルバードの“帰ってきた日常”が、机の上に広がっていく。
……しかし。
半分に差し迫ろうとしていた。
そう、豚が。
クリスが無心で食べ進め、レイズがそれに付き合う形で食べ進め、
気づけば丸焼きは“残り半分”という狂気に突入していた。
そこで、クリアナが立ち上がる。
「パパこれ! わたしが作ったの!」
小さな皿。
焦げ目が少し強い、けれど丁寧に作られた何か。
たぶん揚げ物。
そして、たぶん――愛。
クリスのフォークが、止まった。
満腹の向こう側に到達した者だけが持つ、静かな絶望がそこにあった。
だが――娘だ。
愛しい娘が、自分に作ってくれたのだ。
食べないわけにはいかない。
クリスは優しい笑顔を作る。
「では……なんて、美味しそうだ」
すでに味覚など失われるほどの満腹でありながらも、一口。
「……うん」
「クリアナの作ってくれたのは、とても美味しいですね」
クリアナの目がキラキラになる。
「ほんと!? やったぁ!!」
その光景を見ていたレイナが、突然動いた。
自分が食べていたお気に入りを集めて、
両手で小さな皿を抱える。
「パパ!! これもすごく美味しいから食べてみて!!」
――追撃。
ついにレイズにまで追撃が来た。
レイズは、クリスが断れずに食べた光景を見てしまっている。
つまり――断れない。
苦しい笑顔。
「そ、そうだな……レイナ……」
「あとで食べるから……」
レイナの目が、しゅんと曇る。
……あ。
これはまずい。
レイズは即座にフォークで刺し、ぱくり。
「ぁぁ!! ほんとだ! なんて美味しいんだ!!」
「びっくりした!」
レイナの表情が、ぱっと明るくなる。
「えへへ!!」
レイズはその瞬間、足でイザベルをつついた。
そしてお腹をぺちぺち叩きながらジェスチャーを送る。
(助けてくれ……本当に限界だ……)
イザベルは一瞬だけレイズを見て、にやりと笑う。
そして、全力で“助けない”方向へ舵を切った。
「レイナ」
「パパ、すっごく喜んでるみたいよ。よかったわね?」
「うん!!」
レイナが跳ねる。
「私も今度ご飯作りたいな!」
「そうね」
イザベルは頷く。
「パパに今度教えてもらうといいわ」
「え? パパはご飯も作れるの!?」
レイズはイザベルを見た。
(違うだろ? そうじゃないだろ? おい)
心の中で叫びながら、口では諦めたように笑う。
「ぁあ……そうだな……作れないこともないが……」
「とりあえず今日はもう満足しているから……また今度な……」
「うん!!」
レイナは嬉しそうに頷く。
「今日の夕飯は、わたしとパパで作ろうね!」
レイズは、目をそらした。
(地獄が確定した)
「ぁぁ……だが……それは他の人の仕事を奪うことにもなるからな……レイナ……また今度だ……」
「そんなぁ……」
レイナがしょげる。
レイズは必死に別の理由を探す。
「今日は……そうだ。旅から帰ってきたばかりだ」
「休むことも大事だ」
「そっかぁ……」
レイナは小さく頷き、しょげたままスープを飲む。
レイズは胸を撫で下ろした。
――その横で。
クリスはもくもくと食べ続けていた。
そして、ぴたりとフォークが止まる。
「……素晴らしい……」
「え……何が……?」
レイズは嫌な予感しかしない。
クリスは真顔だ。
「これだけの量を食べてなお……その余力」
「レイズ様は……本当に……」
「どこをどう見て言ってんだよ!!」
ジェーンが腹を抱えて笑い出した。
「あはははは!!」
「いつもこんな空気で食事してるのかい?」
「アルバードはほんと……飽きないわねぇ」
リリィが苦笑いする。
「えっと……多分ですが……いつも……ではないかと……」
リアナは、なぜか誇らしそうに言った。
「前も、いつもこれが自然ですよ!」
――自然ってなんだ。
レイズは心の中で突っ込んだ。
だが、突っ込む声も笑い声に溶けていく。
この食卓の空気は、暖かい。
温度がある。
匂いがある。
触れられる距離がある。
王であることも、最強であることも、魔女も、アビスも、
いったん全部――ここでは脇に置かれる。
その輪の中で。
決して笑えないのが二人。
レイズとクリス。
笑っている。
笑顔を作れている。
けれど。
“笑えない理由”が、二人には確かにあった。
レイズは、ふと視線を落とす。
ナイフに映る自分の姿。
寝癖――と皆が言う、逆立つ髪。
それを笑われて、からかわれて、でも嫌じゃない。
ここに帰ってきたんだ、と実感できるから。
けれど、胸の奥で小さく響く声がある。
――本来のレイズ。
その名を、口には出さない。
出した瞬間、この暖かさに“影”が差す。
だから言わない。
ただ、思う。
(会えるなら……会いたい)
(でも……いまは……)
隣のクリスが、こちらを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
目で言う。
(レイズ様。今は、ここにいましょう)
レイズは小さく息を吐いた。
そうだ。
今は、ここだ。
丸焼きの豚を前に、
娘と子供に追撃され、
イザベルに助けられず、
リアナに髪型をいじられ、
ジェーンに笑われ、
リリィに気遣われて、
――それでも、ここはアルバードだ。
そして。
この笑顔の和の中で、
決して笑えない二人であることを、
誰も悟ることはなかったのだった。




