人として選んだゆえに救われた。
どさり、と音を立ててディアブロは腰を下ろした。
白い空間だった。
白いのに、温かくはない。明るいのに、救いはない。
ただ「何もない」という事実だけが、重さになって胸へ落ちてくる。
魔力は希薄だ。
アビスでは空間そのものが魔力でできていたのに、ここは違う。
息を吸っても、肺の奥が満たされない。魂が乾くような感覚がある。
それでも――この場所は、さっきの闇よりは“許されている”。
ウルティアは、ディアブロから半歩ほど離れたところへ、ちょこんと座った。
膝を抱えてしまうと泣いてしまいそうで、抱えない。
でも抱えないと崩れてしまいそうで、結局、指先だけが服の裾を掴んでいた。
「……話の続きって……」
声にしてしまったことに、ウルティアは驚く。
音が、ここでは喰われない。
それだけで喉の奥が熱くなるのは、もう怖さのせいだ。
「私の方が聞きたいこと、山ほどあるのだけど……?」
ディアブロは肩を揺らし、短く笑った。
「ここでの知識は、あんまり覚えるな」
「……覚えるな? どうしてよ」
「覚えてもすぐ変わる。アビスの理は、固定されていない」
「変わるってことも……大事な知識じゃないの」
ウルティアがそう返すと、ディアブロは目を細めた。
嘲笑ではない。評価でもない。――ただ、確認するような視線だった。
「それは“外の世界”の理屈だ」
外の世界。
その言葉が、針みたいに刺さる。
ウルティアは息を呑む。
ガイルの世界。レイズたちの世界。あの暖かい空気が満ちる世界。
その名残だけが胸の奥で疼き、同時に、もう触れられないものだと突きつけられる。
ディアブロは淡々と続けた。
「アビスは構造ではない。流動だ。固定された法則を前提にすれば――必ず死ぬ」
「……死ぬ、って」
「ここでは死は終わりじゃない。砕かれ、溶け、還るだけだ」
ウルティアの背中を、冷たいものが撫でた。
あの白い巨体――ウロボロスの口が、脳裏に蘇る。
喰われることは消えることではなく、戻されること。意味だけにされること。
ウルティアは唇を噛む。
「……ねぇ。貴方それ……大丈夫なの」
問うたのは、ディアブロの身体だった。
腰に縫い付けられていた臓器のような器は、もう潰してしまった。
それでもディアブロは、どこか呼吸が浅い。胸の奥が軋んでいるように見える。
「だってここ……魔力がほとんどないのに」
ディアブロは笑った。
「あぁ。非常に苦しい」
軽く言うのに、声の底に疲労が滲んでいる。
「故に私は後でアビスに戻る必要がある。ここよりはよっぽど楽だ」
「……え」
ウルティアの顔が引きつる。
「ねぇ、それって……さっきの人形のところにもどるの!? 無理よ! 絶対に無理!」
ディアブロは「無理」と言われたことが可笑しいように、肩を揺らした。
「無理ときたか。だが先ほどは通り抜けてきた」
「それは……貴方が……!」
「アビスの魔力は無尽蔵だ。ここよりはよっぽど楽だと言ったはずだ」
ウルティアは理解したくないことを理解する。
ディアブロは“楽”だから戻るのではない。
戻らなければ、ここでは持たない。
「じゃあ……どうして、こんなとこに……」
ディアブロは視線を逸らさず答えた。
「話をするためだけだ」
「……それだけ?」
「それだけだ。話が終われば、おまえはここに残っていろ」
ウルティアの喉が詰まった。
「そ……そんな……私一人で、こんなとこに置いていくの!?」
ディアブロは笑いながら肩をすくめる。
「じゃあおまえもアビスに戻るというのか?」
ウルティアは首をぶんぶん振った。
冗談じゃない。あの闇。あの手。あの声の罠。
あそこに戻るくらいなら、ここで朽ちるほうがまだマシだ。
「冗談はやめてよね……!」
ウルティアは、震える指を握りしめる。
そして、思わず本音が漏れた。
「……貴方もここに……一緒にいたらいいじゃない……」
ディアブロは、笑いが消えた。
ほんの一瞬だけ、沈黙が重く落ちる。
「そうはいかぬ」
その声は冷たい。
だが突き放す冷たさではない。
“必然”を告げる冷たさだ。
「すでに必然的に、おまえたちは還されてくる。私はおまえたちを一人ずつ、ここへ連れてくる必要がある」
「……必要?」
ウルティアは唇を噛み、顔を上げる。
「なんで……そこまでして……貴方は何が目的なの?」
ディアブロは少しだけ考えるように目を伏せた。
そしてゆっくりと言う。
「目的か……」
沈黙が一拍。
「では、おまえに問う」
ディアブロの瞳が鋭くなる。
「もし――アビスの神話の魔物たちが、ガイルがいる世界に解き放たれたら、どうなる?」
ウルティアは反射的に答えそうになる。
「ガイルなら……ガイルたちなら……」
だが、言葉が止まる。
あのウロボロスを見た。
あの“音を喰う闇”を見た。
あれは強さの尺度が違う。
「……倒せるんじゃないの……? ガイルの周りにも、とんでもなく強い人たちがいるじゃない」
願いのような言葉だった。
祈りのような言葉だった。
ディアブロは笑う。
「それは魔力が潤沢に使えれば、という話だろう?」
「だって……貴方も……ウロボロスも……魔力を使ってたじゃない。条件は同じ……じゃないの?」
ディアブロの笑いが、低くなる。
「まさか」
そして、刺すように言った。
「おまえはあれが、魔力で戦う化物だとでも思っているのか?」
ウルティアの喉が鳴る。
「意味がわからないわよ……でも……いるじゃない。規格外があっちにも……それにアルティナお姉様だって……」
ディアブロは声を上げて笑った。
笑いの中に、ぞっとする現実が混ざる。
「おれの魂を支配するだけでこの有り様なのにか?」
そう言って、彼は自分に繋がっている赤い腕――アルティナの腕を指差した。
ウルティアの背筋が跳ねた。
「そうよ! それ! なんであなたに、アルティナお姉様の腕が……!?」
ディアブロの笑いが消える。
代わりに、苛立ちが滲む。
「それこそ聞きたいことだ」
静かな怒り。
「なんでおまえのバカな姉は、体の……いや魂の一部まで差し出して、俺を使いたがった?」
「魂の……一部……?」
ウルティアの顔が青ざめる。
「それは禁忌よ……魔女の魂を削ってでも魂を支配する……そんなこと、本当にしたのなら……お姉様の魂は……削れて……」
ディアブロは短く頷く。
「そういうことだ。俺ごときにそれほどのことをしたバカだ」
そして、ゆっくりと続ける。
「勘違いするな」
声が低い。
「あれら神話の生物は、魔力で戦う化物なんかじゃない」
ウルティアの呼吸が止まる。
「魂を使い、魂を喰らう」
「故に、ここには魔力はたくさんあるが……魂自体は限りなく少ない」
「そもそも魂を、この場所へ還すなど――前代未聞だ」
ウルティアは、自分の喉が乾くのを感じた。
「でも……私は……貴方は……ここに還されたじゃない……」
ディアブロは鼻で笑う。
「還す場所があるならな」
「……どういうこと!? わけわからない! ねぇ……やっぱり解読するわよ!?」
怒りと恐怖が混ざった。
理解できないことが怖い。
だから理解しようとする。いつもの癖。いつもの権能。
ディアブロは、笑った。
「やってみろ」
ウルティアは権能を発動する。
解読。情報の海に潜り、真実を引きずり出す――はずだった。
だが。
何も起きない。
視界も、感覚も、世界の“文字”も、沈黙したままだった。
「……え」
ウルティアはもう一度、力を込める。
権能は応えない。
「なんで……私の……権能が……使えない……どうして……」
震えが全身へ回る。
わからないことがあれば解読すればよかった。
情報はいつも味方だった。
それが――ない。
つまり、これからは未知だ。
未知という闇の中で、ウルティアは今までどれだけ権能に頼って生きてきたのかを、痛いほど思い知る。
ディアブロは淡々と言う。
「おまえの権能はすでに、おまえのもとにはない」
ウルティアの目が見開かれる。
「……ない?」
「先ほど、すべて剥ぎ取って置いてきた」
「置いて……きた!?」
怒りが噴き出す。
「なんで!? なんでそんなことを!! それにいつ!?」
ディアブロは笑う。
「気付かなかったのか?」
そして、突き刺すように告げる。
「なんでわざわざ遠回りまでして、ここに来たのか」
ウルティアは歯を食いしばる。
「遠回りもなにも……近道だってわからないに決まってるでしょ……!」
ディアブロは肩をすくめる。
「あいつらが欲しがっているのは魔女の因子だ」
ウルティアの背筋が冷える。
「故に、おまえをまるごと喰って、不要な部分はさきほどの出涸らしと同じように配置されるだけ」
「自我もすべて失い、残るのは永遠にさ迷う化物になる」
ウルティアは口を開いた。
声が出ない。息が止まる。
ディアブロは続ける。
「その道を、俺は防いでやっただけだ」
ウルティアの瞳が揺れる。
「じゃあ……私の力は……」
ディアブロは笑った。
その笑いは皮肉だった。
「魔女をやめたのだろう」
ウルティアの胸が締め付けられる。
「おまえは人だ。良かったな」
言葉が、優しいのか残酷なのかわからない。
「そして、おまえの権能など……すべてやつらにくれてやった」
「ど……どうして……そんなことをするのよ……お母様に……渡したの?」
ディアブロは鼻で笑う。
「渡す? 違うだろう」
冷たい断言。
「あれはもともとすべて、やつのものだ」
「返したにすぎない」
ウルティアの喉が鳴る。
「それにな。あの力は根元の復活に近づく鍵みたいなものだがな」
言葉が、胸へ沈む。
レアリスが言っていた言葉が、どこか遠くで響く。
“根元が復活したら終わり”。
「だが、それよりも――」
ディアブロは視線を鋭くする。
「おまえの人としての記憶と情報。それらをあやつに渡さぬことの方が、はるかに重要だ」
ウルティアの顔が白くなる。
「……わたしの……情報……?」
そして思い出す。
さっきの人形。
声の罠。
あれは、まるでウルティアを知っていた。
ディアブロは頷く。
「あぁ。あれはレプリカだ。おまえの権能を似せて作られた能力を携えている」
「だが、おまえの力ほど優秀ではない」
「わかるのはせいぜい、繋がりの深い人物程度」
「故に真似る。真似て引きとどめる」
「そして罠にかかれば喰い散らかす」
吐き捨てるような言い方だった。
「実に飢えた醜い化物だ」
ディアブロは少し間を置き、ゆっくりと言った。
「それともおまえは――あれと同じになりたかったか?」
ウルティアは叫ぶように言う。
「なりたいわけないでしょ!? あんな……恐ろしい……本当に怖かったわ!!」
ディアブロは、冷たく、しかし確信の声で言った。
「それが本来の魔女であり、魔女の姿だ」
「……え」
ウルティアの目が揺れる。
「あれは……私たちと同じ魔女……?」
「前のおまえなら、おまえ達なら、さして変わらん」
ディアブロの声が淡々と続く。
「それが変化というものだ」
「そして私も、あちらの世界に長くいたことで変化が起きたイレギュラーそのもの」
ウルティアは、言葉を失う。
「でなければ、私もおまえを喰らう化物達と差して変わらん」
ディアブロは低く言った。
「そして、それこそが俺の能力。魔を喰らう所以だ」
ウルティアは小さく震えた。
恐いのは、強さじゃない。
理解できるはずのものが、理解の外側にあること。
「……ねぇ……ディアブロ……」
声が、かすれる。
「貴方……本当は……何者なのよ……」
ディアブロは静かに答えた。
「何者だろうな」
そして、一つだけ確かに言う。
「だがひとついえることは――俺もガイルを大切に想っている。仲間ということにしておけ」
ウルティアの胸が熱くなる。
「ガイルを大切に……それなら……私だって……」
ディアブロは冷たく言い切った。
「二度と会うこともできないがな」
ウルティアの目が大きく見開かれる。
「……会いたい……ねぇ……会えないの……? ここから出られれば……」
ディアブロは首を振る。
「ここから出られるわけがない」
淡々とした断言。
「もしそれが可能だとしたら――」
ディアブロの瞳が、どこか遠い闇を映す。
「化物どもを喰らいまくり、力をつけて、あちらの世界で再びアビスホールが生まれたとき」
「その時にしか出ることは叶わない」
ウルティアは震える。
「現に私は、そうしてあそこから飛び出した」
そして、さらに続けた。
「それらが連れ戻しにくることがないように、私は常に魔力をアビスに捧げてきた」
「だからこそ敵にはならず、静かにあちらで過ごすことも叶う」
ウルティアは、喉の奥から必死に言葉を絞り出す。
「ガイルに会えるなら……なんだって……喰べるわよ……?」
ディアブロは笑った。
笑うのに、その笑いは残酷だった。
「おまえは人を選んだ」
「なら、あれを喰らうなど……人の道ではもはやない」
「それに、おまえはこちらでは――ただの餌だ」
餌。
その言葉が、心臓を殴る。
「餌であるおまえが、絶対の捕食者を喰べるだと? 無理を言うな」
ディアブロは淡々と続ける。
「可哀想だがな」
「人として選べたことで救われた。だが、人を選んだゆえに――おまえはもうここから出ることはできない」
ウルティアの肩が震える。
「永遠にここで、自我をもった魂としてあり続けろ」
ウルティアの心が崩れた。
「そ……そんなの……無理よ……」
声が、泣き声に近い。
「だってここには……なにも……ない……いない……!」
「ずっと……? 永遠に……?」
ディアブロは肩をすくめる。
「だから安寧なんてないと言っただろう」
そして、少しだけ間を置き、続ける。
「だが……そうだな」
ウルティアが顔を上げる。
縋るような目。
ディアブロは淡々と、しかし確かに言った。
「おまえは独りにはならない」
「……え」
「おまえの姉妹達が、ぞくぞくとこちらにやってくる」
「もしかしたら私のように、様々な魂がアビスに還される可能性もある」
「……あっちには、それができるやつがいるからな」
ウルティアは、ぞっとしながらも言う。
「そんなの……知らないでやってるとしたら……相当残酷じゃない……」
ディアブロは笑う。
「知らないからやれるのだ」
「知っていたら、あやつらはやらん」
そして平然と言った。
「だから俺は、それらの魂をここまで連れてくるつもりだ。優しいだろう?」
ウルティアは、笑えない。
「優しい……? 永遠にここに閉じ込められることが……そんなの……」
ディアブロは、問い返す。
「なら一人でここにいるか?」
ウルティアの顔が歪む。
「……嫌……それだけは……嫌……」
「……だって……寂しい……わ」
ディアブロは短く頷いた。
「俺がなぜおまえたちを助ける理由を聞いたな」
ウルティアは、涙を拭いもせず見つめる。
「……なんでよ」
ディアブロは笑う。
「ガイルを大切にしているおまえだから、俺はおまえを助けているにすぎない」
「どうして……貴方がそんなにガイルのことを……大切にするのよ……」
ディアブロは短く言った。
「ガイルは、私の息子みたいなものだからな」
ウルティアの目が丸くなる。
「ちがうでしょ……貴方はガイルの相棒じゃ……」
ディアブロは笑った。
「肉体的な意味での繋がりではない」
そして、決定的な言葉を落とす。
「ガイルの魂は、俺の魂を削って生まれたものだ」
ウルティアの思考が止まる。
「……もう……意味がわかんない……わよ……」
ディアブロは立ち上がらない。
ただ、白い空間の奥を見ていた。
そこには何もない。
なのに、確かに何かがあるように。
ウルティアは、震える指を握りしめた。
理解できない。
でも――
ディアブロが、嘘を言っていないことだけは、魂が知っていた。




