レアリスの言葉を理解した【俺】
レイズは、廊下の静けさに足音を溶かしながら歩いていた。
宴のざわめきは背中の向こうにある。笑い声、皿の触れ合う音、子どもたちのはしゃぐ声――あの温度を、ここに持ち込んではいけないと直感していた。だからこそ、扉の前でいったん呼吸を整える。
(……ここだよな)
イザベルの部屋。
いつだって強くて、まっすぐで、レイズの前では怒って、照れて、笑ってくれる。そんな彼女が、さっきは視線を逸らして逃げるように去っていった。
あの背中が、なぜか小さく見えた。
レイズは拳を作り、軽く扉を叩く。
「――イザベル?」
返事はすぐにあった。
「……レイズ……?」
声が、低い。掠れている。喉の奥に何か詰まっているような、無理をして整えようとしているような。
レイズは、わざと少しふざけて言った。
「ぁあ、俺だよ。オレオレ」
暗い空気を作りたくなかった。宴の温度を守りたかった。そして何より――扉の向こうの彼女を、ひとりで沈ませたくなかった。
間があって、くすりと笑う気配がする。
「なにそれ……オレオレって……品性が足りてないわよ」
「ひでぇな。俺は精一杯、明るくしようとしてるんだぞ」
「明るくする方向が、雑すぎるの」
扉が開く。
レイズは、その瞬間に息を止めた。
イザベルの目元が赤い。ほんの少し腫れている。涙の跡が残っているわけじゃない。でも、“泣いた”のがわかる程度には、彼女の瞳が揺れていた。
レイズは一歩踏み込むより先に、言葉が出た。
「……え。なんで泣いてんだよ。ほら、イザベル。お義父さんが、みんなが楽しく待ってる。行こうぜ」
「泣いてないわよ!?」
反射みたいに声が上がって、すぐに弱くなる。
「……ただ……まぁ……レイズの前なら、いっか」
「なんだそりゃ」
レイズは扉を閉める。室内に入ると、外の音がぐっと遠のいた。静けさが、彼女の赤い目元を強調する。余計な言い訳ができない空間。
イザベルは、レイズを見ているようで、どこか見ていない。
「ねぇ、レイズ……」
声が震えている。怒りじゃない。悲しみでもない。もっと別の、胸の奥の火種みたいなもの。
「……貴方がお父様と、何を話したのか……聞いてもいい?」
その“聞いてもいい?”が、どれほど勇気を含んでいるか、レイズにはわかってしまった。
レイズは、ふっと息を吐く。
「ぁあ……いいぞ」
そして、すぐに釘を刺す。
「だけど暗い話はなしだ。そういうの、今の俺、嫌だからな」
「ふぅーん」
イザベルは目を細める。
「暗い話もしてたんだ?」
「な、いや! してないしてない! ほんとだぞ!?」
自分で言った矢先に焦ってしまう。その反応で、イザベルは何かを確信したらしい。
彼女は、ため息の代わりに笑ってみせる。
「どうせ……“自分がレイズじゃない”とか、言ってたんでしょ?」
レイズの背中が、ぞくりと冷えた。
「……な、なんでわかるんだよ……?」
「ほらね」
イザベルは、泣いた顔のまま、しっかりと言う。
「だって、レアリスと会話したときから……様子がおかしかった。ウルティアって魔女を……還した、って言ったでしょ? そこからずっと、思い詰めた顔してた」
レイズは、喉の奥が痛くなるのを感じた。
隠してきたつもりだった。明るく振る舞ってきた。宴の温度を守ってきた。けれど――イザベルは、最初から見抜いていた。
「……ぁあ」
短く肯定してしまう。
「まぁ、レアリスの“実”のくだりか……あれ、なんとなく俺には理解できちゃったんだよな」
「どんな風に、理解したの?」
イザベルの問いは、優しい。でも逃げ道はない。
レイズは、壁に背を預けるようにして座り込む。床の冷たさが、変に現実的だった。
「そうだな……前まで……数年前まではさ」
言葉を探す。口の中の乾きが、呼吸のたびに痛い。
「俺、なんとなくだけど……“レイズと二人で生きてきた”って感覚があったんだ」
イザベルは、黙って頷く。
その頷きが、“わかるよ”と言っているようで、レイズの胸が余計に苦しくなる。
「だけどな……俺が目を覚ますとき――っていうのか……この世界に戻れたときに……俺、会ったんだよ。本当のレイズに」
「また……“本当”とか“偽物”とか……」
イザベルの声は弱い怒りを含む。けれどレイズは首を振った。
「いやいや。……まぁ、暗い話をするつもりはない。短かったけどさ、あいつと会話をした」
思い出す。あの短い時間。あの、曖昧な境界。目の前にいたのは、確かに“この世界のレイズ”だった。
「そのとき、あいつ――自分はもう必要されてないみたいなこと、抜かしてさ」
イザベルの肩が小さく揺れる。
「……ばっかみたい……」
その言葉が、レイズの胸を刺した。
「俺はもちろん、そうじゃないって伝えた。だからこれからも一緒に、この景色を、この世界を見ようって……そういう意味で返事をした」
レイズは、微笑んでみせる。
「それにあいつ……笑ってたんだぜ?」
イザベルは黙ったまま、視線だけが揺れる。
レイズは続ける。
「だから俺も安心したんだ。……またこの世界に、レイズとして……一人だけど二人だ、って。二人で戻って、幸せを――」
言葉が詰まる。喉が熱い。
「……正直、俺はこの体に戻れなくてもよかった。俺がいなくなったこの世界を……見るだけで、知るだけでもよかった」
それは、ずっと胸の奥にあった願いだ。
“奪わない”という形で、誰も傷つけないまま、ただ見届ける。
「レイズが、本当のレイズが……この体でさ。幸せに生きてたらいいなって……思って……なんだ、続きが見たかったんだ」
イザベルが背を向ける。彼女の肩が、少しだけ震えた。
「……それで……?」
促される。
レイズは、息を吸う。
「でも戻ってきたら、体は動かないし……声も出せない。目の前にみんないるのに、俺は……理解した」
あの絶望。触れられない世界。叫べない声。見えているのに、届かない。
「本当のレイズは、この体を動かすつもりがなかったのか……それとも、動かせなかったんじゃないかって」
「……うん」
イザベルの返事が、小さい。
「でも、レアリスの言葉で理解した。俺が戻ってきたから……本当のレイズは、もう戻れなくなったんだって」
レイズは、指先を握る。
「俺の魂が優先されて、この体に入った。……そして、“二人で生きてきた”って感覚が薄くなっていった」
怖いほどに、整合が取れてしまう。
「明確にわかることがある」
イザベルが、ゆっくり振り向く。
「それは……?」
「……俺の前世の記憶が、妙にクリアになってる」
レイズは、自分の頭を指で叩く。
「この世界に来たばっかのころはさ……前の世界の記憶、最初ははっきりしてた。けど本当のレイズの記憶が混ざっていくことで、どこか思い出せなくなってたんだ」
まるで、二つの水が混じって濁るみたいに。
「つまり……レアリスが言ってた“レイズが壊れる”って意味は、たぶんそういうことだ」
レイズは、言葉を選ぶ。いや、選んでも、どうしても剥き出しになる。
「二人分の魂が、一人の器に宿るってのは……互いの記憶が、互いの意志が、互いに削っていく。そうして出来上がった俺は……もはやレイズなんかじゃなくなる」
言ってしまった。胸の奥で、何かが落ちた。
「だからレアリスは……調整した。……そして俺がそれを選んだ」
イザベルの瞳が震える。
レイズは続ける。
「戻るときにレアリスと会話した。元の人格が無くなるって言われた気がする。でも俺は、どうしても戻ることを選んだ」
守りたかったから。守りたいものが、ここにあったから。
「だから魔法も使えない。魔力も見えない」
言葉が冷たい事実になる。
「それは本当のレイズが、この体から強く弾かれた意味だって理解した」
もともと氷属性も死属性も、本来のレイズの特性だ。この世界で生まれた人間の特性だ。
「俺はこの世界じゃない。元の世界では、魔法なんてない。そもそも魔法って概念はファンタジーだ。幻想だ。妄想だ。……俺の現実は、そういう場所だったから」
沈黙が落ちる。
イザベルは、しばらく言葉を探しているようだった。
「それを……お父様に話したの?」
レイズは首を振る。
「いや。ここまでは話してない。“俺がレイズじゃない”ってことを伝えた」
それだけで十分、重い。ガルシアが受け止めた重さを思うと、胸が熱くなる。
「未来を変えられたって話もした。でも……俺はレイズじゃないって伝えたんだ」
イザベルの声が、怒りに近い震えを帯びる。
「……なんで、いつも一人でそんな抱え込むのよ……」
レイズは笑うように息を吐く。
「言えるわけないだろ……怖かったんだと思う」
そして、言葉が崩れる。
「俺がもう……過去の本当のレイズを……奪ったんじゃないかって」
ウルティア。アルティナ。誰かの体を奪い、名前を奪い、存在を奪う。
「それが魔女で、それが敵だって……言ってたのに……俺はウルティアを還す判断を迷わずした」
守るためだった。必要だった。正しい判断だった――それでも。
「それがみんなを守るためだとしても……俺には、そんなことをする資格なんて無かったんじゃないかって、本気で思ってさ」
イザベルの嗚咽が、静かな部屋に落ちる。
「……バカ……」
その一言が、刃じゃなく、温度で刺さった。
レイズは、視線を上げる。
「ぁあ、バカだったよ」
そして、声を強くする。
「でもな。ガルシアは……お義父さんは……そんな俺だからレイズだって言ってくれた」
思い出す。ガルシアの、あの目。あの声。あの“託す”という行為。
「俺だから認めてくれた。俺だからイザベルを任せられるんだって……それが、すごく嬉しかった」
言葉が震える。自分でも驚くほどに。
「いままでは……レイズが側にいた感覚があった。だから俺も、レイズとして生きていく自信があった」
でも。
「でも……あいつはもう近くにいないんだって……それでどこか、自信を無くしてた」
“俺”だけで抱えるには、この世界は広すぎる。
「俺にイザベルを、レイナを、リアノも、リアナも……アルバード全員を……抱えることなんてできないんじゃないかって」
レイズは拳を握り、ほどく。
「だからお義父さんに言った。アルバードはもういらないって。もう目的は果たされた。みんな生きてる。みんな違う未来を進んでる。だから俺を最優先にするなって……」
イザベルが、涙のまま首を振る。
「もう……いいわ……もう言わなくても……」
レイズは、笑って首を振った。
「いや、言わせてくれ」
そして、はっきりと言った。
「レイズとしてじゃない。……俺は俺として、ここに在るってことを、これからは自信持って生きていきたい」
言葉が、ようやく胸の底に届く。
「レイズじゃない俺が……俺が、ちゃんと俺として、この世界で在りたい。そう願った」
イザベルの瞳が揺れ、そして決壊する。
彼女は、すごい勢いでレイズに抱きついた。
体温が、現実を戻す。
「……ごめんね……私から聞いたのに……でも、それ以上言わなくていい……」
レイズは、彼女の背中に腕を回す。
「いや……言わせてくれ」
声が震える。でも逃げない。
「俺は俺として……イザベルを、レイナを愛してもいいか……?」
イザベルは、胸の奥から絞り出すように言う。
「……ほんとに……」
そして、泣き笑いになる。
「私は最初から……あなたが、あなただから、好きなんだよ」
強い。ぶれない。レイズの恐れていた“本物”という概念を、一息で粉々にする。
「前のアルバードのレイズくんだからじゃない。あなたがこの世界に来て……私はすぐにあなたのことが好きになった」
だから、と彼女は言う。
「本物とか意味ないわよ。私は……いまのレイズが大好きなんだから。……バカ」
レイズの胸に、熱いものが広がる。
ずっと欲しかった言葉。ずっと怖くて聞けなかった言葉。
「……ぁあ。ありがとう」
彼女の髪に顔を埋める。香りがする。生きている匂いだ。
「イザベル。俺はちゃんと俺として、おまえを愛して、これからも側にいたい」
言い切ってから、少し間を置く。
「……いてくれる……よな?」
イザベルは、泣いたまま鼻で笑う。
「そこは……“いてほしい”でしょ」
「……そうだな」
レイズも笑う。
「じゃあ、いてくれるか?」
「ほんとに……バカなんだから……」
けれど、その“バカ”はもう刺さる言葉じゃない。守ってくれる言葉だった。
レイズは、イザベルの肩から少しだけ離れる。目元の赤さが残っている。その赤さが、なぜか誇らしい。
彼女が、ちゃんと心で生きている証だ。
「行こう」
レイズは言う。
「みんな待ってる。……俺たちの家族が」
イザベルは小さく頷く。
「……うん」
扉を開けると、宴の温度が戻ってくる。
笑い声。食器の音。誰かの呼ぶ声。
レイズは、その温度の中へ踏み出す。
もう、役割のために歩くんじゃない。
“俺”として、家族の場所へ帰るために。
その背中に、イザベルの手がそっと触れた。
その温かさが、答えだった。




