じいさまもまた人間
軽い足取りと、重たい足取り。
二つの響きが廊下に重なって食堂へ近づいてくる。
その音を耳にしたヴィルは、そっと瞼を閉じた。
――孫たちが並んでやってくる日が、本当に訪れるとは。
胸の奥に深く、言いようのない想いが広がる。
「さて……今日は優しい笑顔で迎えてやろうか」
そう決め、穏やかな表情を浮かべて待つ。
やがて扉が開き、元気よく飛び込んでくるイザベル。
その愛らしい姿に、思わず頬が緩む。
「……あぁ、かわいい孫よ」
続いて入ってきたのは、どこか神妙な顔つきのレイズ。
しかし、なぜか足を止め、食堂の入口で立ち尽くしてしている。
優しい顔で迎えるはずだったのに――
その様子を見た途端、ヴィルの表情は自然と引き締まっていた。
「……レイズ。座りなさい」
無意識に口をついたその声は、孫を気遣う優しさではなく、当主を諭す厳しさを帯びていたのだった。
レイズが立ち尽くしたのには、確かな理由があった。
そこに並んでいたのは――「適量」の食事。
これまで屋敷で出された料理といえば、山のように積まれた肉や丸焼きのご馳走ばかり。
“食べきれねぇだろ!”と心の中で突っ込まずにはいられなかった。
だが今日は違う。
目の前の皿には、自分一人にちょうどいい分だけが丁寧に盛り付けられていた。
「……え、マジで? こんな普通の量……あるんだ……」
思わず呟きそうになるレイズ。
胸の奥に、ふっと温かいものが広がっていく。
「……レイズ。座りなさい」
ヴィルの低い声に呼ばれ、レイズはようやく我に返り、食堂へと足を踏み入れた。
ヴィルはレイズが席につくのを待ち、少し申し訳なさそうに口を開いた。
「……二日続けて、ここまでボロボロにしてしまいましたね。
わが孫レイズよ、よく来てくれた」
その声音には、祖父としての誇らしさと同時に、深い心配が滲んでいる。
「今日は料理としての華やかさには欠けるかもしれん。
だが、お前の体の調子を思えば――あえて少なめにしてある」
その言葉に、レイズは思わず目を見開いた。
豪勢すぎる料理ではなく、自分のためだけに用意された「適量」。
その事実が、胸の奥にじんわりと沁みていく。
レイズは、並べられた料理を前にしばし黙り込む。
けれどすぐに顔を上げ、どこか明るく声を張った。
「大丈夫! 元気だぞ!」
そう言って、わざとらしくお腹をぺちぺち叩いてみせる。
――気遣いに、気遣いで返す。
その不器用な仕草に、ヴィルはふっと目を細めた。
二人の間に一瞬だけ、言葉のいらないやりとりが生まれる。
「心配するな」
「無理をするな」
互いにそう伝え合っているように見えた。
だが、そのやり取りをじっと見ていたイザベルは違った。
(……レイズくん、それ絶対間違ってるよ)
わざと明るく振る舞っている。
そして元気を見せるアピールの仕方。
イザベルはそのことに気づいてしまい、胸が少しだけ締め付けられて....はいなかった。
そうして――この先、自分を待ち受ける展開を、レイズはまだ知らない。
ヴィルはレイズの明るいアピールを見て、深く頷く。
「……そうか。やはり、大層お腹を空かせているのだな...」
その表情はどこか悲しげで、悔やんでいるようでもあった。
(わが孫を……こんなにもひもじい思いをさせてしまうとは……)
ふとレイズの体つきを眺める。
――気のせいか、ほんの少し縮んでいるようにも見えた。
「……そうか。痩せ細ってしまうほどに……」
ヴィルの胸に、勝手な確信が芽生える。
力強く言い切ると、すぐに声を張った。
「誰か! 来てください!」
その声に応じて、静かに扉が開かれる。
重厚な気配をまとい、姿を現したのは――執事セバス。
白銀の髪をきちんと整え、背筋は真っすぐ、気品すら漂わせながら歩み寄る。
彼の一歩ごとに空気が変わり、場が凛と引き締まっていく。
レイズは思わず目を輝かせた。
「ぉお……かっこいい!!」
子供のようにキラキラとした瞳で、セバスを見つめる。
ヴィルは神妙な面持ちで、セバスに低く何事かを告げている様子だった。
その声音には威厳があり、一言一句に重みが宿るそんな感じだろう。
セバスは静かに頷き、必要以上の言葉を挟まず、ただ誠実に耳を傾けている。
――それは、誰が見ても「当主と執事長」のやり取り。
一つの家を支え、長く歴史を重ねてきた者同士だからこそ成立する、本物の空気がそこにあった。
場を包むその緊張感の中で――
「んぐっ、もぐっ……うまっ!」
レイズは目の前の皿をパクパクと夢中で食べていた。
真剣な空気とは裏腹に、食欲を満たすことに必死なその姿は、妙な対比を生み出している。
やがて話を終えたセバスがふとレイズの方へと視線を向ける。
その鋭い眼差しと目が合った瞬間、レイズは「へっ?」と口を止める。
セバスは一瞬だけ表情を緩めると、重々しく深く頷き――その場を静かに後にした。
セバスは一礼すると、そのまま厨房へと足を運んだ。
そして料理長へ静かに告げる。
「――至急、すぐに出せる料理を用意せよ。当主がお望みだ!!」
その声音は厳しくも揺るぎなく、瞬く間に厨房が慌ただしく動き出す。
一方その頃、食堂では――。
ヴィルがゆっくりと杯を傾け、レイズの方へと視線を移した。
「……今日のクリスとの模擬戦。実に見事だった」
「えっ……?」
レイズは思わず手を止める。
まさか褒められると思っていなかったのか、口をもぐもぐさせたまま固まってしまう。
ヴィルはそんな孫を見て、ふっと目を細めた。
「レイズ。お前は……クリスが何者か、知っているな?」
低く落ち着いた声が、重く食堂の空気に響いた。
イザベルは、どこか期待に満ちた眼差しで二人のやり取りを見つめていた。
一方で、レイズは重く息をつき、その視線を受け止めた。
脳裏に浮かぶのは、未来のクリス――いや、ウラトスの終わりの姿。
不敵に笑みを残し、自らを貫き退場したあの最期。
それを思い出しながら、レイズはゆっくりと落ち着いた声で返事をした。
「……はい。知ってます。
クリスは……最強の一人として数えられる、そんな人物でした」
あえて“過去形”で。
その言葉を聞いた瞬間、ヴィルの表情に影が落ちた。
「……そうですか。
――クリスがいても、どうにもならなかったのですね。」
絞り出すような声。
そこには、孫を守りたいと願ってもなお届かない未来への、深い悔しさと無念がにじんでいた。
重苦しい空気が広がる中、沈黙を破ったのはイザベルだった。
まるで何かを悟ったかのように、首をかしげながら口を開く。
「ねぇ……もしかして、未来の私たちのお話してるの?」
その言葉に、レイズとヴィルの肩がわずかに揺れる。
核心を突かれたことに、場の空気が一瞬止まった。
イザベルは真剣とも茶化しともつかない声色で続ける。
「だって……レイズくんの顔、今まで見たことないくらい真剣なんだもん。
それに、おじいさまも……まるで“まだ来てない何か”を見てるみたいに話してるし」
そう言って、イザベルはふっと笑みを浮かべた。
「……なんかズルいなぁ。私も仲間に入れてよ?」
レイズはイザベルの視線を正面から受け止め、深く息をついた。
そして――安心させるように、静かに言葉を落とす。
「知る必要ない。……おれが、そんな未来は全部消す」
イザベルは目を丸くしたあと、ふっと微笑んで――
「……やっぱりレイズくん、かっこいい〜」とおどけて言う。
「うるさいわ! 雰囲気壊すな!」
顔を赤くしたレイズが即座に吠える。
そんな二人のやり取りを見ながら、ヴィルはゆっくりと目を細める。
「……私は、こんなふうに三人で過ごせる時間を……ずっと待っていたのかもしれません」
そこにはどこか哀愁が漂っていた。
「待っていた……?」
レイズが小さくつぶやいたその直後――
「――お待たせしました」
扉が開き、セバスの合図と共に、次々と料理が並べられていく。
「待ってないわっ!!」
慌てて叫ぶレイズ。
だが、その声をかき消すように、食堂は華やかな香りと賑わいに包まれていった。
次々と並べられる料理。
イザベルの明るい声、レイズの照れ隠しのような突っ込み、そしてヴィルの穏やかな笑み。
さっきまで重く張り詰めていた空気は、まるで嘘のように解けていく。
――そうして、暖かい時間が三人を包み込むようだった。




