グレサスの胸中
王国の港。
夜明け前の潮風が、重く湿った空気を運んでいた。
小屋の前で、
グレサスとデュランは無言のまま向かい合っている。
デュランは、
一度受け取った黄金の剣を、再びグレサスへと突き返した。
「……だとしてもだ」
低く、しかし強い声。
「この剣は、おまえが墓場まで持っていろ。
それが――最強の責任だ」
グレサスは、剣を受け取らない。
静かに、告げる。
「俺は……いまからジュラへ向かう」
一拍。
「あそこで――
死ぬつもりだ」
デュランは、乾いた笑みを浮かべた。
「ならば、私も共に行く」
即答だった。
「友を死なせるつもりはない」
グレサスは、首を横に振る。
「ジュラが俺を殺すのではない。
俺が――俺を殺すのだ」
「……自害するつもりか?」
「そんな、恥ずかしい真似をすると思うか?」
グレサスの声は、妙に澄んでいた。
「全力で、俺は俺と戦う。
それだけだ」
デュランは歯噛みする。
「言いようだろう……
認められるわけがない……!」
声が震える。
「まだだ。
まだ、猶予はあるはずだ」
グレサスは、ゆっくりと首を振った。
「猶予など、ない」
そして、はっきりと。
「レイズこそが、最後の繋だった。
だが……やつは、もうあの不可思議な力を使えない」
「死属性……ですか」
デュランは唇を噛む。
「稀ではあるが……
きっと、持つ者は他にもいるはずだ」
「それを見つける前に――」
グレサスは、視線を伏せる。
「エルビスが、いなくなるかもしれない」
沈黙。
「……それでもだ」
デュランは必死だった。
「もう数日だけ、待てないのか……?」
「無理だ」
即答。
「待てば待つほど……
エルビスに悟られてしまう」
「隠せ。
隠し通せ」
「……できない」
「できる!」
思わず、デュランは声を荒げる。
「いつものグレサスだ!
おまえなら、必ず――」
その言葉を、
グレサスは静かに遮った。
「……エルビスを見るたびに」
小さく、吐き出す。
「私は……
死にたくなるのだ」
その一言に、
デュランは言葉を失った。
「……それほどまで……」
絞り出すように。
「愛しているのか……」
グレサスは、わずかに笑った。
「ああ」
迷いはない。
「誰よりも、何よりも」
そして、続ける。
「エルビスを。
……そして、息子のエルスを」
デュランは、何も言えなかった。
否定など、できるはずがなかった。
その頃、海上。
グレサスのサーチによって、
一瞬、世界が軋んだ。
「……いまの、感じましたよね?」
ピスティアが、静かに尋ねる。
ジェーンは、肩をすくめた。
「ああ……とんでもないねぇ。
あれは……間違いなく、最強の一人だ」
リリィは、胸元を押さえる。
「いまのが……王国最強……?
どうして、あれほどの魔力を……」
アリスは、不思議そうに首を傾げた。
「でも……怖くなかったよ?」
にこりと笑う。
「なんだか、
とっても優しい感じがした!」
聖女――
魔力の“質”を感じ取る存在。
ジェーンは、納得したように頷く。
「アリスがそう言うなら……
敵意はないね」
「入国検査、ってところかい」
リリィは、不安そうに俯く。
「……あの……
私、受け入れてもらえるのでしょうか……」
ピスティアは、迷いなく言った。
「大丈夫です」
柔らかく。
「リリィは、とても優しい魔女ですから」
リリィは、ほんの少しだけ唇を噛み、
小さな声で呟いた。
「……はい。
私は……魔女……見習い、ですけど……」
港へ到着した一行は、
すぐに異変に気づいた。
重苦しい空気。
騎士たちが、
一様に小屋の方角を気にしている。
ジェーンは、にやりと笑う。
「ねえ、聞いてもいいかい?」
「一体……なにがあったんだい?」
「……なにもございませんが」
だが、
一瞬の“間”。
ジェーンは見逃さない。
「へぇ……
あの小屋に、何かいるんだねぇ」
「近づかないでください!」
騎士が制止する。
だが次の瞬間、
ジェーンは大声で叫んだ。
「やぁ!!
私は聖国から来たジェーンだー!!」
港に響く声。
「なぁ!?
いるんだろ!?
王国最強の――グレサス!!」
当然、その声は届いた。
デュランが顔をしかめる。
「聖国の……?」
グレサスは、静かに立ち上がる。
「呼ばれた以上、
顔くらいは見せてやるか」
「デュラン、ついてこい」
騎士たちは、
グレサスの一言で道を開けた。
ジェーンは、彼の姿を見て口笛を吹く。
「へぇ……
王国最強は、鎧も着ないのかい」
「たいした自信だ」
グレサスは、薄く笑う。
「なに……
もはや王国最強は、私ではない」
そして――
視線が、止まる。
ジェーンの背後。
一人は、
魔女の風貌を持つ少女。
そして、もう一人。
――エルビスに、
あまりにもよく似た女性。
胸の奥が、軋む。
「……おまえたちは……」
ピスティアが、一歩前に出た。
「グ、グレサス様……!」
深く頭を下げる。
「私は……
エルビスの姉、ピスティアと申します……」
恐る恐る。
「……エルビスは……
元気に、していますか……?」
グレサスは、一瞬だけ目を閉じ、
そして答えた。
「ああ」
穏やかに。
「今日も、これからも――
最高の女だ」
ピスティアは、目を瞬かせる。
「……えっと……
つまり……元気、なんですね……?」
「……ああ」
「私の屋敷にいる。
立ち寄るといい」
「……ありがとうございます!」
深く、頭を下げる。
その横で、
リリィが慌てて口を開いた。
「わ、わたしは……!
リリィといいます……!」
「その……
一応……魔女、ということになっています……」
その言葉に、
グレサスの眉が、わずかに動く。
――魔女。
視界の端に、
一瞬だけ“青い靄”が揺らいだ。
……いや。
すぐに、消える。
(……見えない……?)
違和感。
目の前の少女は、
あまりにも“普通”だった。
デュランが、一歩前に出る。
「グレサス……
これは……」
そして、リリィに向き直る。
「リリィ殿。
緊急です」
真剣な眼差し。
「魔女の“呪い”について、
確認したいことがあります」
「……どうか、ご同行願えますか?」
グレサスは、
なおもリリィから目を離さない。
――これが、魔女?
短く、息を吐く。
「……来ること自体は、問題ない」
そして、静かに続けた。
「だが……
一つ、確認したいことがある」
リリィは、背筋を伸ばし、頷いた。
「は、はい……!
私に、わかることでしたら……」
グレサスは、短く。
「助かる」
そして、
小さく礼を述べた。
少し前
エルビスは修練所を駆け回っていた。
誰かを捕まえては尋ね、
答えを聞くたびに、胸が締めつけられる。
――デュランは港にいる。
その言葉を聞いた瞬間、
考えるより先に、体が動いていた。
必死に、港へ向かって走る。
朝、使用人たちが丁寧に整えてくれた髪も、衣服も、
もはや原形を留めていない。
風に乱れ、汗に濡れ、
頬には――なぜか、涙が伝っていた。
「……どうして……」
理由など、考えなくてもわかっていた。
グレサスに、会いたい。
それだけで、
彼女の頭の中は埋め尽くされていた。
昨夜まで、すぐ隣にいた。
いつものように、
自分にだけ向けられる、あの優しさ。
特別で、当たり前で、
それが永遠だと、疑いもしなかった存在。
――それが、どこか遠くへ行ってしまう。
そんな予感が、
胸いっぱいに広がっていく。
そして。
港が、見えた。
視界の先に――
グレサスの姿と、デュランの姿が映る。
エルビスは、思いきり息を吸い込み、
叫んだ。
「グレサス!!!!」
その声に、
ピスティアがはっとして振り向く。
「エルビス!!」
だが、その声は届かなかった。
エルビスは、
ただ一直線に、グレサスへ向かう。
そして――
勢いのまま、彼を抱き締めた。
強く、
縋るように。
それが安堵なのか、
それとも恐怖なのか。
自分でも、もう分からない。
ただ、
大粒の涙が、次々と零れ落ちていく。
グレサスは、
抱き締められたまま、静かに声をかけた。
「……エルビス」
いつもと変わらない、落ち着いた声音。
「おまえの姉が来ている。
挨拶をしなさい」
だが、その声は――
エルビスの不安を、止められなかった。
「グレサス……」
震える声。
「どこにも行かないで……お願い……」
指先が、彼の背に食い込む。
「どこにも……どこにも……」
その怯えきった姿に、
ピスティアは思わず息を呑む。
「……エルビス……」
だが、
エルビスは顔を上げない。
リリィは、戸惑いながら一歩引き、
小さく尋ねた。
「……その……
私とのお話は……また、後にしますか……?」
グレサスは、
一瞬だけ、目を閉じる。
そして、静かに首を振った。
「いや……」
低く。
「こうなってしまっては……
もう、伝えるしかない」
周囲を見渡し、告げる。
「……皆、ついてくるがいい」
そう言って、
グレサスはエルビスの頭を、そっと撫でた。
乱れた髪を整えるように、
いつも通りの、優しい手つきで。
そして、
その手を、しっかりと握る。
その瞬間――
グレサスの指先が、わずかに震えた。
それに気づいたのは、
ただ一人。
デュランだけだった。
(……ああ)
デュランは、理解していた。
いま、グレサスの胸の内に渦巻いている感情。
それは――
守りたい、ではない。
逃げたい、でもない。
――ただ、
一刻も早く、死にたくなっている。
愛してしまったが故に。
抱き締められているが故に。
その震えは、
最強の男が、
人として限界に立っている証。
エルビスが抱きついた瞬間、
グレサスは――抱き返さなかった。
腕は、持ち上がりかけて。
そこで止まった。
まるで、
自分の体を自分で押さえつけるように。
指先が震える。
(……ここで抱き返したら)
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
(俺は……行けなくなる)
だから、抱き返さない。
優しく撫でることはできても、
抱き締めることだけは――できなかった。




