霊視
一夜が明けた。
寝室の窓から差す光は柔らかく、屋敷はいつもと変わらぬ朝を迎えた――はずだった。
ただ一つ、違うものがある。
グレサスが、いつもの鎧を着用しなかった。
鎧の間で慌ただしく動いていた使用人たちは、手を止める。
銀白の胸当て、肩当て、肘、腰――“ハクライ”の一式が整えられ、いつでも主を迎えられるように磨き抜かれている。
だが、当の主は、そこへ手を伸ばさない。
「……グレサス様」
恐る恐る声がかかる。
「こちらのハクライは、装着なさらないので……?」
グレサスは、気軽な調子で笑った。
「不要だ」
短い。
それだけで終わるはずがない、と使用人たちは思う。
しかし、グレサスは続けて、あくまで穏やかに言った。
「そもそも、私に鎧など意味をなさない」
――その言葉に、異様な説得力があった。
確かに、グレサスにとって鎧は“守り”の道具ではない。
鎧が主を守るのではなく、主が鎧を“着てやっている”。
そんな不釣り合いが、昔からあった。
それでも彼は欠かさず鎧を身にまとっていた。
王国の最強である証。
そして、グレイオンの誇り。
だが、今日は違う。
グレサスは、軽い服装を整えると、腰に黄金の剣を一本だけ掛けた。
準備を整える動作は素早く、迷いがない。
まるで“いつものこと”のように。
そして、そのまま外へ出ていった。
「……グレサス様」
呼び止める声も、背中には届かない。
同じ頃。
屋敷の奥から、眠たげな声がした。
「あら……グレサスは、まだ屋敷にいるのかしら……?」
寝起きの髪を指で押さえながら、エルビスが使用人に尋ねる。
「ハッ……奥様」
使用人は一瞬だけ言いよどみ、そして覚悟を決めたように答えた。
「それが……グレサス様は……ハクライは不要と。剣一つで、すでに出掛けてしまわれました」
エルビスの瞳から、眠気が消える。
「……そんなわけないでしょう?」
声の温度が一段下がる。
「グレサスは、どこへ?」
「ハッ……おそらくでございますが……城へ向かわれたかと」
エルビスは深く息を吐いた。
「はぁぁ……」
その溜息は、呆れではない。
“胸騒ぎ”に近い。
「いいわ。私が届けてくる」
言い切って、エルビスは踵を返した。
「この子をお願いします」
抱いていた子をそっと使用人へ預け、そそくさと支度を始める。
「奥様! そんな……わたくしどもが!」
使用人たちが慌てて声を上げるが、エルビスは笑って首を振った。
「あなたたちが持って行っても、グレサスは着てくれないわよ」
その笑いは馬鹿にしたものではない。
グレサスが「着ない」と言ったのなら、使用人がどれほど言っても逆効果だ。
むしろ、主の機嫌を損ねる。
「でしたら……せめて荷物係としてだけでも……」
「必要ないわ!!」
エルビスの声が鋭くなる。
使用人たちは、背筋を伸ばした。
エルビスは一歩踏み出し、はっきりと告げた。
「私が、汗をかいて苦労して持って行った姿を見せるのが――グレサスには一番効くのよ」
使用人たちは思わず頭を下げる。
「……まさか、そこまでお考えとは……。ですが、護衛は……」
エルビスは、今度は優しく微笑んだ。
「それこそ……今、一番いらないわ」
静かな声。
「こう見えても私、元は帝国の一人よ。自分の身くらい守れます」
そして、少しだけ視線を逸らして、どこか照れたように続ける。
「それに……今、グレサスの妻に手を出すって選択を取れる勇気ある者がいるなら……それこそ会ってみたいわ」
使用人たちは、もう何も言えない。
グレサスの意思が固いのなら、エルビスも同じくらい固い。
だが、過度な心配はしていない。
今の世界は――安全そのものだ。
「……いたたた。髪が引っかかって……」
エルビスが髪を整えようと焦ると、使用人がすぐに進み出た。
「では奥様。私どもが仕上げさせてください。これだけは、どうか」
その“願い”に、エルビスは少しだけ肩を落として笑う。
「……じゃあお願いね」
グレサスは迷いなく王城の前へ辿り着いた。
門兵は、彼の姿を見た瞬間、目を見開く。
鎧がない。
あまりにも軽装だ。
「グレサス様……その……?」
だが、疑問は口にした途端に萎む。
“拒む”という選択肢が存在しないからだ。
肩書きだけではない。
この国の誰もが知っている。
――進路を拒むことなど、不可能だ。
グレサスは、門兵へ穏やかな笑みを向けた。
「朝早くからご苦労なことだ」
そして歩き出す。
「では、陛下に会いに行く」
王城へ入ると、今度は使用人たちが大慌てで駆け寄ってくる。
「えっ……!? グレサス様!?
陛下は、まだお休みで……!」
グレサスは笑いながら、ただ一言。
「起こせ」
その短さが、命令以上の重さを持つ。
使用人たちは反射的に走った。
リオネルの部屋に、ノックが響く。
「陛下……申し訳ございません……」
リオネルはすぐに目を開けた。
「何用だ……こんな朝早くから……」
「そ、それが……グレサス様が……鎧も着ずに……すでに王城にお越しです……!」
リオネルは額を押さえ、呆れたように笑った。
「……やっぱり自由すぎるな、あいつは」
だが、笑いの奥に、嫌な気配が混じる。
――鎧を着ていない。
それは、グレサスにとって“ありえない”。
「わかった。すぐ準備する。
グレサスには玉座で待つよう伝えろ」
「は、はい!」
グレサスは玉座の間で、ただ一人待つ。
装飾された灯り。
メモリアルストーンを使った煌びやかな意匠。
見事で立派な空間――それが、王国の象徴。
グレサスは、珍しくそれを眺め、呟いた。
「まったく……ここもずいぶんと、変わったものだ」
普段の彼なら、景色を味わうことなどしない。
ここは“いつもの場所”であり、彼にとっては談笑の場――それで十分だった。
コツコツ、と足音。
リオネルが入ってくる。
玉座に腰を下ろし、深く息を吐く。
「……ふぅ。
それで……?」
リオネルの視線がグレサスを貫く。
「その格好は……なんの真似だ?」
グレサスは一歩進む。
頭を深く下げ――そして、跪いた。
「ハッ」
静かに、言葉を置く。
「この、グレサス=グレイオンは――
本日をもって……騎士を退任させていただきます」
一拍、沈黙。
リオネルの顔が固まる。
「……おい。冗談はほどほどにしろ。
もしかして昨日のことを怒っているのか?」
グレサスは顔を上げない。
「怒る……など、滅相もありません。陛下」
「ではなぜだ!!」
リオネルが声を荒げる。
「王国最強であるお前が!!
そんな、退任など――認められるわけがないだろう!?」
グレサスは淡々と答える。
「陛下。
今の時代に“最強”は、求められていない」
「……おい!!
やはり気にしていたのでは!?」
「気にしていませんよ」
冷静な声。
「私自身も、最強であることに興味は、もうございませんので」
リオネルは、長い溜息を吐いた。
「はぁぁぁ……。
グレサス、せめて理由は……説明できないのか?」
グレサスは、沈黙する。
その沈黙は頑固ではない。
迷いでもない。
ただ――決まっている。
そして、ようやく言葉を発する。
「王国に仕えたこの人生。
そして、愛する妻を迎えることができたこの人生」
言葉が、静かに響く。
「私、グレサス=グレイオンは最大の誇りです。
もはや……これ以上は望みません」
リオネルは息を呑む。
その“満ち足りた”言い方が――怖い。
「……グレサス」
リオネルは声を落とす。
「お前の意思は分かった。
だが、せめてデュランに……お前の友であるデュランには説明してこい」
そして、最後に釘を刺す。
「これだけは忘れるな。
お前の肩書きは、決して称号ではない。
お前自身だ。理解しろ」
グレサスは深く礼をし、その場を去った。
リオネルは、頭を抱える。
「……やっぱりな」
昨日から漂っていた違和感。
今、確信に変わった。
――あれは、騎士を辞めたくて辞める男の顔ではない。
「デュラン……頼んだ……。
グレサスを止めてくれ。
もはやお前しか……いない……」
まだ何も知らぬ友へ、王は全てを託した。
グレサスは町を歩く。
人々は気づかない。
気づけない。
――鎧のない最強を見ても、人は現実だと思えないのだ。
修練所へ向かう。
だが、そこにデュランの姿はない。
他の騎士たちはいる。
その顔は緊張で強張っていた。
「おい。デュランは今どこにいる?」
「ぐ……グレサス様!?
デュラン様は……その……港のほうに……職務を……」
グレサスは眉をひそめる。
「第二位騎士が……港で、何をしている?」
そのまま港へ向かった。
その頃、遅れて王城へ駆け込んだエルビスは、兵士に止められかける。
「エ、エルビス様!?
それにその荷物は……グレサス様の……!?」
「そうよ!」
息を切らしながら叫ぶ。
「夫が忘れ物してるから届けに来たの!
通してくれるわよね?」
「ハッ! すぐに!」
そしてなぜか、エルビスは玉座の間へ案内される。
そこに漂う、深刻な空気。
リオネルは彼女を見るや否や、切り出した。
「エルビス……。
グレサスが……王国の騎士を退任すると言ってきた」
「……はい???」
エルビスは固まる。
「そんなわけありませんよ!!
グレサスはどこにいるんですか!?
この忘れ物を届けないと!!」
「エルビス……グレサスは本気だった。
何か知っていることがあるなら……教えてくれ。
グレサスは、一体どうした……?」
「……聞く耳を持ちません。
グレサスに会わせてください!!」
叫びは“使命”の形をしていた。
だが、その奥にあるのは――もっと生々しい予感。
“今すぐ会わなければいけない”
そんな本能が、エルビスを焦らせている。
リオネルは静かに呟く。
「……そうか。お前も何も知らないのか……。
グレサスはデュランのもとに行ったはずだ」
エルビスは鎧を床に置いた。
「デュランさんのとこですね?
分かりました。行ってきます。失礼しました!!」
そして走った。
港。
デュランは入港する船へ魔力をかざしていた。
入国審査――それが彼の仕事だ。
グレサスが声をかける。
「デュラン。……一体何をしている」
デュランは振り向き、グレサスを見て目を見開く。
「……こちらのセリフです。
なんですか、その服装は……」
「王国騎士をやめようと思ってな」
「……はい??」
デュランは言葉を失う。
そして次の入国を気にし、慌てて魔力を展開する。
「……もう少しで終わりますから……!」
「何をやってる」
グレサスが手を伸ばす。
莫大な魔力が、海へ――船へ――一気に広がる。
点在する船すべてを覆うほどのサーチ。
「ならば私がやろう。
このような仕事は、王国騎士がやることではないだろう」
デュランは乾いた笑いを漏らした。
「……ははは。ほんとに規格外だよ、おまえは……」
すぐに顔を引き締める。
「ここで話すことじゃない。
次の入国まで時間がある。小屋へ行くぞ」
港の片隅の、小さな小屋。
「おいおい……王国騎士ともあろうものが、こんなボロい場所で密談か」
「誰のせいだと思ってるんですか。まったく」
デュランは息を整え、真っ直ぐ聞く。
「……それで、理由を聞かせてください」
グレサスは無言で黄金の剣を差し出した。
「今日から、おまえが王国一位だ」
デュランは受け取ってしまう。
受け取った瞬間、手が震える。
そして――怒鳴った。
「いい加減にしろ!!
こんな剣を受け取って、一位!?
何を言ってるんだ、グレサス!!」
グレサスは耳を押さえ、冷静に突っ込む。
「声がでかいぞ。
場所を変えた意味がないだろう」
「悪ふざけはよせ!!」
デュランは詰め寄る。
「おまえが一位の座を、そんな簡単に捨てるわけがない!!
何があった!?
私にも言えないのか!?
私は――おまえの友だろう!? 違うか!?」
グレサスは、しばらく沈黙し――観念したように息を吐いた。
「……デュラン。落ち着いて聞け」
声が低くなる。
「俺は……近いうちにいなくなる」
デュランの瞳が揺れる。
「……いなく、なる?
なぜです……?」
「俺の血にまつわることだ」
「血……?」
「戦いで負けるとか、そういう話ではない。
いわば……呪いに近い」
デュランは息を呑む。
「呪い……?
いつ、そんな……」
グレサスは、笑う。
だが、その笑いは軽くない。
「女を……エルビスを愛したときからだ」
「……エルビスさんが……?
彼女のせいだと言うのか!?」
グレサスは即座に否定した。
「違う。エルビスのせいなわけがない」
そして、静かに言い切る。
「すべては……俺の血のせいだ。
そして――俺が生きていれば、エルビスが死ぬ」
デュランは声を失う。
「……なにを……。
なぜ、そんな……」
グレサスは淡々と告げる。
「魔女の呪いだ」
一拍。
「俺の母は……魔女だった」
デュランの喉が鳴る。
「……魔女……おまえの、母が……?」
グレサスは続ける。
「俺が誰かを愛したとき。
その愛された女は……魔女に奪われる」
デュランは震える。
「……なんで、今になって……」
「グレイオンに生まれた者は強さがすべてだ。
強くなること以外に興味などない。
もちろん、女にも」
そこで、グレサスは少しだけ目を伏せる。
「……だがな。
俺も、ウラトスも――女を愛してしまった」
「ウラトスまで……?」
デュランは混乱する。
だが、すぐに反論が口から出た。
「でも……ウラトスは健在だろう!?
ディアナと結びを交わして、もう数年だ。
何も起きていない!!
なら、おまえも……何も起きないんじゃないのか!?」
グレサスは、指を立てた。
「……そこだ」
「……え?」
「青だ」
グレサスの指先が示す先――そこには、何もない。
空気だけがある。
デュランは目を凝らす。
だが、見えない。
「何を……?」
「青い靄がいる」
グレサスの声は、冷静すぎるほど冷静だった。
「これが……前兆だ。
もし、俺がそれを完全に見えてしまったとき……」
言葉が、少しだけ詰まる。
「エルビスは……終わる」
デュランの背筋が冷える。
「……まさか、霊視……。
それは、魔女の力……」
「ぁあ」
グレサスは頷く。
「魔女の力が俺に宿るとき。
俺に最も近い女に――その魔女の魂は入り込む」
そして、最後の一撃。
「それが……エルビスだ」
デュランは、もう声が出なかった。
受け入れがたい現実が、喉を塞ぐ。
小屋の中に、潮の匂いだけが残った。




