アビスホール
そうして――白い小動物は、屋敷の中へと入り込んだ。
トタトタトタ。
柔らかな足音が、磨かれた廊下に小さく響く。
その背を追うリアノは、息を呑みながら小走りになる。
「ま、待ってください……!」
声をかけても、小動物は振り返らない。
迷いのない足取りで、まるで“最初から行き先を知っている”かのように、屋敷の奥へと進んでいく。
リアノは、その小さな背に目を奪われながらも、胸の奥が凍るのを感じていた。
――見た目は、愛くるしい。
白い毛並み。丸い体。つぶらな目。
けれど、先ほどそれが見せた“異質”を、リアノは忘れられない。
あの瞬間――最強達がぶつけ合った膨大な魔力が、一点に集結し、破滅へ傾いたその場で。
これは口を開けた。
そして、すべてを吸い込み、消し去り、まるで食べ物のように平らげた。
魔力が、消えたのではない。
“無かったこと”にされた。
そんな存在に、軽々しく触れていいはずがない。
トタトタトタ。
歩みは変わらず、しかし屋敷の奥へ行くほど、足音が静かに染み込むように小さくなっていく。
そして小動物は、ある扉の前で止まった。
リアノの呼吸が、ひゅっと詰まる。
「……あ。そこは……」
リアノは反射的に手を伸ばしかけ――すぐに引っ込めた。
指先が震える。
そこは、かつてレイズが使っていた部屋。
ヴィルがまだ健在だったころ、レイズが眠り、考え、笑い、泣いた――小さな部屋。
今のレイズの部屋とは、別の“レイズの部屋”。
白い小動物は、ためらいなく前足を上へ伸ばし、取っ手に爪をかける。
器用に引いて、扉を開けた。
「……っ」
リアノの背筋に冷たいものが走る。
まるで“帰ってきた”みたいだ――そんな錯覚すらする。
トタトタトタ。
白い小動物は部屋の中へ。
リアノは、短く息を吐いた。
「レイズくん……ごめんなさい。緊急なので……」
誰に許可を取るでもない。
ただ、その言葉を自分に言い聞かせるようにして、リアノも中へ入った。
部屋は静かだった。
壁には絵が飾られ、ベッドがひとつ。
余計なものはない。
それなのに、空気だけが濃い。思い出が染みついた空気。
白い小動物はベッドへ跳び上がり、くるりと丸くなると――そのまま、絵をじっと見つめた。
リアノは、恐る恐る近づく。
「こ、この部屋にいては……だめですよ……」
優しく諭す声は、思った以上にかすれていた。
「ほら……なにか、食べ物を……あげるから……お願い……」
しかし小動物は、ちらりとも見ない。
ただ、絵を見つめている。
まるで、それ以外の世界が存在しないかのように。
リアノも、つられるように絵へ目を向けた。
描かれているのは、リアノと、メルェと、レイズ。
三人が並び立つ、過去の一瞬。
リアノの喉が、痛むほどに締まる。
「……もう、この絵は……」
言葉が、胸の奥で引っかかった。
「レイズくんの……。私の……宝物なんです……」
その言葉を聞いた瞬間。
白い小動物の尻尾が、ベッドをパタパタと叩いた。
まるで――“そうだろう”とでも言うみたいに。
「えっと……ここに座れってこと……?」
リアノは目を瞬かせる。
恐る恐る、ベッドの縁に腰を下ろした。
次の瞬間だった。
白い小動物が、ふわりとリアノの膝へ飛び乗る。
そのまま丸くなり――すう、と眠りに落ちた。
「え……ええっと……」
リアノの思考が止まる。
動こうにも、動けない。
変に動かして、この子が起きたら――何をされるか分からない。
けれど、同時に。
どこか不思議な感覚があった。
この部屋の主に、居ることを認められたような。
それが怖いのに、少しだけ――温かい。
(どうしよう……)
焦りが胸を叩く。
(こんなところ、レイズくんに見られたら……)
そして、次に出た言葉は、言い訳みたいで――でも、真実だった。
(大丈夫……ですよね……?)
(私……レイズくんの……その……妻だから……?)
使用人ではなく、妻。
そう思い込まなければ、今の自分の居場所が、崩れてしまう気がした。
リアノは、小動物の温もりと、部屋の静けさの中で、ただ息を潜めた。
――外の喧騒が、嘘みたいに遠い。
その頃、屋敷の外は、まだざわめきが残っていた。
「なぁ!!レイズ!! おまえこれからどうすんだよ?」
ガイルの声が、遠慮なく飛ぶ。
レイズは肩をすくめるように笑う。
「……戦いとは無縁の生活を送りたいんだけどさ。
まだまだ、わからないことや知りたいことが、たくさんあるんだよな」
ガイルは豪快に笑った。
「知りたいことがあるなら、俺に聞いてみろ!
なんせ百年以上も生きてる。そこらのやつよりは、いい答えを出せると思うぜ?」
「いい加減にしろ!!」
即座に噛みつく声。クリスだった。
「ガイル貴様に教わることなど!! ないわ!!」
レイズは横目でクリスを見る。
「クリス? ちょっと静かにしててくれよ?」
「ハッ!!レイズ様!!
ガイル聞いたか!! 静かにするのだぞ!」
「てめぇが言われてんだよ!!」
ガイルの突っ込みで、周囲が苦笑いする。
そこへ、グレサスがクリスの腕を掴んだ。
「ウラトス。ついてこい。話さねばならないことがある。
グレイオン家に関係するものは、知っておかねばならぬ」
クリスは顔を背ける。
「私は!!ウラトスを!
グレイオンの名は捨てた!! つまり無関係だ!!」
グレサスは、いつもの爽やかな笑みを消し、低く言った。
「名の話ではない。
……俺とお前に流れる血についての話だ」
クリスが、ぴくりと反応する。
「血……ですか……?」
レイズが思わず身を乗り出した。
「おい!! それすげぇ気になるんだけど!?」
「お前には関係がない話だ」
グレサスは容赦なく切り捨てる。
「そっちはそっちで話していろ。
では、ウラトス。ついてこい」
クリスは渋々頷き、しかし最後にきっちり敬礼する。
「後程、レイズ様に報告いたしますので!
どうぞお待ちください!」
「ぁあ!? さっさと行け!!」
ガイルが怒鳴る。
クリスは無言でにこにこしながら、ガイルへ中指を立てて去っていった。
「そのハンドサイン……こっちでも共通なのな……」
レイズが乾いた笑いを漏らす。
ガイルは首を傾げる。
「あ? なんだありゃ。意味わかんねぇ」
「ガイル……知らなくていいぞ」
「だな。あいつのことなんか、知りたくもねぇ」
レイズは(そういう意味じゃないんだけどな)と心の中で呟きながら、言葉を切り替える。
そして、ちらりとルルを見る。
ルルは、ガイルの隣で静かに立っていた。
レイズは一拍、間を置いて。
「なぁ……ガイル」
「おう?」
「ルルと……結婚、というか……付き合う気、あるのか……?」
「ぁあ!?」
ガイルの顔が、一気に赤くなる。
「そんなこと今はどうでもいいだろ!!
バカか!てめぇ!!」
レイズは、その反応だけで察して笑った。
「……そうか。悪い」
ガイルが目を逸らし、ぶつぶつ言う。
「……ったく……」
レイズは小さく息を吐き、今度こそ本題へ。
「じゃあ、本題だ。ガイル。
アビスホールってのは知ってるか?」
ガイルの表情が、すっと真面目に変わる。
「あぁ。知ってる。
ディアブロがよぉ……昔言ってたんだ」
――ガイルがまだ百歳になっていない頃。
「何のために、そんなに魔力を食らう必要があるんだよ?」
ディアブロは淡々と答えた。
「好きで食っているのではない。
この地ティグルでは、魔力を還元させねばならぬ理由があるのだ」
「ぁあ!?還元?意味わかんねーな。
お前が全部貯蓄してんじゃねぇのかよ?」
「まさか」
ディアブロは嘲るでもなく、ただ事実として言う。
「我の胃袋程度で、貯蔵できる魔力の最大値はとうに超えている」
そうしてディアブロは、魔力のこもった息を洞窟へ吐きかけた。
スゥ……。
息は大地に馴染み、吸い込まれていくように消えた。
「なぁ……魔力はどこに行っちまったんだよ?」
「一部は大地に帰り、こうしてミスリルのような鉱石となって残り続ける。
だが、吸収しきれない魔力は――アビスホールの奥に住まう我の祖へ与えているのだ」
「……あ?」
ガイルが眉をひそめる。
「アビスホールってなんなんだよ?」
ディアブロは、どこか遠くを見るようにして言った。
「こことはまた別の世界だ。
魔力の供給を怠れば――アビスホールは回収しに来る」
その言葉の重みに、洞窟の空気が冷えた。
「そうなれば……ガイル貴様も、我も、ただではすまないぞ」
ガイルは当時の自分を思い出すように笑う。
「なんだよそれ!!
お前はアビスホールってのが開かないように、ここにいるのか!?」
ディアブロも、わずかに笑った。
「そんなわけない。
ただ、こうして還元をしておけば――敵に回さなくていいものを、敵に回さず済むだけだ」
「意味わかんねーなぁ!!」
当時の会話は、それで終わった。
レイズはガイルの話を聞き終え、静かに思う。
(ディアブロが、ゲームで裏ボスとして君臨していた理由……)
(なんとなく、理解できる)
「ディアブロって……もしかして」
口に出す前に、レイズは自分の中で答えに辿り着く。
(レアリスやニトと――戦わないようにしてたのかもしれない)
ガイルは苦笑いしながら言った。
「あぁ。あいつらはマジでやばかったな。
戦ってる感覚なんて、一切なかったよなぁ」
「まぁ……」
レイズは頷く。
「ニトも、レアリスも……結局は敵っていうより、世界の守護者みたいな立ち位置だしな」
レイズはふと考える。
この世界に“敵”として現れた存在。
ゲームなら、敵は悪だ。倒すべきものだ。
だが――悪役だったレイズの過去を知ることで、悪役=悪という概念は、もう崩れている。
敵として出てきた者には、必ず意味がある。
役割がある。理由がある。
それは、存在を証明するかのように――理が絡まり合っているのだ。
そしてレイズは、まだ知らない。
屋敷の奥――かつての部屋で。
リアノの膝の上で眠るその白い小動物が、何を見つめ、何を選び、何を“止めた”のかを。




