平和ボケ
世界樹にたどり着いたルルの視界に、懐かしい森の気配が満ちていた。
枝葉の隙間から差し込む光は柔らかく、胸いっぱいに吸い込む空気は澄みきっている。魔力の流れすら穏やかで――それだけで、肩に乗っていた重みがすうっと溶けていくようだった。
(……やっぱり、ここはいい)
世界樹の根元へ続く道。その入口付近に、見知ったエルフたちが何人も立っていた。彼らは作業中だったのか、籠や工具、木の板を抱えている。
ルルが姿を現した、その瞬間。
ぽとり、と。
手にしていたものが、同時に落ちた。
「ル……ルルルルルル様!?」
空気が固まる。驚愕と歓喜が混ざった声が森に響く。
ルルは、目を細めて苦笑した。
「……ルが多いわよ」
言い切る前に、エルフの一人が我に返ったように大きく頷き、勢いよく駆け出す。
「た、ただちに! ラエル様のもとへ!」
(あ、父のところだ)
ルルは追いかけようとはせず、近くの木陰へ腰を下ろした。根の張った地面は硬いはずなのに、不思議と座り心地がいい。世界樹の近くにいるだけで、身体の芯が整っていく感じがした。
「んんん……やっぱり世界樹のそばは、いいわね」
そう呟いて目を閉じた瞬間、柔らかな足音が近づく。
「ルルちゃん。おかえりなさい」
開くと、そこにはフェリルがいた。昔と変わらない、穏やかな笑み。けれどその目は、以前より少し強く、頼もしい。
ルルは小さく息を呑み、それから笑った。
「あ……フェリさん……ただいま」
フェリルは周囲を見回し、ふと首を傾げる。
「ガイルさんは……一緒じゃないんですか?」
「ガイルはガイルで、世界樹の外でもみくちゃよ。……仮にも魔王なのにねぇ」
ルルの言い方が面白かったのか、フェリルはこらえきれずに笑った。
「怒ったらとても恐ろしい方なんですが……なんていうのでしょう。そういうところ、レイズさんにそっくりですよね」
ルルは、ぴくりと眉を動かす。
(……レイズ。そうだ、レイズは)
フェリルは、思い出したように手を打つ。
「そうそう。レイズさんは……その、どうされました?」
フェリルは不思議そうに目を瞬かせる。
「え? とっくに目覚めてらっしゃいますよ」
ルルの背筋が伸びる。
「……え?」
フェリルはさらりと続けた。
「魔法が使えないって嘆いてましたけど……ものすごいスピードで走っている姿を見たら、不憫でもなんでもなさそうでした」
「え、ま、魔法が……使えない?」
「それに……」
フェリルは言葉を濁し、少しだけ頬を膨らませた。
「リアノちゃんとリアナさんをお嫁さんにもらって……」
ルルの口が、開いたまま止まった。
「……え? めざめ……え? およめ……? まほう……?」
情報量が多すぎて、頭の中が渋滞を起こす。耳の奥で「は?」が何度も反響した。
そして、次の瞬間。
ルルは立ち上がった。
「大変! ガイルに伝えなくちゃ!!」
「ちょ、ちょっと待って、ルルちゃん」
フェリルが慌てて袖を掴む。
「お父さんに会わなくていいの?」
その一言で、ルルは動きを止めた。
(……父様)
五年ぶり。会いたい――はずなのに、胸の奥に小さな怖さがある。怒っていないだろうか。責められないだろうか。自分の選択を、否定されないだろうか。
ルルは口元を引き結び、小さく訊いた。
「……お父様は、その……元気? 怒ってないかしら……」
フェリルは、呆れたように笑った。
「元気どころか……ルイスさんのお父様と、盤面ゲームをして遊んでばっかりですよ」
「……は?」
ルルの膝が、がくっと崩れた。
「て、帝国の……元皇帝と……エルフの元王が……?」
フェリルはさらりと頷く。
「仲良しですよ。勝った負けたって、二人でずっと」
ルルは、言葉を失った。
エルフと帝国の因縁を知る者なら、あり得ない組み合わせ。敵同士だった歴史が、今は盤面の上で笑い合っている。
(……世界って、ほんとに変わったんだ)
衝撃がじわじわと身体に広がる。嬉しいのか、怖いのか、わからない。ただ、確かに言えるのは――自分が知らないあいだに、世界が前へ進んでいたということだった。
ルルは深く息を吐き、立ち上がる。
「……一目だけ。お父様に挨拶したら、すぐアルバードに向かうわ」
少し迷って、フェリルへ視線を向ける。
「……その。ありがとう」
フェリルは、わざととぼけた顔をした。
「いえ。何のことかわかりません」
そう言って、ふふ、と小さく笑う。
ほどなくして、森の奥から足音がした。
現れたのは、ラエル。
エルフの元王。大樹の影に立つ姿は堂々としていて、歳月を重ねた静けさがある――のに。
口を開いた第一声は、驚くほど淡々としていた。
「ぉお……ルル。帰ってたのか。元気に――」
そして、言葉がふっと途切れる。
ラエルの視線が、するりとルルの腹のあたりに落ちた。
「ふむ……」
ルルの頬が、かっと熱くなる。
「ちょっと!! なに、その視線!? 視線で語るのやめてよ!!」
ラエルは悪びれずに頷いた。
「まぁ、うまくやってくれ」
(……うまくって、なにを!?)
ラエルは、内心で勝手に結論を出していた。
――ガイルとルルの間に子が生まれる未来。
それを密かに楽しみにしていたが、今のルルの様子を見れば、まだ先だろう、と。
ルルは、ぷるぷると震える声で叫ぶ。
「……その、お父様!? 私が帰ってきたのに、それだけなの!?」
「はて?」
ラエルは本当に不思議そうに首を傾げる。
「ガイル殿がそばにいるなら、それ以上に安全な場所などなかろうに」
「そういうことじゃなくて……!」
ルルは地面を踏んだ。
「五年よ!? 五年も顔を合わせてないのに!!」
「五年……?」
ラエルは目を細め、思い出すように空を見上げる。
「そうか。まぁ、そのくらいは経つのか」
そして、さらっと言った。
「ん。元気そうでなにより」
ルルは、呆然とした。
(……それだけ……?)
さらに追い打ちのように、ラエルは続ける。
「それより、早くレイズさんに挨拶をしてきなさい。そちらのほうが優先であろう」
ルルの口が、引きつった。
(……父様、完全に平和ボケしてる……)
胸の奥が、むずむずして、苛立つのに――どこか安心もしてしまう。
だが、納得はできない。
ルルはぷい、と顔を背けた。
「もう!! お父様なんて知らない!!」
そして、そのまま足早に森を離れていく。
背後でラエルは「そうか」とだけ呟き、特に追いもしない。
それが逆に腹立たしい。
──同じ頃。
世界樹の外縁では、ガイルが魔族の一人と向かい合っていた。
「おー、なんか……おまえ、ずいぶん……たくま――太ったな」
話しかけられた魔族は、気まずそうに頬を掻いた。
「えぇ……最近は運動する暇がなくてですね……」
「ッカァァ……」
ガイルは頭を掻きむしる。
「こんなとこばっかいねーで、いろんなとこ見てこいよな!! まったくよぉ!」
「ッハ……恥ずかしい限りで……」
魔族は咳払いをして、話題を変える。
「それよりガイル様、レイズ様には会いましたか?」
ガイルの眉が、ぴくりと跳ねた。
「……ぁあ!? やっぱあいつ目覚めてんのかよ!!」
一瞬で顔が険しくなる。
「なんで俺に知らせねぇんだよ! ばかっ!!」
魔族は真顔のまま、静かに言い返した。
「……いや。ガイル様、どこにいるか教えてくれないと……知らせようもないじゃないですか」
「ぁあ!! そんなもん、こうだろ!!?」
ガイルは、空へ向けて手を突き上げる。
黒い光が一本、一直線に天へ走った。雲を裂くように、森の上空に鋭い痕を残す。
「こうすりゃ、だいたい“何が起きたか”わかるだろ」
魔族は口元を引きつらせた。
「……えっと。それ、できる者は……ほとんどいませんが……」
「じゃあ次会うまでに、できるようにしとけ!!」
「無茶言わないでくださいよ!!」
魔族は耐えきれずに叫んだ。だがガイルは鼻で笑う。
「戦う訓練が必要ねぇなら、せめてこういう便利な魔法を習得しろよな!!」
魔族は、ふと疑問が浮かんだらしい。
「ちなみにガイル様……その魔法、どの属性でデュアルしてます……?」
「ぁあ??」
ガイルは当然のように言い放つ。
「闇と光に決まってんだろ!?」
魔族は盛大にため息をついた。
「……そもそも魔族は“魔属”と一つの属性がデフォルトで……二種持つ者ですら極めて珍しいじゃないですか……」
「ぁあ!? そんなの工夫してなんとかしろ!!」
「そんな無茶なー!?」
言い合いが続いていた、そのとき。
「ガイル!!」
森のほうから、ルルが全力で駆けてきた。息を切らし、頬を赤くして、目だけがやけに真剣だ。
ガイルは目を細める。
「おい。はえぇな。もういいのかよ?」
「いいです!!」
ルルは問答無用でガイルの腕を掴んだ。
「すぐにアルバードに行きましょ! ほら!!」
「おい! 引っ張るな!!」
ガイルが抵抗しようとするより早く、ルルの力は強い。いや、正確には――ガイルが本気で振りほどかないから、簡単に連れていかれる。
「ちょ、待て! おい!」
「待たない!!」
魔族たちは、目を丸くしてその光景を見送った。
「我らの魔王が……」
「……あんな簡単に……」
「……連れていかれてしまうなんて……」
そして最後に、誰かがぽつりと呟いた。
「……魔王って、なんだっけ……」
森の向こうへ消えていく二人の背を、呆然と見つめるしかなかった。




