世界の均衡
その夜――
カルメルの宿で、四人はそれぞれ静かな時間を過ごしていた。
長い旅と観光の疲れもあり、
特に感情の揺さぶりが激しかったピスティアは、床に就くとすぐに眠りに落ちる。
それに続くように、アリスも深い寝息を立て始めた。
部屋に残ったのは、ジェーンとリリィの二人だけだった。
「……その……
時々、ジェーンさんの口から出てくる“ニト”という方なのですが……」
リリィが、慎重に切り出す。
「はぁ……。
本当はね、存在も名前も、隠してたんだけどさ」
ジェーンは小さく息を吐いた。
「察しの通り。
今はもう……いない」
「……そう、なんですね……
それは……もしかして……」
リリィが言葉を濁すと、ジェーンは首を振る。
「戦いの結末も、詳しいことは知らない。
ただ……律儀に教えてくれたやつがいてね」
その“誰か”の名を、ジェーンは語らなかった。
「ニトと、レアリス。
この二つについて、あんたは聞いたことがあるかい?」
リリィは頷く。
「はい……。
ニトについては知りませんでしたが、レアリスは……
この世界を保つための“環境そのもの”。
私たち魔女にとっては、信仰そのもののような存在だと、師匠から」
「へぇ……。
魔女にとって、レアリスは信仰なんだね」
ジェーンは少し考え込み、続ける。
「それなら話は早い。
聖国と法国の信仰の根っこは、ニトなのさ」
「……え?」
「創ったのもニト。
ニトは、世界の形であり、世界の記憶そのものだった」
「それは……
ほとんど神に等しい存在では……?」
「神ねぇ」
ジェーンは笑った。
「ニトは“神”と呼ばれるのを嫌ってたよ。
神の定義については、あたしら、やたらうるさくてね。
……まぁ、神じゃないさ」
リリィは、少し迷いながら問いかける。
「ジェーンさんは……
そのニトさんと、どんな関係だったのですか?」
「んー……
親であり、子でもあった……かな」
ジェーンは遠くを見るような目をした。
「ニトはね、あたしが幼い頃から、ずっと子供の姿をしてた。
気づけば、見た目だけはあたしが追い抜いてさ。
そのうち、我が子みたいに思えてきたんだよ」
「無邪気で、怠け者でね」
「……そんな凄い方なのに……」
「不思議だろ?」
ジェーンは肩をすくめる。
「で……
あたしがアルバードに用がある理由は、街や国じゃない。
レイズ、あの青年だ」
リリィは目を見開く。
「法国や聖国でしか知られていないはずの“ニト”の名前を、
会ったことも、関わったこともないはずの青年が知っていたんだ」
「……え……
レイズさんも……人ではない、という可能性は……?」
「いや。人だね」
ジェーンは即答する。
「私から見りゃ、青年……いや、少年って言ってもいい。
今なら二十代前半くらいじゃないかね」
「……若いんですね……」
「そんなこと言ったら、あんただって若いじゃないか」
リリィは苦笑する。
「私……ですか?
たぶん……ジェーンさんと、そんなに変わらないかと……」
ジェーンは、リリィの顔をまじまじと見て、ため息をついた。
「……はぁ。
あたしも魔女になろうかね」
「……おすすめは、しません」
リリィは苦笑しながら続ける。
「魔女の住まう空間では……
年月は早く進んでも、時の流れは遅いのです」
「また、不思議な言い回しだね」
「外界と切り離すために、固有の空間を創るんです。
そこから時々外へ出て……人々と関わる」
「……じゃあ、なんで魔王に会ったんだい?」
「会うつもりは、ありませんでした。
ただ……あまりにも巨大な気配で……
確認したくなってしまって」
「私の魔法は、気配を隠すのに向いていたので……」
「死属性、かい?」
「……はい」
ジェーンは静かに言う。
「禁忌扱いされてる理由を、
あんたの師匠は知らなかったのかい?」
「誰も……知りませんでした。
なぜ禁忌なのかも……」
「……死属性はね、
世界の終わりを“唯一可能にする”属性だからさ」
「……世界の……終わり……?」
「魔力、精霊、新聖力……
それらすべてを消し去れる力がある」
「つまり、世界の在り方そのものを変えてしまう」
ジェーンは、魔法でコップに水を注ぐ。
「ねぇ……
もし、水を永遠に生み出せたらどうなる?」
「この世界は……
海に沈みます……」
「そういうことさ」
「魔法は増え続ければ、必ず精算が起きる。
その仕組みが……アビスホールだ」
「……レアリスみたいですね……」
「そう。
ニトも、レアリスも、アビスホールも……
役目は同じ。世界の均衡を保つための存在さ」
リリィは息を呑む。
「……死属性にも……
もう一つの可能性があるんだ」
「……それは……?」
「ディアに捧げず、
“消す”だけができるなら……
それは、均衡を守る最高の属性になる」
「……でも……」
「ディアはもう、この世界にいる。
それでも魔力は、潤沢にある」
「それが……あたしには、不思議でしょうがない」
「だから……
レイズに会わなきゃいけないんだよ」
リリィは、深く息を吐いた。
レイズとは、何者なのか。
その答えは――
ますます遠ざかるばかりだった。




