アリスの旅
アリスとピスティア、そしてジェーンは聖国を出国し、ゆっくりと港から離れていく船へと乗り込んでいた。
五歳の少女アリスは、甲板に立つなり目を輝かせた。
「すごい!!! ねぇ、見て見て!! 海ってこんなに広いんだね!!」
波が砕けて白く散り、風が少女の髪を揺らす。
ジェーンは慌ててアリスの肩を掴んだ。
「アリス、あまり身を乗り出さないでください。海にも魔物はいます。海面から攻撃が飛んでくることもありますから」
「え〜……でも、きれいなのに……」
アリスは名残惜しそうにしながらも、ジェーンの言葉に従った。
その横で、ピスティアはずっと落ち着かない顔で海を見つめていた。
「……帝国を……ルイスを裏切った私に……この海を渡る資格など、あるのでしょうか」
掠れた声に、ジェーンはそっと寄り添う。
「ピスティアさん。あなたは帝国を裏切ったわけではありません」
静かながらも温かな声だった。
「あなたは本気で帝国を愛していた。争いの火種になると分かっていながらも、それでも国を思って動いた。そのどこに裏切りがありますか。……それに、ニトは言っていましたよ。“あなたの心は本物だ”と」
ピスティアの目に涙がにじむ。
「……ですが……私も、兄様も……結果として聖国を巻き込もうと動いてしまったことに変わりありません。そのせいで……ニト様まで……」
ジェーンは首を振った。
「ニトは、巻き込まれるような存在ではありません」
遠くを見つめるように、柔らかく語る。
「ニトは……会いたかったんです。レアリスに。
レアリスの異変が、きっとニトを動かした。
あなたが来なければ……ニトはその異変に気づくことすらできなかったのでしょう」
ピスティアは息を呑む。
「……ニト様の、願い……ですか?」
「ええ。ニトは普段は軽口ですが——私、知っているんです」
ジェーンは微笑むように目を細めた。
「あの子、ときどき寂しそうな顔をするんですよ。あのニトが、ですよ?」
ピスティアは思わず息を止めた。
ニトの無邪気な笑顔、けれどときおり見せる深淵のような瞳を思い出す。
「……あのニト様が……」
「ニトはあまりにも長く生きすぎた。
寂しいという感情すら本当にあるのか、誰にも分からない。
けれど——もしニトが寂しそうに見えたのなら、それはきっと本心です」
ピスティアは自分の頬を両手ではさみ、軽く叩いた。
涙の残る目を上げ、前を向く。
「……ニト様が会いたかったレアリスという方……私も知りたいです」
ジェーンは静かに頷く。
「レアリスはレアリスで……また難しい方です。
ニトが“環境そのもの”と呼んだ、その在り方。
会えなくても、きっと私たちを見ていますよ。
それほど広い視界で、この世界に溶け込んでいる存在です」
少しだけ笑って、ジェーンは付け加えた。
「もしかしたら——もう会っているのかもしれませんね?」
そこへ、アリスがぷりぷりと怒りながら割り込む。
「もうっ!! 二人とも難しい話ばっかり!!
もっと簡単にしてよ! わたしはいろんなところを見たいの!
それが一番楽しくて、一番うれしいことなんだから!!」
アリスは両腕を広げ、目いっぱいの海と風を抱きしめるように笑った。
まだ見ぬ世界。
まだ知らない広さ。
そのすべてを楽しみにして、少女は新しい冒険の始まりを全身で受け止めていた。




