おまけ。――イザベルという少女
イザベルがアルバードの屋敷を初めて訪れたのは、まだ幼い頃のことだった。
父・ガルシアに連れられての来訪――その理由は、母ルーベラの死にあった。
ルーベラはヴィルの娘であり、リヴェル――すなわちレイズの父の姉にあたる。
つまり、イザベルはレイズの従姉妹にあたる存在だった。
ルーベルは生まれつき身体が弱く、もともと長くはもたないと言われていた。
それでも、弟リヴェルを心から愛し、彼の家族をいつも気にかけていた。
だが、そのリヴェルが妻セシルとともに若くして命を落としたとき――ルーベルの心は静かに折れてしまった。
食も細くなり、日に日に衰えていく。
そして数ヵ月後、眠るように息を引き取った。
ヴィルは、その短い期間で息子と娘の両方を失った。
彼の誇りであり、生きる支えだった二人を。
そんな悲しみの中、残されたイザベルを連れ、ガルシアはアルバードの屋敷を訪れたのだ。
イザベルの瞳はその日以来、光を失っていた。
彼女は本の世界に逃げるように没頭し、誰とも心を通わせようとしなかった。
けれど、そんな彼女を外の世界へ引っ張り出したのは――ひとりの少年だった。
金色の髪を陽光に揺らし、無邪気に笑う少年レイズ。
幼くして両親を亡くしながらも、どこまでも明るく、好奇心に満ちていた。
「おい!! おまえ!!」
「……なに?」
「これみてみろ!」
少年は両手をかざし、氷の魔法を発動する。
小さな氷片が、陽に照らされてきらめいた。
「氷属性……珍しいね」
「珍しい? じゃあぼく、すごいんだ!?」
イザベルはくすっと笑い、風の魔法で軽く吹き返す。
レイズの髪が乱れ、少年は慌てて踏ん張った。
「お、おまえ……なかなかやるな!」
「属性が珍しくても、使い方が下手なのよ」
「ぐぬぬ……! じゃあ、ぼくに魔法を教えてよ!」
「……なんでわたしが?」
「おまえもおじいさまの孫だろ! だったらおじいさまみたいに強くならなきゃ!」
その真っ直ぐな言葉に、イザベルは一瞬だけ言葉を失った。
どうでもいいと思っていたはずの世界に、ひとりの少年が笑顔で風を吹き込んだ。
それから二人はよく一緒に過ごすようになった。
魔法の見せ合いっこをし、失敗して笑い合い、時に喧嘩もした。
いつも一歩後ろを歩くレイズ。
だが、イザベルが何かを成すたび、彼は惜しみなく褒めた。
「やっぱりイザベルってすごいな!」
その無邪気な声に、イザベルの心の氷は少しずつ溶けていった。
ある日、二人は草原で空を見上げた。
風が頬をなで、金と桃の髪が並んで揺れる。
「ねぇ、イザベル。いつか二人で、ヴィルおじいさまを支えような」
「……うん。約束」
それが、二人の最初の約束だった。
――そして、その約束は永遠の絆となるはずだった。
しかし時は残酷だ。
メルェという少女の死が、少年レイズの心を壊した。
怒り、絶望、孤独。
彼の心は荒れ、アルバードの中でも“問題児”と呼ばれるようになっていた。
当主候補から外れ、誰からも見放された少年。
その報せを受け、イザベルは再びアルバードに呼ばれた。
十五歳になった彼女は、魔法学問で名を上げた才女。
気品と強さを兼ね備えた、美しき女性に成長していた。
「……あの約束を、私だけでも守らなきゃ」
そうして彼女は再び、レイズの元を訪れた。
けれど、そこで出会ったのは――
幼き日のまっすぐな少年ではなかった。
太り、怠惰に沈み、心を閉ざしたレイズ。
その姿を見た瞬間、イザベルの胸に走ったのは怒りと寂しさだった。
「……レイズくん…あの時の約束を忘れたのね。」
彼女は屋敷には入らず、アルバード敷地内の大書斎にこもった。
外には出ない。
ただ窓から、ときどき彼の姿を眺めるだけだった。
そして――ある日。
屋敷の庭から、奇妙な声が響いた。
「んぬぬぬゃあああああ!!!」
重たい木刀を振り回し、滝のような汗を流すレイズ。
「……なにあれ?」
使用人に尋ねると、返ってきた答えに思わず吹き出した。
「はい、どうやら……ダイエットをしておられるようです」
「ダイエットって……優先順位、そこなの?」
そう言いながらも、イザベルの頬は笑みにゆるんでいた。
――レイズがまた“前を向こうとしている”。
ヴィルもその姿を静かに見守っていた。
孫がふたたび立ち上がることを、心の底から願いながら。
翌日、ヴィルはイザベルのもとを訪れる。
「イザベル。……レイズに魔法を教えてあげてください。」
それは祖父の願いであり、祈りでもあった。
大切な二人の孫が、再び肩を並べて進む姿を見たいと。
イザベルはしばらく黙ってから、静かにうなずいた。
「うん……わかりました。レイズくんが本気なら、私も本気で向き合います。またお話ができるんだね…」と
そして、再会の時。
レイズは緊張しながら立っていた。
昔より大きく、けれどどこか少年のままの瞳。
イザベルは、その瞳を見て思った。
(……かわいい、かも)
だが、彼の中にあったのは、かつてとは違う“光”だった。
真っ直ぐに未来を見据えるような眼差し。
彼女は悟った――レイズは変わったのだと。
しかし、その期待はやがて打ち砕かれる。
レイズが口を開き、衝撃の事実を語ったのだ。
――自分は“この世界のレイズ”ではない、と。
イザベルは呆然と立ち尽くした。
あの少年が、もういない。
そう思うと胸が締めつけられた。
けれど同時に、彼女は気づいた。
この“中身の違うレイズ”の真っ直ぐさ。
優しさ、誠実さ、そして人を導く力――。
それは、彼女の知る“あのレイズ”そのものだった。
「……別人でも、いい。あなたの中に“本当のレイズ”が生きているなら」
そうしてイザベルは、彼を“レイズ”として受け入れた。
そしてそこから、彼女の胸に新たな感情が芽生えていく。
彼の成長の速さに驚き、
彼の思考の深さに惹かれ、
彼の優しさに心を掴まれていく。
それはもう、かつての“従兄妹の絆”ではなかった。
――ひとりの女性として、レイズという男に惹かれていく始まりだった。
イザベルという少女
彼女は、悲しみの中で生まれ、孤独の中で育ち、
そして――“レイズ”という光に出会って、生きる意味を見つけた少女だった。




