【おまけ】― 奇跡の鼓動 ―
あの日から、どれほどの季節が過ぎただろうか。
レイズが眠り続けたまま、春が訪れ、また去っていった。
アルバードの庭には、彼の好んだ青い花が風に揺れている。
そして一年も経たぬうちに――イザベルの腹は、ふっくらと膨らんでいた。
その報せは瞬く間に屋敷中を駆け巡った。
「レイズ様の子を、イザベル様が……!」
涙と歓喜とが入り交じる声が、屋敷のあちこちで上がった。
奇跡――。
その言葉しか、誰の口からも出てこなかった。
クリスは震える手で額を拭い、声を詰まらせながら言った。
「アルバードは……生きています。
レイズ様は、まだこの地に息づいておられる。
どうか……どうかお戻りください。
貴方の子を……抱いてあげてください。
それは、とても、とても……幸せなことなのですから……!」
腕の中には、ディアナとの子・クリアナが眠っていた。
まだ小さな手が、まるでレイズの魂に触れるように、空を掴む。
ディアナも静かに頷いた。
「えぇ……幸せなことですよ、レイズ様。
貴方が残してくださった命は、私たちの希望そのものです。」
レイズは何も言わない。
ただ、穏やかに窓の向こうを見つめていた。
だが――頬を伝う一筋の涙が、その沈黙の意味を語っていた。
その瞬間、皆は確信した。
“レイズに届いている”――と。
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リアノはイザベルの腹にそっと手を当てる。
温かく、確かな鼓動が指先に伝わる。
「本当に……羨ましいです、イザベル様……」
小さな声でそうつぶやく彼女の頬に、微笑みとも涙ともつかぬものが浮かんだ。
イザベルはゆっくり首を振る。
「この子は、私だけの子じゃないの。
みんなの子……アルバードの希望そのもの。
だからね、リアノ……あなたにも、たくさん可愛がってほしいの。お願い……」
泣きながらそう言うイザベルの目には、深い罪悪感が宿っていた。
リアナも、リアノも、本来なら――レイズと結ばれるはずだった。
それが叶わぬ今、なぜ自分だけが“レイズの命”を宿してしまったのか。
その事実は、祝福と同じだけの痛みを彼女にもたらしていた。
だが、それでも――愛しかった。
どんな絶望の底でも、この子だけは確かな“繋がり”だった。
レイズと彼女を結ぶ、たった一つの証。
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リアノはその想いを悟ると、微笑んだ。
「はい。……私の、自分の子だと思って、大切に育てます。
レイズ様の子ですもの。誰よりも大切に。」
イザベルの目が潤む。
「ありがとう、リアノ……本当に、ありがとう。」
そのやり取りの隣で、リアナは静かに頭を下げた。
表情には、もはや感情の影すらなかった。
「……私も、お仕えいたします。イザベル様。
どうか、私たちのことはお気になさらず。」
声は淡々としているのに、その一言が胸を締めつけた。
彼女はもう、何も“感じる”ことをやめてしまったのだ。
イザベルもリアノも、理解していた。
この中で、いちばん壊れているのは――リアナだ。
だからイザベルは、泣きながらも微笑んだ。
「うん……リアナ。本当にありがとう。」
リアナは静かにお辞儀をして、その場を去った。
足音が廊下の奥に消えていく。
その背を見送る全員の胸に、深い悲しみが落ちた。
誰も責められなかった。
それほどまでに、レイズという存在は彼女にとって大きすぎた。
光そのものを愛していた者が、その光を失ったのだから――
闇に沈むのも、無理はなかった。
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日々は、緩やかに流れた。
アルバードの屋敷では、朝が来るたびに誰かがレイズの部屋の窓を開け、
夜が来るたびに誰かが「おやすみ」と声をかけた。
レイズは眠り続ける。
時折、涙を流しながら。
そして季節が巡り――イザベルは一人の女の子を産んだ。
彼女はその名を「レイナ」と名づけた。
“レイズの光”という意味を持つ古語である。
生まれた瞬間、屋敷は光に包まれた。
まるで天が、祝福の花を降らせたかのようだった。
年月が過ぎるごとに、レイナは屋敷の希望となった。
リアノは母のようにその成長を見守り、
リアナは無言のまま、いつも少し離れた場所からその姿を見ていた。
だが――
その笑顔の奥で、皆が同じことを願っていた。
“レイズ様、どうか、どうか戻ってきてください。”
そして、その願いは――やがて届く。
数年の時が流れた。
アルバードの空は、あの青い氷花が消えることなく輝き続けていた。
こうしてクリスの話しは終わる。
「……ぁあ、みんなに……本当に苦労させたな。」
その声に、クリスの心臓が止まりかけた。
「れ、レイズ様……! レイズ様ぁぁぁ!!」
ベッドの上でゆっくりと体を起こす男の姿。
確かに、その眼には“命”が宿っていた。
「クリス……リアナを呼んでくれないか?」
声が震えていたのは、レイズではなく、クリスの方だった。
「は、はいっ……! レイズ様……!」
「それと……」レイズは照れくさそうに頬を掻いた。
「みんなと話したいけど、少しずつでいいかな。
多すぎて、どこから話せばいいのか……わからなくてな。」
クリスは涙で顔をくしゃくしゃにしながら頷く。
「はい……! お一人ずつでも……皆、どんなにでも待ちます……!」
レイズは少し笑い、ふっと真剣な表情に戻る。
「それと、クリス……言い忘れてた。」
「はい……? なんでしょうか、レイズ様?」
レイズは穏やかに微笑んだ。
「――ただいま。」
その言葉に、クリスは崩れ落ちるように膝をつき、声を詰まらせた。
「……おかえりなさいませ、レイズ様ぁぁぁ……!」
泣きながら、笑いながら、彼は立ち上がる。
その涙は、屋敷のすべての人々が流してきたものの結晶だった。
廊下の外では、風が吹いていた。
氷の花が、青い光を放ちながら、ゆっくりとほどけていく。
長い夜が、ようやく終わりを告げていた。
そしてアルバードの人々の胸に、ひとつの確信が生まれた。
――彼は、本当に帰ってきたのだ。
誰もが空を仰いだ。
そこには、永い祈りの末に咲いた“奇跡”の光が、確かに輝いていた。




