白き森の崩壊 ― 神を喰らう咆哮
森が鳴動していた。
ジュラの大地が震え、空が軋む。
白の軍勢が流れるように進軍し、空は蒼白に染まり始めていた。
その先頭に、二つの影。
――グレサス=グレイオン。
――クリス=アルバード。
二人は並んで駆け抜ける。
荒れ狂う魔力の奔流を切り裂くように、己の力をぶつけ合うように。
「まさか――お前と肩を並べて戦う日が来ようとはな!」
グレサスが笑い、手にした剣を構える。その声音には高揚が混じっていた。
「実に面白い!!」
クリスは涼しい顔で返す。
「全然面白くありません。むしろ私だけで十分です」
「私に負けた兄上は、後ろに下がっていなさい」
グレサスは口の端を吊り上げる。
「兄上か…貴様……あれから私がどれだけ強くなったか見せてやる。お前の兄の力を!!
貴様こそ、後ろにいろ!」
クリスは眉を寄せ、冷たく言い放つ。
「愛を知らない兄上に…私を超えることなどありえません」
「愛を知らぬ、だと?」
グレサスは笑った。豪快に、誇らしげに。
「ハハハハハ!! 愛なら知った! お前の想像など遥かに超える形でな!!」
「愛は――語るものではありません」
クリスの瞳が、戦場を見据えた。
そこに広がっていたのは、
無数の白い影。
顔のない天使、白鹿のような獣、祈りの姿勢を取る人型の化け物たち。
そのすべてが、レアリスの失敗作――いや、“祈りの残骸”だった。
クリスは足を止めず、アンクレットに魔力を込める。
剣を振り下ろした瞬間、死属性の風が奔流となって前方を薙ぎ払う。
白き魔物が吹き飛び、砕け散った。
だが――。
「……再生している……!」
クリスが息を呑む。吹き飛んだはずの肉塊が、瞬時に元の形を取り戻し、襲いかかってくる。
「その程度で笑わせるな!!」
グレサスが一歩踏み出す。
地を割るほどの踏み込みと共に、剣を大上段から叩きつけた。
嵐のような風圧が生まれ、それが死属性の力をまとって周囲を呑み込む。
白き魔物たちは、嵐の中でズタズタに裂かれ、四散していった。
「……ははは、さっきのは小手調べです」
クリスが微笑み、再び剣を構える。
「いきなり全力を出す馬鹿はいません!」
次の瞬間、地を蹴る音が響いた。
風を切り、光を裂く。
彼の剣技が織りなす斬撃はもはや風そのもの。
白い群体が次々と消え、空気が震えた。
だが、どれだけ斬り裂いても、白の群れは絶えない。
まるで世界そのものが再生していくように。
「剣では効率が悪い…」
グレサスは叫ぶと、地を揺らし、両手で巨大な岩を掴み上げた。
そのまま、軽々と放り投げる。
轟音と共に白の群れが吹き飛び、森が悲鳴を上げる。
「全く……本当に乱暴だ!!」
クリスは地を蹴り、上空へと舞い上がった。
剣を構え、旋風のように舞い降りる。
無数の風刃が地を穿ち、白き軍勢を切り刻む。
遠くでそれを見ていたレイズが、呆然と呟く。
「……やばすぎるだろ。なんだよ、これ……」
ガイルは笑いながら口笛を吹いた。
「化け物だな、ありゃあ」
ルイスが前へ出る。
「それでは、私たちはこっちからいきましょう!」
戦場は二手に分かれた。
ガイルは黒炎を空へ撃ち上げる。
「おい……こっちにもいるぜぇ!」
燃え盛る黒炎が空を焼き、白い光とぶつかり合う。
リオネルはその炎の下で剣を構え、白の群れに突っ込む。
「ほんとに……魔王ガイルは規格外すぎる!!」
ルイスも続く。剣を閃かせ、連撃で白の群れを切り裂く。
レイズは背後で、その残骸を一つ一つ死属性で焼き尽くしていった。
戦場は一瞬、有利に傾いたように見えた。
――だが、希望は長く続かない。
白き群れは再び形を整え、音もなく迫る。
「くそっ!」
グレサスは剣を投げ捨て、代わりに巨大な木を根ごと引き抜いた。
そのまま振り回す。
木は悲鳴を上げるように軋み、白き群れをまとめて吹き飛ばす。
クリスもそれを見て、剣を捨て、同じように木を掴んで振り回す。
人の所業とは思えぬ、神々しいまでの暴力だった。
遠くからそれを見ていたニトは、声を震わせる。
「……これを……僕は“簡単に倒せる”と思っていたのか……」
ニトですら、戦慄していた。
この場に立つ者、全員が人の域を超えていた。
やがて、白の群れはジュラの奥へと押し戻される。
グレサスは息を荒げ、最後の木を投げ捨てた。
地面を抉り、大地が唸る。
「これで……終わりじゃねぇよな?」
ガイルが空を見上げた。
そこに――いた。
純白の光をまとい、静かに佇む“存在”。
人の形をしていながら、神のようで。
美しく、儚く、恐ろしい。
「……ディア……なのか?」
レイズが呟く。
「……女かよ!!こんな美女を倒すなんて……気が引けるがよぉ!」
ガイルが笑い、剣を振り上げた。
だが――。
レアリス=ディアが、ただ一息吐いた。
その瞬間、ガイルの体が吹き飛ぶ。
「なっ……力が……抜ける……!?」
レイズが叫ぶ。
「下がれ、ガイル!! お前の魔力が食われてる!!」
ルイスが即座に駆け寄り、ガイルを抱えて離脱する。
「デュランさん、頼みます!」
「了解!」
デュランはガイルを背負い、そのまま後方へ飛び去る。
リオネルがレイズの隣に立ち、震える声で問う。
「どうしますか……? 近づけば、こちらの方が危険です!」
レイズは静かに答えた。
「俺とリオネルで行く。俺の後ろから続いてくれ!!」
二人は飛び立つ。
ルイスもすぐに続く。
死属性の魔力が三者の周囲に渦を巻いた。
――そして、触れた瞬間。
レアリス=ディアは、悲しげに微笑んだ。
「……あなた……レイズ、なの……?」
ディアの記憶が、その名を呼ぶ。
「ぁあ、ディア! お前なんだな!? 下がれ!! 出てくるな!!」
レアリス=ディアは首を横に振る。
「私は……レアリス=ディア。――そして、綺麗にするの」
彼女の全身が光に包まれた。
次の瞬間、死属性の波が炸裂し、三人を飲み込んだ。
ルイスとリオネルが力を失い、空から落ちていく。
デュランが急降下し、空中で二人を掴み取る。
「魔王ガイル!! 受け取れ!」
「おいっ!! 俺は受け皿じゃねぇ!!てかお前の王様を投げんな!」
そう叫びながらも、ガイルはリオネルを抱きとめた。
ルイスもデュランの腕に収まり、地に降ろされる。
息を整える間もなく、レイズが叫ぶ。
「なんでだ……!? あいつらにも加護があるのに……!!」
レアリス=ディアは微笑んだ。
「……あなたは、私と同じだから」
「どういう意味だ……!?」
レイズが叫ぶ間もなく、彼女はレイズを抱きしめた。
「あなたの中の“汚れ”を――綺麗にしてあげる」
レイズの体から、何かが抜き取られる感覚。
「ぐぁぁぁぁぁ!!!」
クリスが即座に飛び込み、蹴りを放つ。
「離れろ!!」
だが、レアリス=ディアはその足を掴んだ。
「邪魔……しないで?」
その声は、あまりに優しかった。
それが余計に、恐ろしかった。
「……っっ!!」
クリスは吸われる魔力に抗い、渾身の力でレイズを引き剥がす。
そして、そのまま地上へと落下していった。
グレサスが見上げ、叫ぶ。
「まったく手のかかる奴らだ!!」
巨木を振り上げ、風の流れに乗せて、クリスとレイズを吹き飛ばす。
風が二人を包み、遠くジュラの奥地へと運んでいった。
デュランはルイスを地に降ろし、荒い息をつく。
「はぁ……はぁ……サポートが一番きついではありませんか……!?」
白の群勢が、再びグレサスを囲む。
グレサスは笑った。
「来い……貴様らごときに屈してたまるか!!」
剣も木も失った両腕で、地そのものを掴み、投げる。
大地が裂け、空気が震え、死属性の風が唸る。
それでも、白は止まらない。
ニトは遠くからその光景を見つめ、震えていた。
「……レアリスと……ディアが……ひとつに……?」
レイズは吹き飛ばされながらも意識を取り戻す。
クリスの腕を掴み、そして投げる。
その刹那かすかに呟いた。
「……クリスおまえを……守れな…い…」
そして、力尽きるようにデュランの腕に落ちた。
レイズから飛んできたクリスを見ながらガイルは叫ぶ。
「おい!! 俺は受け取る係じゃねぇ!!」
ガイルの声が響き、クリスを抱き止める。
彼の顔は、怒りと焦りに満ちていた。
「しっかりしろ!!てめぇ!」
クリスは荒い息を吐き、震える声で言った。
「……触れては……いけません……あれは……」
ガイルは唇を噛み、魔力を叩き込むように治癒の光を放つ。
「黙ってろ! お前は今は喋るな!」
リオネルとルイスがゆっくりと意識を取り戻す。
ルイスは剣を地に突き立て、立ち上がった。
「……あれは…なんだ……」
グレサスの姿を見つけ、走り出す。
「師匠!!」
「おい、私の弟子がその程度でへばるな!!」
「はぁ…はぁ…申し訳……ありません……!」
グレサスは笑った。
そして、最後の力で地を砕き、ルイスを掴み上げる。
「行くぞ!!」
そのまま白の群れを突き破り、ガイルたちの元へ飛び込んだ。
レイズは、デュランの腕の中で苦しげに眼を覚まし呟く。
「すまねぇ……おまえ……誰だっけ……?」
デュランは息を呑んだ。
「デュ、デュランです!! どうしたんですか!?レイズ!」
「俺は……レイズ……レイズ、か……」
レイズの瞳が揺れる。
何かが抜け落ちたように、記憶が霞んでいく。
レアリス=ディアは、静かに歩み寄る。
「あなたは……帰るの。
だから…怖がらないで?」
「……なんの、話だ……」
レイズはよろめきながら立ち上がった。
「おまえ……なんなんだよ……」
レアリスは、悲しげに微笑んだ。
「私は……レアリス=ディア。
あなたの中の“汚れ”を、綺麗にしてあげる」
その声は、慈母のように優しかった。
だからこそ――レイズは震えた。
この存在は、敵ではない。
この存在は、世界を――救おうとしている。
そして恐怖した。
「……レアリス=ディア」
レイズは低く呟き、手を向けた。
「……ラルヴァ」
空気がねじれた。
無音の衝撃が走る。
見えない“何か”がレアリスを包み、喰らい始めた。
「うう……だめ……私を……食べたら……私が消えちゃう……!」
レアリス=ディアは苦しげに叫ぶ。
レイズは止まらない。
もはや意思ではなく、本能だった。
――奪われたものを取り戻すため。
ニトが絶叫する。
「やめろ!! レイズ、それはダメだ!! その魔法は――!!」
だが、レイズは止まらなかった。
グレサスがそれに気づき、飛び込んできた。
「よせっ!!」
蹴り飛ばされたレイズが吹き飛ぶ。
――ラルヴァの余波がグレサスの胸郭を抉り、見えない何かの顎が骨ごと魔力を噛み砕かんと食らいつく。
「……が、ッ」
膝が土を穿つ。地鳴り。だが巨躯は倒れない。片腕で地を支え、残る片腕で自らの胸を鷲掴みにする。そこへガイルの黒炎が轟音とともに落ち、飢えた闇へ巨大な餌を投げ与えた。
「餌が欲しけりゃ……くれてやるッ!!」
飢えが逸れ、ラルヴァは黒炎へ群がる。途端、周囲の空気が澱み、音が吸い込まれたかのように静まった。音のない咀嚼。黒炎が、ひと口、またひと口、――喰われていく。
「チッ……底が見えねぇな」
ガイルが舌打ちする。背後でデュランが滑るように駆け、グレサスの腕を肩で支えた。
「立ってください、王国最強の騎士…。その称号、今…誰より必要です」
「はぁ…はぁ…わかっている!」
グレサスは歯茎を見せて笑い、鞭のような呼気を吐く。胸奥の“欠落”が冷たい。それでも立つ。薄く滲む血を拭いもせず、石塊を両掌で握り潰し、指の隙間にまとわりつく死の風をさらに濃くした。
遠く、白い女――レアリス=ディアが、痛みに眉を寄せる。無垢な苦悶。抱きしめれば壊れてしまいそうな、薄氷の表情。
「だめ……ラルヴァ……あなたを、壊す」
その囁きに、レイズの瞳が揺らぐ。足元が、かすかに震えた。抜き取られた何かが、心の中心でカラカラと乾いた音を立てる。
(俺は――何を、失った?)
問いはすぐ、轟音に掻き消された。クリスが風柱を穿ち上げ、見えない咢へ縦に裂け目を作る。剣は失った。だが風は折れない。
「退け…ラルヴァ…。――レイズ様…ここで“還らせない”」
風の刃がラルヴァの舌を裂き、黒炎の塊を吐き出させる。ガイルが横合いから叩きつけ、爆ぜた火の粉をリオネルが盾の縁で弾く。ルイスは一歩前、半歩斜め。クリスの作る隙間に、寸分違わず死の風を重ね、残滓を削いだ。
「見事だ…ルイス…」
「師匠の背を、追えているでしょうか」
「追え…追い…そして…越えろ」
短い言葉の応酬。息が、合う。
フェイフィアの声が空から降る。
「白の波――増殖速度、上昇! 『指差し』で増幅してます!起点は――それです!」
「指、か」
レイズが唇を噛む。レアリス=ディアは“綺麗にする”対象を見定め、指先で秩序を指し示すだけで、失敗作たちは奔る。命令ではない。願いへの呼応だ。だから速い。だから止まらない。
(止めるには――“願い”そのものを、逸らすしかない)
胸が痛む。選べば、壊す。壊さねば、世界が壊れる。残酷な二択が喉を裂く。
「レイズ」
至近で、ニトの声。転移してきたニトの声は風に紛れ、いつの間にか彼はそこにいた。
瞳は深い灰。
長命の底に宿る、諦念と祈りが交錯する色。
「その魔法は、君も喰う。ラルヴァは“帰巣”する。主の穴を…本能で埋めに…戻る」
「わかってる。――でも、時間がない」
ニトは一瞬、遠い何かを思い出すように目を伏せ、そして微笑んだ。
「君はいつも、時間がないんだね…」
その言葉のやわらかさに、レイズの肩の力が一刹那だけ抜ける。だが一歩、また一歩。レアリス=ディアへ、歩む。
白い女が、両手を胸に当てる。祈るように。
「怖くない…… あなたは…帰れるの…」
「俺は――帰らない」
レイズは静かに言った。風も、鳥も、白の合唱も、すべてが息を呑む。
「ここで選んだんだ…俺は、ここで生きる。お前もだ、レアリス=ディア。ここで、生きてくれ…」
「……生きる?」
少女のような響きが、白に揺れた。瞬間、周囲の白群がわずかに逡巡し、足並みが崩れる。願いの振幅が変わる。フェイフィアが息を飲む。
「減衰……!? “言葉”が効いています…」
ガイルが笑う。「言葉で殴るのも立派な戦闘術だぜ、レイズ…」
グレサスは鼻を鳴らす。「殴りが…足りぬなら、足すだけだ…」
グレサスが右足で地を蹴った。地平がめくれ上がり、白群の隊列を縫って土塊の壁が乱立する。クリスが風で切り分け、リオネルが盾で押さえ、ルイスが杭を打ち込む。デュランは倒れた者を跳ねるように拾い上げ、誰ひとり落とさせない。
「――レイズ」
耳朶に、またニトの声。今度は低い、祈るような調子。
「彼女に“敵”はいない。全部、ご馳走。君の声が“敵”を辞めさせた今が、唯一の窓だ」
「窓?」
「届く距離まで、僕が連れていく。――使える転移は、あと1回だ」
「1回で足りるか?」
「足りないなら、奇跡を借りる」
「借りられるのか?」
ニトは肩を竦めた。「借り方は、君が知っている…」
レイズは笑った。短く、ひどく人間臭い笑みだ。
「……ああ、知ってる。みんなの“無茶”ってやつだ」
「そう、それだよ。本当に…いいね。」
瞬間、地面の影が揺れ、レイズとニトの足元が縫い上がるように白く染まった。刺すような寒気。レアリス=ディアの指先が、ただ静かに二人を指す。
「来て……一緒に“帰ろう”」
「――転移!」
ニトが囁くと、視界が裏返る。白い指先が鼻先を掠め、次の瞬間、レイズとニトは、まっすぐにレアリス=ディアの目前へ出ていた。
近い。息づかいが届く。レアリス=ディアの瞳に、レイズの金が映る。揺らぐ光。人魚の鱗のように、幾千の記憶が瞬いては消えた。
「やっと……近くで、会えた」
彼女は言った。涙のように光が零れ、空中でほどける。
レイズは、ラルヴァを解いた。手を広げ、空のまま、胸に当てる。敵ではない。抱き締めれば壊れる。だから、触れない距離で、触れた。
「俺はレイズ。――アルバードの、当主だ」
「…とうしゅ…」
「この世界で、生きて、笑って、泣いて、怒って、飯を食う“人間”だ。――お前の好きな、この世界で」
レアリス=ディアの唇が、かすかに震える。白群の足音が、さらに遅くなる。フェイフィアが震える声で告げる。
「共鳴、落ちています! 白の波が減って……」
空の高みから、別の白が降りる。顔のない祈り人形。その胸に、黒い斑点――“渇きの核”が脈打っている。
ニトが顔色を変えた。「まずい…あれは――」
レアリス=ディアの指が、僅かに逸れた。女自身が望んだわけではない。“秩序の慣性”が、彼女の祈りを“矯正”する。黒い斑点が膨れ、風景が歪む。
「レイズ…退いて…!」
ニトの叫びと同時、クリスの風刃が斑点へ一直線に突き刺さった。ガイルの黒炎が後を追い、グレサスの土塊が楔のように食い込む。リオネルの盾が弾き、ルイスの杭が刺し止める。デュランがニトの肩口を掴み、二人を引き倒した。
炸裂。
音が戻る。耳が割れる。白の人形が霧散し、黒い斑点だけが、なおも鼓動を続けた。
「しつこい……!」
レイズは反射で手を掲げる。喉の奥まで込み上げる“空腹”――ラルヴァの呼吸が、また戻ってくる。吸えば終わる。だが――吸えば、彼女も終わる。
(違う。欲しいのは、渇きを“移す”術だ)
歯を食いしばり、ラルヴァを反転させる。喰うのではない。自分の中の空腹を、黒い斑点へ投げ渡す。死の循環を、死に還す。
「……ッ、行け!」
黒が震え、渇きが黒へ群がる。自分の胸が空洞になり、膝が落ちた。次の瞬間、白い手が支える。温い。柔らかい。壊れてしまいそうに。
「だめ……あなたが、減っていく」
「減ってるのは……“空腹”だ。心じゃ…ない…」
レイズが笑う。頬を伝う汗か涙か、もう判別できなかった。
黒い斑点が、萎む。フェイフィアの声が震えから解放され、張りを取り戻す。
「黒核、沈静しました! 白群――止まりました!」
歓声が、誰の喉からともなく漏れた。だがすぐ、凍る。上空で、白い女が細く息を呑んだからだ。彼女の背に、目に見えない裂け目が走った。秩序と生命の縫合線。限界が、近い。
ニトが天を仰ぎ、片手で顔を覆う。小さな声。誰にも聞こえないほどの、嗚咽にも似た笑い。
「もう、力を使うなよ、ニト…」
レイズが言った。ふらつく足で立ち、白い女の正面に、また立つ。
「これは……俺たちの戦いだ。――“話す”戦いだ」
白い女が瞬く。目の底で、幼い光が灯る。
「はなす、たたかい……?」
「ああ。殴るより、難しい」
そのとき、森の深い奥から、風が一筋、彼女の髪を揺らした。ジュラの古い息吹。メーレの残した、極めて微かな記憶の香り。レアリス=ディアの肩が、震える。
「……きれい」
それは祈りのようで、遺言のようで、――出会いの第一声のようでもあった。
「綺麗だ。――だから、壊さないでくれ」
レイズの声は掠れていた。だが、誰よりも強かった。
グレサスが腕を組む。ガイルが鼻を鳴らす。クリスが目を伏せ、ルイスとリオネルが剣を揃える。デュランが全員の足元を一瞥し、フェイフィアが空から頷く。
戦場に、ほんの一瞬、風鈴のような静けさが降りた。
その静寂を破ったのは――天の裂け目だった。
白い縫合線が、きしり、悲鳴を上げる。
秩序の慣性が、再び白を“清め”へと押し出す。
「来る……!」
フェイフィアの叫び。
ニトの指が最後の印を結ぶ。
レイズは、首を横に振る。
「――まだ、使うな」
「何をする気だよ!レイズ!」
ガイルが笑い、レイズが笑い返す。
「王様らしいことを、ちょっとだけ…」
彼は胸に手を当て、深く息を吸った。空洞に風が入る。渇きが擦れ、やがて静かに丸まる。言葉が、喉から零れる。
「――聞いて…レアリス=ディア」
白い指先が、今度は“誰も”指さない。
ただ、胸の前で、そっと重ねられた。
「レアリスが愛した世界で、俺たちは生きてる。レアリスが愛したから、俺も、愛せる。だから――一緒に、学んでくれ。“汚れ”の中にある、命の形を」
白い瞳が、大きく開かれる。
その奥で、幾千の祈りの残骸が、初めて“息”をした。
風が、森の匂いを運ぶ。
ジュラが、答えを待っている。
次の瞬間、空が裂け、白と黒と風と炎と土とが、もう一度だけ、重なり合った。
――物語は、まだ折れない。
嵐の只中で、言葉が刃を鈍らせ、祈りが刃を研ぐ。
そして、ニトの最後の力は、誰のために残されるのか――それだけが、まだ、誰にもわからなかった。
そして全員が満身創痍で、
失うものと得るものは世界の真実を繋ぐ




