目覚める白の存在 刺絵有
――ジュラの地。
その深奥で、長い沈黙がふたたび破られようとしていた。
風が止まり、森が息を呑む。
空気が淡く震え、地の底から微かな光が滲み出す。
やがて、柔らかな吐息のような声が、静寂を裂いた。
目覚めてしまう。
光が一筋、緑の天蓋を貫き、白い影を包み込む。
ゆっくりと彼女は瞼を開いた。
――景色が、揺れる。
湿った土の匂い。
鳥の羽音。
そして、自らの手の温もり。
その全てが、初めて触れる命の証のように思えた。
ふと視線を落とす。
そこには、白く、ふわふわとした毛並みを持つ自らの体があった。
「……ぁ……あ……」
声を出す。
その響きが空気を震わせ、世界に溶け込む。
彼女は両手を胸の前でぎゅっと握りしめると、涙を零した。
頬を伝うその雫は、喜びの証だった。
「……生きている……」
そう呟き、彼女は歩き出した。
土を踏む感触。
風が髪を撫でる感触。
一つ一つの感覚が愛おしくて、堪えきれず駆け出してしまう。
森の奥へ、さらに奥へ――。
まるで、この世界に存在する喜びそのものを確かめるように。
彼女は走り、笑い、跳ね、枝葉の間を舞うように駆け抜けた。
そのときだった。
遠く、光の薄れる木々の間に、
朽ち果てようとする巨大な影があった。
神獣――メーレ。
長い歳月を生き、世界を守り続けた存在。
今やその体は、まるで崩れ落ちる星のように光を失いかけていた。
「……メーレ……?」
彼女は小さく呟きながら近づく。
メーレはかすかな動作で顔を上げ、彼女の姿を見た。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうか……ディア……お前は……」
その声は、安堵と慈しみの入り混じった、消えゆく命の音。
彼女――白き存在は、静かにその巨体へと歩み寄り、
両手を伸ばしてメーレの首筋を撫でた。
まるで別れを惜しむように。
まるで、感謝を伝えるように。
やがて、彼女の体が淡く光を帯びる。
メーレの残滓が、光の粒となって彼女の胸元へと吸い込まれていった。
温もりが、静かに移り変わる。
「……ありがとう……」
その声を最後に、メーレは穏やかに目を閉じた。
誰にも知られることなく、静かに世界から消えていく。
風も泣かず、森も騒がず、ただ生命の連鎖だけがそこにあった。
白き彼女はそっと目を伏せ、手を胸に当てた。
「……おかえり……」
そして、口にする。
「私の……名前は……レアリス。ディア……」
それは二つの名であり、ひとつの魂だった。
レアリスの意思を宿したディアの肉体。
感情と理、過去と未来が溶け合い、新たな存在として生まれ落ちる。
レアリスは泣いていた。
それは悲しみではない。
ずっと、ずっと願ってきた“生きる”という感情の涙だった。
秩序ではなく、定義でもない。
一つの“生命”としてこの世界に在ること。
その奇跡を、彼女は確かに感じ取っていた。
そして――レアリス=ディアは、空を見上げた。
「この世界は……こんなにも……」
まぶしいほど美しい空。
揺らめく光が、白い毛並みに反射して虹のような輝きを放つ。
大地を蹴り、彼女は高く跳ぶ。
高く、高く――。
森を越え、雲を突き抜け、陽光の中で翼のように両腕を広げる。
その目に映ったのは、果てしない蒼。
そして、その下に広がる歪んだ魔力の流れ。
「……これが、世界……?」
空を汚す黒い靄のような気配。
澱んだ魔力が、まるでこの美しい大地を蝕む毒のように広がっている。
彼女は静かに目を細めた。
「こんなものがなければ……もっと……この世界は……」
レアリス=ディアは、息を吸い込む。
ひとつ、またひとつ。
世界を包む汚れた魔力が、光に溶けるように吸い込まれていく。
まるで、空そのものを清めようとするかのように。
「――美しく、在ってほしいの」
その祈りにも似た呟きが、風に乗って響いた。
吸い込むたびに、彼女の身体は淡く光を帯び、
まるで世界の心臓のように、静かに鼓動を始める。
純粋で、あまりにやさしい破壊。
そして、世界は確かに息を変え始めた。
――その始まりを。
ただ、ジュラの地に、白い光がひとすじ流れた。
それが、輪廻を再び動かす“目覚め”の光であることを、フェイフィアだけが気付く。




