ニトの語り
ニトは笑っていた。
その手のひらの上で、二つの青い火がふわりと灯り、ゆらゆらと揺れていた。
その炎は小さく、まるで息をするかのように脈を打つ。
ひとつはガイル。もうひとつはルル。
青い灯火は、まさに命の在処を示す印――“灯火のルーン”。
それを眺めながら、ニトは椅子の上で足をぶらぶらとさせ、ご機嫌に微笑んでいた。
「がんばってねぇ……ふたりとも。」
どこか優しい声。けれどその言葉の裏には、残酷な愉悦が滲む。
青い火は、まるでガイルたちが今まさに息づいている証。
その光が消えたとき、それは命が尽きたことを意味する。
そしてニトは、それを見届けることを心から楽しみにしていた。
背後で、ジェーンが呆れたように言う。
「……ちゃっかり、そんなものまで付けて……」
ニトは片目を細め、悪戯っぽく笑った。
「そうでもしないと、逃げられたら困るでしょ?」
そのやりとりを静かに聞いていたグレンが、穏やかに微笑んだ。
「ニト様から逃げるなど……この世界から出ていくしかありませんね。」
軽口のようでありながら、その声音にはわずかな敬意と畏怖が混じる。
グレンは知っている。ニトが“秩序そのもの”であり、逃れる術など存在しないことを。
ニトは椅子の背にもたれかかり、青い炎を見つめながら小さく呟いた。
「ガイルという男と、世界を乱したレイズ……。どっちが先に消えるのかなぁ…」
そして唇の端を上げ、無邪気な子供のように笑う。
「まぁ、どのみち――どっちも殺すけど。」
その笑みは軽やかで、まるで善悪という概念そのものを弄ぶようだった。
青い灯火がゆらめく。ふたつの命の鼓動が、遠く離れた空の下で震えている。
ニトは基本的に動かない。
彼は“観察者”であり、“秩序の代理者”。
世界を監視し、流れを正し、狂った歯車を押し戻す。
本来ならば、そんな役目は彼の手に渡るはずではなかった。
「ほんとはね、レアリスが動くはずだったんだけど。」
ニトは退屈そうに火を指でつつきながら呟く。
「でも……あの子、何もしてくれないんだよね。どうしたんだろね。」
ジェーンが眉を寄せた。
「レアリス……ですか? 私は一度も見たことがありませんが……いったい、どれほどの存在なのです?」
ニトは肩をすくめ、くすくすと笑う。
「存在、かぁ。うーん……逆だよ。あの子は“存在しない”側。
君たちを認識しない。君たちがどんなに生きていても、レアリスにとっては“見えないもの”。」
「認識しない……?」
首を傾げるグレンに、ニトは子供のように話しかける。
「ねぇグレン、知ってた? この空気の中にも、すっごく小さい生き物がいるんだよ。」
グレンは真剣に空間を見つめる。
「……え? 本当ですか? どこに……?」
ニトは笑い転げる。
「見えるわけないでしょ。
意識しても見えないの。レアリスにとっての君たちって、そんな感じなんだよ。
レアリスに見えるのはね、“汚れ”だけ。
レアリスは、それを綺麗にする――掃除の化身みたいなもんなんだ。」
「掃除……」ジェーンが小さく呟く。
「ニト様が言うと、なんだか平和に聞こえますね。」
「うん、平和だよ。」
ニトは軽く頷き、青い火を揺らす。
「でもね、レアリスの近くにいる人間や魔族たちにとっては、きっと地獄だよ?
だってあの子にとっての“汚れ”は、つまり――魔力そのものだから。」
ジェーンは思わず、ニトの部屋の光景を思い浮かべた。
いつも散らかり放題、机の上には書類と菓子袋とぬいぐるみが混在している。
「……ニト様が“綺麗好き”とか、説得力ないですよ。」と笑う。
「ひどいなぁ!」
ニトは頬をぷくっと膨らませる。
「僕だって綺麗な方が好きだよ? ただ、片付けるのが面倒なだけ! でもね、レアリスは違う。
あいつは完璧に綺麗好き。
人間と魔族が混ざって生きてる今の世界を見たら、“汚い”って言って消すと思うよ。
ほんと、怠け者なんだから。僕が代わりに掃除しなきゃいけないんだもん。」
ジェーンは苦笑した。
聖国で誰よりも働かない少年。よく寝て、よく甘え、何もしない。
それが聖国の“秩序の守護者”。
けれど誰も笑わない。
皆が知っているのだ――ニトがその気になれば、世界が一夜で終わるということを。
「ニト様、お仕事……頑張ってくださいね。」
ジェーンが微笑みながら言う。
グレンもまた、静かに頭を下げた。
「我らにできることがあれば、なんなりと。」
ニトはぷいと顔を背けた。
「もう、まるでいつも僕がサボってるみたいな言い方するねぇ……。」
そして、すぐに表情を引き締める。
瞳の奥に、深い闇のような光が宿った。
「グレン。君は僕の側にいればいい。真実を見て、覚えて、守るんだ。
この場所を“正しい形”で残すのは君の役目。
世界がどれだけ壊れても……ここだけは壊さないように。」
グレンは深く頭を下げた。
「……承知しました。」
「魔族は敵。人間も敵。
でもね、ここだけは――味方だよ。」
ニトは静かにそう告げると、青い炎をひとつ撫でて、すっとその場から姿を消した。
風が揺らぎ、灯火だけがぽつりと残る。
残された部屋で、ジェーンがぽつりと呟く。
「ニト様が、あそこまでお話しするの……久しぶりね。」
「はい。」グレンは頷く。
「それに……あんなに疲れているニト様を見たのも初めてです。」
ジェーンはふっと笑う。
「いつもは怠けて眠ってるだけなのにね。」
「ええ。でも、今日は……怠けてもいないのに、眠そうでした。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
けれど胸の奥では、同じ不安が静かに膨らんでいた。
――ニトが疲れているということは、世界が確実に“動き出している”ということだ。
そして、青い灯火は静かに揺れ続けている。
ふたつの光が、いずれも残らないことを、
この部屋の誰も――まだ知らなかった。




