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ガイルは震える。

ガイルは震えていた。

これまで幾多の戦場で己が最強であることを疑ったことはなかった。拳が物を言い、炎が道を切り開き、敵が倒れる姿こそが彼の日常であり、生の実感だった。しかし、その日、たった一人の少年のような存在に簡単に抑え込まれた瞬間、彼の自負は音を立てて崩れ落ちた。理屈では説明できぬ恐怖が全身を駆け、心臓は鼓動を乱し、汗が首筋を滑る。


何よりも胸を締めつけるのは、ニトが突きつけた“五日間”の約束だった。──レイズを殺せ。さもなければ、ルルは死ぬ。

その言葉は秩序を代弁する冷たい判決のように、ガイルの胸に突き刺さった。


──助ける術はあるのか。──

その問いが何度も頭の中で反芻される。答えはない。あるのはただ、ルルのか細い息と、抱きしめる腕の中で震える身体。彼はその小さな生に全てを賭ける覚悟を抱くしかなかった。


ルルが目を開ける。まぶたの端についた泥や砂が光を受けてちらつく。瞳はまだ定まらず、声はか細い。


「ガイル様……わ、わたし……捕まっちゃったんですね……」


その声が、ガイルの内側でうずいていた動悸を一瞬だけ静める。彼は短く息を吐いた。


「……ああ。気にすんな。俺が何もできなかっただけだ…」


言葉は荒く、誤魔化すようでもあったが、ルルはその手をためらいなく彼の頬に置く。指先の温もりが、荒んだ心をほんの少しだけ落ち着ける。


「ガイル様、どうするのですか?」


問いは素直で、恐怖ばかりが籠もっている。ルルの瞳は真っ直ぐガイルを見ていた。守られる側の、切実な信頼。


ガイルは静かに答える。声は低く、決して大げさではない。


「レイズに、会いに行く。多分……俺か、あいつか、どっちかが死ぬな…」


その所為でルルの肩が震え、唇が小さく震える。信じたくない現実に、彼女は目を潤ませた。


「ど、どうしてですか! ガイル様とレイズ様は……お互いを、信じてるのではないですか」


ルルの言葉には、まだあの二人の間にあったはずの絆を信じたい気持ちが混じる。だがガイルは首を振る。


「じゃねぇと…おまえは…殺される。あいつは容赦しねぇ。おまえだけじゃねぇ。あっちにいる奴ら、みんなだ。奴は秩序を取り戻すって話をしてるんだ…。おれが動かなきゃ、誰が動くんだよ。」


言葉は冷たくも残酷だ。だが、その裏には激しい決意と、守りたい者への揺るがぬ執着がある。ガイルにとって、ルルはただの同胞でも愛人でもない。守るべき“理由”であり、己が戦う意味であった。


ルルは泣いた。自分のせいで、彼が苦しみ、命を賭けるのだと理解してしまったからだ。彼女が一歩でも後ろに下がれば、すべてが変わるのだろうか。だがニトの言葉は残酷に断言していた──代替は簡単に見つかる。


「ガイル様、戦わなくていいんです。わたし……わたしが死んだら……」


その言葉を遮るように、ガイルは静かに、しかし強く言い放つ。


「バカいうんじゃねぇ!。おまえが死んだところで何も変わらねぇ…。奴は、そしたらまた代わりを見つけるだけだろぉがよ。」


言葉は無慈悲だが、そこで示されるのは残酷な現実だ。秩序を重んじる者は、対象が一人死んだくらいでやめはしない。だからこそ、目の前にいる“生”を守るために動く――それがガイルである。


彼はルルを強く抱きしめ、迷いのない足取りでスカイドラゴンにまたがった。黒き竜の背は広く、風を切るたびに体に伝わる振動が鼓動のように響く。巨大な翼が海風を抱き込み、二人を運ぶ。空は高く、海は果てしなく広がる。ガイルの胸の内では、怒りと焦燥と、薄い希望が渾然一体となって燃えていた。


「レイズ……まさか、てめぇとこんな形で会うことになるのか……」


彼の独り言は海に消え、スカイドラゴンは帝国の方角へと羽を進めた。波間に反射する夕陽が黒い鱗を赤く染め、まるで世界そのものが決意を示すかのようだ。


その頃、帝国の都では──レイズが到着していた。彼は城壁の高みから遠く、空を眺める。視線はひとつの点を捉えていた。その先にあるのは、かつて己が守り、また傷つけられた者たち。だが今、彼が見つめているのは――ガイルディアの影。


「ガイル……今からお前に会いに行く。お前の協力が必要なんだ…頼むぞ。」


これは独り言のようで、同時に誓いでもある。隣にはリオネルとルイスが静かに立ち、二人は言葉少なに頷いた。三人が揃えば何かを成せると、レイズは信じている。だが──彼らはまだ知らない。空を裂く黒き影が、音もなく近づいていることを。


ガイルもまた知らない。自分が今向かう相手が、かつて自分を導き、救った男――レイズ。

そしてレイズが、己の協力を願っているという事実を。互いの胸にあるのは“信頼”かもしれない。

だが、齟齬は既に生まれている。

ニトという不可解な存在が投げた石が水面に波紋を広げ、やがて交錯する二つの想いを引き寄せていく。


両者の想いは、静かに、しかし確実に交差し始めた。互いを救いたいという意図が、いつしか刃となり、世界の均衡を揺らす。

誰も望まぬ対立の幕が上がろうとしている――そう、これは単なる個人的な憎悪や復讐の物語ではない。

守るべきもの、失ってはならない秩序、そして選択の重さが絡み合う、人と魔の運命を揺るがす出来事なのだ。


海を隔てた二つの場所で、息を詰める時が近づく。城壁の上で剣の柄に手をかける者、竜の背で拳に力を込める者、そしてその周囲で交わされる視線。それらはすべて一つの問いに帰結する──何を守るのか。何を選ぶのか。何を失っても、なお進むべき道はあるのか。


夕闇は深まり、空は濃紺に染まる。遠くで潮騒が低く響き、城は静けさを増す。やがて、風が運ぶはずのない緊張が夜を満たす。五日という期限は刻一刻と近づいているが、その重みは時間の数字では測れない。運命の歯車は既に噛み合い始め、誰かが動かなければ、すべてが壊れる。


ガイルはルルを胸に抱き、空を見上げた。黒炎はまだ指先に滲む。レイズは城の端で身を固め、仲間を信じる。二人の道は今、同じ一点へと収束しようとしている。互いに知ることのない真意と、相反する選択が交わるその瞬間――世界は息を飲むだろう。


そして、誰もが薄々感じているはずだ。この出会いが、単なる戦闘で終わるものではないことを。刃では断てぬ何かがここにあることを。守るべきものと失うものを秤にかけたとき、人は何を選ぶのか。


だけど今はただ、二人が歩み寄る足音を聞け。風が運ぶ二つの影を見よ。そして胸の内で問いを立てろ。そして…あなたなら、何を選ぶ…?

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たくさんの方に読んでいただき、本当にありがとうございます。 完結済の長編です。レイズたちの物語をぜひ最初から。
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