聖国の少年
ニトは、聖国に戻ってきていた。
聖堂の大理石の床に足を踏み入れると、張り詰めた空気が一瞬だけ緩む。
白銀の鎧を着た聖騎士たちは一斉にひざまずいた。だが、少年はそれを気にする素振りもなく、ふわりと笑う。
「ただいまー。」
その声に、誰もが息を呑む。まるで“帰ってきた災厄”を迎えるようだった。
「ニト様……どこにいってたのです?」
グレンが問う。穏やかな声音の奥には、恐れが混ざっていた。
ニトは首をかしげ、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「んー、まだ僕たちの出番は必要ないかなって思って。
彼ら自身に――まずは“罪”を償わせなきゃ。」
その言葉に、場の空気がさらに冷たくなる。
ジェーンは窓の外を見つめながら、遠い地でいまも絶望に沈む者たちを思い浮かべた。
見えぬ影――ガイル。あの圧倒的な存在が、どんな顔をしているのか。
彼女は知らず、胸の奥でその男に同情していた。
ハルバルドは、恐る恐る口を開く。
「……一体、なにがどうなって……?」
ニトは軽く首を傾げた。
「ガイル様? って人に、すこーしだけお仕置きをしただけさっ。」
軽く笑いながら言うその口調に、誰もが背筋を凍らせた。
ハルバルドの顔から血の気が引く。
「……あの、魔王ガイルに……お仕置きを……?」
その場にいた全員が息を飲んだ。
ニトが何者なのか――その本質を知る者はいない。
だが、ハルバルドは確信した。
この少年こそが、世界を“元に戻す”存在。
破滅に沈んだ秩序を正す、神の代行者そのものだと。
ピスティアは、兄の袖を握りながら微笑んだ。
「これで……よかったんですよね? お兄様。」
ハルバルドは、震える唇でかろうじて答えた。
「あ、ぁあ……そうだな……。」
ニトは軽い調子で言った。
「ほら、みんな戻るよ。……グレン、おんぶ。」
「はいはい。」
グレンは苦笑しながらも膝をつく。
その瞬間、ふと感じ取った――ニトの体からわずかに漏れる“疲労”。
それは、あの少年が本気で力を使った証拠だった。
(……ニト様に、力を使わせた……?)
その考えが頭をよぎった瞬間、背筋が凍りついた。
ガイルという存在がどれほどの怪物であったのかを、言葉なくして理解する。
ニトはくすっと笑い、グレンの頭を軽く小突いた。
「余計なこと考えなくていいから。」
「は、はい!」
グレンは慌てて姿勢を正す。
ジェーンは、歩きながら微笑んだ。
「まったく、ニトは普段は可愛い少年なんだけどねぇ。」
ニトはすぐに振り返って、悪戯っぽく言い返す。
「ジェーンは普段、怖いおばさんだよね。」
その瞬間だけ、聖堂の空気がほんの少し和らいだ。
けれどその笑いの下には、誰にも読めない底知れぬ“恐怖”が確かに存在していた。
――世界の均衡を保つ者、ニト。
その微笑みの裏で、運命の秤はゆっくりと傾き始めていた。




