5日の約束
轟く静寂のあとに、ふとした子供のような声が柔らかく響いた。
「ねぇ……どうするの? 君がやってくれるなら、僕もまだ少しは休めそうなんだけどなぁ。」
その声は軽やかで、しかし場の重力をねじ曲げるほどの冷たさを含んでいた。ガイルは振り向き、薄く笑っただけだった。
「やっぱり僕が行くしかないかな?」
「ねぇ? 君、魔族の仲間なんだよね?」
ニトは首をかしげる仕草を見せ、さらに問いかける。口元に浮かぶ微笑みは、まるで戯れに人形を毟る子供のようだ。
「君を殺して魔族達に見せたら、魔族は怒って人を殺す? そしたら解決だ! 君を殺して、魔族が人を殺して、人が魔族を殺して――なぁんだ。簡単だね?」
ガイルの笑いは乾いていた。黒炎を口の端のように纏い、彼は鼻先で嗤う。
「おれが殺されても、あいつらは動かねぇ。おれは魔族でも人でもねーからよぉ。」
ニトの瞳がきらりと光る。嬉々として、彼はさらに問いを重ねた。
「じゃぁ、君はなにをしたいの? ねぇ?」
ガイルは吐き捨てるように応えた。
「人をぶっ殺す。てめぇも、聖なんちゃらも、全部ぶっ殺す。おまえが一番最初だ!」
ニトの顔がぱっと明るくなる。それは喜びなのか、興奮なのかすら判然としない。
「それ。いいね。」
言葉とともに、拘束は解かれた。ガイルは荒い息を吐き、身体を起こす。だが、安堵は長く続かなかった。
「ああ、なんなんだよ……くそが!」
ニトは静かに問いかける。声は落ち着いているが、その一語一語が刃のように突き刺さる。
「君なら知ってるんじゃないかな。一体、誰が、人と魔族を繋げたの?」
ガイルの脳裏に、すぐに一つの名前が浮かんだ。――レイズ。平和を紡ぐと呼ばれた男の名だ。だが、彼は吐き捨てた。
「しらねぇ! あいつらが勝手になっただけだろ!」
ニトはふーん、と鼻歌のように響かせる。
「レイズねぇ……」
ガイルは次の瞬間、歯茎をからすような声で叫ぶ。何かが胸底でひっくり返る予感がする。だが、その声は届かない。ニトはふうっと息をひとつつき、にこやかに続けた。
「それが元凶か。じゃぁ、君、その人を殺してきて? そしたらさっきのエルフも助けてあげる。簡単でしょ?」
ガイルの怒号が空気を切る。次の瞬間、世界の片隅が消えるような違和感が走った。その静寂を破るようにニトの姿が忽然と消えた。
そしてすぐにまた現れる。連れてきたのは――気絶したルルだった。
彼女は白い服を泥まみれにし、薄く頬が蒼ざめている。誰かに抱かれているわけでもなく、ただそこに倒れている。ガイルの胸を打つ刹那、すべてが静止した。
「この子、殺すよ?」
その声は柔らかく、残酷だった。ガイルは体を震わせ、嗚咽のように掠れた声を漏らす。
「やめ、やめろ……わかった。おれが……レイズを……ころすから、返せ。ルルを!」
ニトはにっこり笑い、まるで約束を交わす子供のようにルルを差し出した。丁寧に、まるで重い荷物を返すかのように、彼は彼女を手渡す。
「良かった。君は話がわかるね?。
ほら、返すよ。」
ガイルはルルを受け取り、すぐにその胸に耳を押し当てた。荒い鼓動が伝わり、呼吸があることを確かめる。彼の指は震え、唇が白く引きつる。
「生きてる……」
ニトは肩をすくめ、いたずらっ子のように首をかしげる。
「ちょっとだけ、眠って貰ってるだけだよ? ほら、僕優しいから!」
ガイルの目が血走り、怒りと恐怖が混ざり合う。だが体は凍りついていた。ニトの次の言葉は、まるで遠くから告げられる審判のようだった。
「それじゃぁ君、えっと──ガイル様、だっけ? 頑張ってね。五日後に見に行くから。 それまでにはよろしくねー。もしできてなかったら………その子、死ぬから。 バイバイ!」
ニトは手を振ると光のように消えた。残されたのは、風に揺れる砂とガイルの低い唸り声だけだった。
ガイルはルルを抱き寄せ、膝をつく。彼の胸には怒りがうねり、膨らんだまま何も生まずにただ空回りする憎悪が渦巻いていた。だが、その憎悪は――今はただ焦燥と哀しみに変わる。
「ふざけんな……てめぇ……」
ルルの眠る顔を見下ろし、ガイルは小さく、しかし鋭く決めるように呟いた。
――五日。五日の間に、レイズを止める方法を見つける。もしくは、その男を消す。どちらかだ。
けれど彼の腸は知っていた。そこにあるのは選択の余地ではないと。ニトは遊んでいるのではない。彼は秩序そのものを代弁し、淡々と世界の均衡を取り戻すために動く。言葉は慈悲深く、所作は事務的。だがその行為は残酷で、確実だ。
ガイルはルルの頬に指を添え、冷たい汗を拭いながら立ち上がる。黒炎はまだ腕の中で揺れている。彼の視線は遠くの空を見据え、そこに燃える意志が宿った。
「五日か…レイズ…どうしたらいい…!」
呟いた言葉は、風に飲まれて消えた。しかしそれは、誰の耳にも届く宣言だった。世界は誰かの遊戯ではない。だが、ニトはその遊戯の審判者だ。いま、静かに歯車が噛み合い始める。誰かが動かなければ、すべてが壊れる。
五日の期限は、時計の針ではなく、運命の刻印なのだ──。




