【強さの形を問う者】
グレサスは、空を見上げていた。
青でも黒でもない、曖昧な灰色の空だった。
ガイルとの戦いを終えてから、彼の中には言葉にできぬ感覚が残っていた。
それは熱狂でもなく、満足でもない。
まるで何かが終わり、そして始まろうとしているような――そんな静けさだった。
かつて、強者と戦うことこそが生きる理由だった。
勝利も敗北もただの道程であり、戦いそのものが快楽だった。
だが今、グレサスは気づき始めていた。
強者と戦うことが楽しいのではなく、強くなっていく過程こそが楽しかったのだ。
その成長が止まった今、彼の心には空虚な風が吹いていた。
――何のために戦うのか。
その問いが、戦士の胸に芽生えてしまった。
守るために強くなる。
強くなったからより強い者と戦い、また強くなる。
それを繰り返す日々が、いつしか当たり前になっていた。
だが、戦う理由が消えたとき、強さはどこへ向かうのだろうか。
グレサスは、帝国の訓練場でひとり腕を組んだ。
ルイスを鍛え、彼の成長を見守ってきたが――
その若者は、彼とはまるで違う理由で強さを求めていた。
ルイスは、誰かを守るために剣を握る。
勝つためではなく、倒すためでもなく。
「必要だから強くなる」という言葉を、まっすぐに信じている。
だがいま、帝国も王国も戦火を失い、
世界は強者を必要としなくなっていた。
つまり――戦いの終わった世界が始まったのだ。
グレサスにとって、それは初めての“退屈”だった。
「……つまらん。」
ぽつりと呟いた声は、風に溶けた。
その日、訓練場で。
ルイスが木剣を置いたとき、グレサスは空を見たまま言った。
「ルイス、聞け。
俺は王国に帰る。……お前の鍛錬は、今日で終いだ。」
「え……?」
ルイスは顔を上げる。
グレサスの背中には、どこか疲れたような影があった。
「どうせあの男も襲ってはこない。終わったのだ、戦いは。」
「終わりなど、ありません。」
ルイスは迷いなく言い返した。
「私たちが強くなるからこそ、みんなが安心して暮らせるんです。
グレサス様が強いからこそ、私は……安心できるんです。」
グレサスは目を細め、わずかに笑った。
「戦う相手もいないのにか?」
「えぇ。今はいないだけです。
でも、強さを手放せば、誰も守れなくなる。
守る者がいない世界は……とても怖いものなんです。」
その言葉に、グレサスは初めて言葉を失った。
“弱者の不安”――彼には、わからない感情だった。
「グレサス様、」
ルイスが静かに言葉を紡ぐ。
「クリス様が強くなったのは、どうしてだと思いますか?」
「ふん、俺を越えたいからだろう。」
グレサスは笑い、肩をすくめる。
「確かに、そうかもしれません。」
ルイスも笑い、そして言葉を続ける。
「でも、クリス様はもう“誰かを越える”ために強くなってはいません。
あの方が強さを磨くのは、守りたい人がいるからです。」
グレサスは眉をひそめた。
「ほう? それは誰だ?」
「レイズ様です。」
ルイスはまっすぐに言う。
「レイズ様が動けるのは、クリス様が強いから。
安心して背を任せられる仲間がいるからこそ、あの方は前へ進めるんです。」
グレサスは腕を組み直し、ゆっくりと立ち上がる。
「では、俺がここにいれば……お前もどこへでも行けるのか?」
ルイスは笑って首を振った。
「無理ですね。」
グレサスの眉間に、かすかな笑みが刻まれる。
「だろうな。」
ルイスは続けた。
「グレサス様の強さは、信頼の象徴です。
強さとは、任されることも、任せることもできるもの。
……けれど、グレサス様はきっと“任せない”でしょう?」
「信用していないからだと?」
「違います。きっと“どうでもいいから”ですよ。」
その言葉に、グレサスは笑い出した。
「俺が任せないのは、俺が向かう方が確実だからだ。」
「でも――」ルイスは穏やかに言う。
「もし、グレサス様がいない間に、誰かがこの場所を攻めたら?」
「その時は、俺と一緒にいさせればいいだけだ。」
「……側にいる方が、危険なこともあります。」
ルイスの言葉に、グレサスの目がわずかに動いた。
あの戦い――ガイルとの激突が脳裏をかすめる。
「強さは多種多様です。」
ルイスは木剣を握り直した。
「グレサス様に今、必要なのは……“別の形”の強さなのかもしれません。」
グレサスは黙り、空を見上げた。
ふと、クリスとガイルの姿が浮かぶ。
彼らの傍には、女がいた。
守る者。待つ者。支える者。
「……恋にうつつを抜かすなど、くだらんな。」
そう言って笑うその声に、わずかに優しさが混じる。
ルイスは微笑んで言った。
「でも、クリス様はグレサス様に勝ちましたよ?。」
グレサスは歩みを止める。
「なんだと……?」
「力では互角です。
でも、クリス様は“誰かのために生きている”。
そのほんの少しの差が、戦いの行方を分けたのです。」
グレサスは目を細め、そして苦笑した。
「まさか、足手まといがいる方が強くなるとはな。」
「足手まといが愛おしいから、強くなれるんですよ。」
ルイスのその言葉に、グレサスは黙って背を向けた。
「……今日の稽古は終わりだ。」
訓練場を出ようとしたそのとき、
少し離れた木陰から、エルビスがこちらを見ていた。
視線が合うと、彼女はすぐに踵を返して去っていく。
グレサスはわずかに息を吐き、呟いた。
「……まったく、難解だな。」
空はもう、夕暮れ色に染まり始めていた。
戦士の胸に、確かな変化が訪れていた。
それは“戦う”という生き方に、新しい形の意味をもたらす――
そんな夜の始まりだった。




