アンダースローたい焼き
僕の彼女はたい焼きを食べるとき、必ずアンダースローで投げてもらっていた。
特に、彼女のお父さんはアンダースローたい焼きの名手で、シュルシュルと小気味良く回転しながら、ややホップするたい焼きが彼女の口に収まる瞬間はなんとも心地いいモノがあった。
でも、そんな彼女のお父さんが病に臥せったのはつい一か月前のこと。
憔悴しきった彼女は、誰からのアンダースローたい焼きも受け付けなくなってしまった。
「お父さんのアンダースローたい焼きじゃないと、咥えた瞬間に口端が切れちゃうの」
そう言いながら、彼女はあんこ仲間であるあずきバーを力いっぱいにかみ砕いた。
歯が、心配になった。
何より、自身が倒れたせいで、彼女のアンダースローたい焼き未来を心配するお父さんを見ると辛くなった。
そんな二人の悲しみを受けて、僕は決意する。
必ずや、お父さんのようなアンダースローたい焼きを投げられるようになると。
そうすればきっと、彼女も元気を出してくれるはず。
ただ、懸念はあった。
もしかしたらこれは自己満足なのかもしれない、と。
彼女は、お父さんという存在の上に成り立つアンダースローたい焼きを愛しているのかもしれない、と。
だって、お父さんのじゃないと口の端が切れると言っていたけれど、彼女はアンダースローたい焼きキャッチの名手でもあるのだから。
どんな乱雑に投げられたたい焼きでも、笑顔でキャッチして見せるほどの腕前なのだ。
テレビにも出たことがあるし、そういう選手権でも優勝の経験がある。
そう考えると、僕のやっていることは意味のないことなのかもしれない。
けれど、僕にはそれしかなかった。
それしかできなかった。
暇を見つけては、自宅の庭でアンダースローたい焼きの練習を重ねた。
投げては食べ。
投げては食べ。
彼女には決して悟られないよう、秘密裏に特訓を重ねた。
けれど、一か月程経ったとき、彼女がふと漏らした。
「ねえ、アンダースローたい焼きの練習してない?」
「え?」
「だって、明らかにアンダースローたい焼きをできる筋肉の付き方になってきてるし、何より、右手人差し指に大きなタコができてる。色も投げた際に破れた皮から露出するあんこ色に染まりつつある。これって、アンダースローたい焼きの練習しないとならないやつだよね? それに、太ってる。アンダースローたい焼き太りなの……わかるよ」
そう言った彼女の瞳には大きな悲しみが宿っていた。
「……っ!」
僕は出始めていた下っ腹を両手で抑える。
「なに? お父さんが死ぬかもしれないから、練習しているの?」
「ち、違う! そう……じゃない! 俺はただ、君に……」
俺は言葉に詰まってしまった。
本当に、その考えがなかったのだろうか。
いや、きっとどこかで僕は万が一に備えていた。
この一か月の間に、お父さんの容態は悪化の一途をたどっていた。
それをつぶさに見ながら、彼女の悲しみの先に、最愛の人の死があるかもしれないということをおぼろげに考え始めていた。
だからこそ、自然と練習にも力が入った。
本来であれば、彼女に気づかれないような練習量、摂取量にとどめておくべきだったのに、そのコントロールが効かないほどに、僕も焦っていたのだ。
「ごめん……。もう別れよ?」
「いや、でも……!」
「ごめん! もう辛いの! お父さんの病状がどんどん悪くなっていくことも、あなたが必死にお父さんの代わりになろうとしていることも! あなたはあなたなのに! お父さんの代わりをしてほしいわけじゃないのに! あなたにはあなたらしく私を見てほしいのに! 練習するくらいなら!」
一拍。
「そばにいてほしかったのに!」
そこまで言うと、彼女は走り去ってしまった。
咄嗟に追いかけようとした俺の口に、たい焼きが飛び込んできた。
それは、彼女が投げたたい焼き。
悲しいほどに冷え、皮が固まってしまっていた。
僕は悔いた。
―――そばにいてほしかった
彼女にそう叫ばせてしまうほど、僕の行為は自己満足でしかなかったことがわかってしまったのだから。
☆
それから、一年が過ぎた。
僕と彼女は大学内ですれ違うことはあっても、言葉も視線も交わさなくなっていた。
幸い、彼女のお父さんは奇跡的な回復を見せ、退院したらしい。
彼女も今ではアンダースローたい焼きキャッチサークルに復帰し、イキイキと活動している。
けれど、二人の関係は戻ることはなかった。
戻っても良かったのかもしれない。
けれど、どこか互いのためを想って放った言葉が、起こした行動が、過去が、距離を縮めることを拒んでいた。
「いい加減、より戻したら?」
「素直になれって」
「なんでたい焼き投げるの?」
そんな共通の友人からの言葉も、僕らの関係には響かなかった。
でも、僕はアンダースローたい焼きの特訓を続けていた。
それが唯一の彼女との繋がりだったから。
何度も何度も繰り返し、彼女を想って投げるたい焼きは、徐々に彼女の口元に相応しい軌道を描くようになっていった。
―――彼女の口へ投げたい
―――彼女の心へ届けたい
自然とそう思うようになっていた。
これを投げることができれば、彼女との距離を再び縮めることができるかもしれない。
そう思えた。
でも、不安もあった。
僕のたい焼きは……。
「いや、考えても駄目だ! 行動あるのみ!」
頭の中のモヤモヤを振り払い、僕は大学へと向かった。
とある講義室。
彼女はいつも朝、そこで時間を過ごす。
教室の窓から入る朝の陽ざしが好きなんだ、そう彼女が言っていたことを今でも鮮明に思い出す。
講義室のドアから覗くと、そこには彼女がいた。
久しぶりにしっかりと捉えた彼女の姿に、僕の涙腺は緩む。
きゅっと、たい焼きを持つ手にも力が入る。
一度、心と体をおちつかせるように大きく深呼吸をし、思い切りドアを開けると、その勢いのまま僕は彼女にたい焼きを投げた。
瞬間、気配を察した彼女はこちらを振り返り、見事にその桜色の乗る唇でキャッチをした。
「今ほぉって……」
彼女はたい焼きを口から放しながら、戸惑いの表情を浮かべている。
それはそうだろう。
だって、僕が投げたのは……。
「サイドスロー?」
そう、サイドスローたい焼きだったのだから。
「ごめん。君を想ってアンダースローたい焼きの練習してたらさ、気が付けばサイドスローになってた」
彼女を想い続けアンダースローたい焼きの練習をしていた僕が身に着けたのは、いや、たどり着いたのはサイドスローたい焼きだった。
アンダースローたい焼きを練習していたはずなのに、なぜかサイドスロー。
でも、僕はそれで間違っていないと
「アンダースローじゃないのに、なんでこんなにしっくりくるの?」
彼女は不思議そうに唇をなぞる。
「ずっと君を想いながら投げてたらさ、気づいたんだ。気づけたんだ」
投げ続ける中で、僕は違和感を覚えていた。
彼女を想っているはずなのに、彼女に届く気がしない。
なぜなのか。
どうしてなのか。
違和感の正体を掴めなかった僕は、とにかく彼女を想って投げ続けた。
そして、ある日ふと、疲労ゆえに体と肩を下げきれない瞬間があった。
失敗だ。
そう思ったたい焼きは僕の予想を超えて、遥かに理想的な軌道で飛んで行ったのだ。
瞬間、気づくことになった。
僕の身長はお父さんのそれよりも20㎝近く低い。
アンダースローたい焼き選手の平均からも10㎝ほど低い。
彼女の唇の高さを考えると、お父さんはアンダースローでよくても、僕がそれではダメだったのだ。
サイドスローで放たないと、彼女の唇にフィットしなかったのだ。
それに気づいてから、ぐっと彼女への想いも投げの精度も上がっていった。
「そうだったんだ……」
フィットした理由を知った彼女は、愛おしそうに自身の口に飛び込んできたたい焼きを見つめる。
そのまま、勢いよく食べると、彼女は僕へと抱き着いて来た。
彼女の口元から溢れるあんこの薫りに、僕は胸が締め付けられる。
「ごめんね……。突き放してごめんね。酷いこと言ってごめんね」
ぎゅっと、僕を抱きしめる彼女の腕に力が入る。
「ううん。僕の方こそごめん。自分勝手に君のことを想ってごめん。もっと、君が何を望んでいるかを考えるべきだった」
僕も応えるように強く、強く、すれ違った時をなくすように抱きしめる。
「私が悪いの。お父さんのことで頭がいっぱいになった私が……」
「いや、僕が悪い」
「ううん、私が……って、あはっ。せっかくこうして話せてるのに、謝ってばっかりだね、私たち」
「だね」
僕たちは思わず吹き出した。
二人の間で響く笑い声は、絆を取り戻したと証明するに十分な甘さを有していた。
こうして、僕たちは元の関係へと戻った。
いや、前よりも強く結ばれているように思える。
僕が辿り着いたサイドスローたい焼き。
彼女が受け止めてくれたサイドスローたい焼き。
それはこの世でただ一つの、彼女と僕だけが持つ愛の証なのだから。