53話:友達
友達という言葉は、あまりにも軽い。
一緒に笑った時間だけで結ばれるものではなく、
命を預けた瞬間にしか生まれない関係がある。
逃げたい夜も、折れそうな痛みも、
隣に立つ誰かがいるだけで踏みとどまれる。
輝たちはまだ知らない。
この戦いの中で手に入るものと、失われていくものの重さを。
これは、ただ妖怪を狩る物語ではない。
仲間を知り、友を知り、そして――
“友達”という言葉の意味を思い知らされる物語だ。
大熊「うおおおおおッ!!」
気合と共に、大熊が地面を踏み砕くように立ち上がった。
その瞬間、再び霊力が噴き上がる。
ボンッ――!
橙色の炎が全身を包み、空気が震える。
先ほどと同じ解放。なのに、圧が違う。
狼男が一歩、押し戻された。
大熊「今度は…押せる!」
爪と拳がぶつかり合う。
だが、さっきまで岩のように動かなかった巨体が、揺れている。
福留が息を呑む。
福留「……違う。大熊さんが急に強くなったんじゃない」
白川も眉を寄せた。
白川「狼男の動きが鈍い…?」
確かにそうだ。
咆哮は変わらず凶暴なのに、力が落ちている。
狼男の肩が上下し、呼吸が荒い。
その目の奥に、ほんの僅かな揺らぎが見えた。
輝がその異変を見逃さない。
輝「弱体化してる…?なんでだ」
大熊が拳を叩き込むたび、狼男の体が軋む。
まるで、何かを抑え込まれているように。
狼男は吠えた。
怒りではなく、焦りに近い咆哮だった。
大熊「理由は知らん!でも今しかない!」
大熊がさらに霊力を燃やし、前へ出る。
押し切れる――そう思った、その時だった。
狼男の頭の傷が、じわりと赤黒く滲んだ。
福留「……あの傷」
大熊が狼男の毛皮を掴み、力任せに引き寄せた。
大熊「おらァッ!!」
次の瞬間、巨体を背負い上げる。
ドンッ!!
背負い投げが決まり、狼男の身体が地面に叩きつけられた。
土と枯葉が舞い上がる。
大熊はすぐさまその上に跨り、拳を振り上げる。
大熊「トドメや!!」
――その時。
横合いから衝撃。
福留「やめろッ!!」
タックル。
大熊の身体が弾き飛ばされ、狼男から引き剥がされた。
大熊「何してんだ!!福留ぇ!!」
怒鳴る大熊。
だが福留は歯を食いしばり、狼男を見ていた。
福留「……殺したら、ダメだ」
大熊「はぁ!?」
次の瞬間、狼男が低く唸った。
四足に落ちる。
獣の動き。
ズザッ、と地面を蹴り――
森の闇へと溶けるように消えていった。
輝「逃げた…!」
白川が追おうと一歩踏み出すが、もう遅い。
木々の間に気配すら残っていない。
大熊は拳を握り締める。
大熊「なんで止めた…あそこで終わってたやろ!」
福留は答えない。
ただ、狼男が消えた方向を睨み続けていた。
その沈黙が逆に不気味だった。
福留の中で、何か確信が生まれている。
輝はその横顔を見て、嫌な予感を覚えた。
大熊が怒りに任せて福留へ詰め寄る。
大熊「お前ぇ……!!」
胸倉を掴みかけた、その瞬間。
輝「やめろ、大熊!!」
間に割って入った輝の声は鋭かった。
大熊の腕が止まる。
大熊は荒い息を吐き、福留を睨みつけたまま拳を震わせる。
だが――
輝に止められた大熊は、驚くほどあっさりと手を引いた。
大熊「……チッ」
輝「とりあえず話聞こ?」
大熊は舌打ちしながらも、視線を逸らす。
大熊「輝が言うなら、まぁ……」
福留は何も言わず、ただ俯いていた。
森の中にはまだ獣の残り香が漂っている。
誰もが分かっていた。
今のはただの妖怪退治じゃない。
何かが、狂い始めている。
とりあえず全員は基地へ戻った。
扉が閉まる音がして、森の冷たい空気が遮断される。
その瞬間、張り詰めていた緊張が一気に落ちた。
大熊は椅子にどさりと腰を下ろす。
疲労が全身に滲み出ているようで、背もたれに体を預けたまま天井を仰いだ。
大熊「……はぁ……」
息を吐くだけで精一杯だった。
少し離れた場所では、白川と我乃差が小声で話し合っている。
白川「狼男の動き、途中で変だったよな」
我乃差「あぁ……確実に弱体化していた。」
二人の表情は硬い。
何か嫌な予感が頭から離れない。
輝は基地の空気を見渡しながら、福留の隣に腰を下ろした。
福留は俯いたまま、拳を握り締めている。
その肩は微かに震えていた。
輝は強い言葉を使わず、静かに声をかける。
輝「……何があったのか、話せる?」
福留は答えない。
沈黙だけが流れる。
だが輝は急かさなかった。
ただ隣にいることで、逃げ道を塞がず支えようとしていた。
我乃差がゆっくりと近づいてくる。
基地の空気は重いまま、誰も大きな声を出せない。
福留の隣に座る輝も、ただ黙って見守っていた。
我乃差は福留の前で立ち止まると、深く頭を下げた。
福留は目を見開き、信じられないものを見るように我乃差を見上げる。
福留「……え?」
我乃差「いつ謝ろうか考えてたんだ」
声は低く、震えを含んでいた。
我乃差「タイミングを逃しすぎた。……すまない」
福留「えっ、どういう……」
福留の言葉は途切れる。
謝罪される理由が分からない、そんな顔だった。
我乃差はゆっくりと顔を上げる。
我乃差「お前がこの自衛隊にいる時、俺はずっと勘違いしてた」
福留「……」
我乃差「隊員と福留が仲良いとばかり思っていた」
その言葉に、福留の表情が固まる。
我乃差の視線は真っ直ぐだった。
我乃差「福留が飛び出した後に知ったんだ」
一拍置いて、続ける。
我乃差「……他の隊員に虐げられてたことを」
その瞬間。
基地の空気が凍りついた。
白川が息を呑む音が聞こえる。
大熊も椅子から少し身を起こし、信じられないという顔をした。
全員が驚愕する。
輝も、初めて福留の過去に触れたように目を細めた。
福留は俯いたまま動かない。
握り締めた拳だけが、微かに震えていた。
我乃差「俺は勘が鋭い方だったんだが……」
自嘲するように笑い、視線を落とす。
我乃差「こんな身近なことを見逃してたなんてな」
福留はまだ何も言わない。
ただ黙って、我乃差の言葉を受け止めている。
我乃差は続けた。
我乃差「福留が居なくなったあと、ずっと考えてたんだ」
その声には悔しさが滲んでいた。
我乃差「勿論、その隊員達の根性は叩き直した」
大熊が眉をひそめる。
大熊「……叩き直したって」
我乃差は淡々と、しかし鋭く言い切る。
我乃差「何人かは血反吐吐いて辞めたけどな」
その場に沈黙が落ちる。
暴力的な響きではなく、
それほどまでに我乃差が怒っていたという事実が、重く刺さった。
福留の肩が僅かに揺れた。
輝が静かに口を開く。
輝「……福留、それを聞いて、どう思う?」
福留は俯いたまま、掠れた声でようやく言葉を絞り出す。
福留「……今さら、って思う自分もいる」
一瞬、空気が張り詰める。
福留「でも……隊長が、謝る人だったなんて、知らなかった」
我乃差の目が揺れる。
我乃差「遅すぎた。全部、遅すぎたんだ」
福留は拳を握りしめたまま、震える息を吐く。
福留「……俺は、あの時」
言葉が詰まる。
福留「誰にも気づかれないって思ってた」
その一言が、全員の胸を締め付けた。
白川が小さく呟く。
白川「……そんなの、間違ってる」
大熊も歯を食いしばる。
大熊「俺ら、知らんかった……」
輝は福留の肩にそっと手を置いた。
我乃差は再び頭を下げる。
我乃差「福留。謝る機会をくれて……ありがとう」
謝罪と感謝が混ざった声だった。
福留は顔を上げないまま、ほんの僅かに頷いた。
我乃差「それで、なんだが」
空気を切り替えるように、我乃差は低く言った。
我乃差「俺は勘が鋭いって言ったろ?」
福留の顔を真っ直ぐ見据える。
我乃差「福留。あの狼男のこと……何か知ってるだろ?」
福留は一瞬だけ目を伏せ、そして小さく頷いた。
その反応だけで、全員が息を呑む。
我乃差はゆっくりと福留の目の前の椅子に腰を下ろした。
距離を詰めるでもなく、逃がすでもない。
ただ、向き合うための位置だった。
我乃差「頼む」
声が、珍しく弱い。
我乃差「知ってることを話して欲しい」
福留の指先が僅かに震える。
我乃差は続ける。
我乃差「福留を虐げた隊員や……気づかなかった俺を」
言葉を選ぶように間を置いた。
我乃差「憎んでいるとは思う」
福留の表情は動かない。
だが、その沈黙が肯定に近かった。
我乃差は深く息を吐き、頭を下げた。
我乃差「それでも、助けて欲しい」
その場にいる誰もが驚いた。
我乃差「今は……禍津学園の皆さんが」
一瞬、言葉が詰まる。
我乃差「福留が頼りなんです」
輝が静かに福留を見る。
大熊も白川も、口を挟めない。
福留はしばらく黙っていた。
そして、ようやく口を開く。
福留「……知ってる」
その声は低く、重い。
福留「あの狼男は……ただの妖怪じゃない」
我乃差の目が鋭くなる。
福留は続けた。
福留「俺が、ここを飛び出した理由にも……関係してる」
空気が凍りつく。
輝「……福留」
福留は拳を握りしめたまま、言った。
福留「名前があるんだ」
全員が身を乗り出す。
福留「俺は、あいつを……知ってる」
福留「……あいつは」
言葉が喉に引っかかるように、福留は一度息を飲んだ。
福留「あいつは……復讐しているのかもしれない」
その一言で、部屋の空気がさらに重く沈む。
大熊「復讐……?」
福留は頷くでもなく、ただ虚ろに前を見た。
福留「隊員を狙ってる」
我乃差の眉が僅かに動く。
福留「過去の贖罪を……俺たちに突きつけるみたいに」
白川「贖罪……?」
輝が静かに問う。
輝「福留、それはどういう意味?」
福留の拳がきつく握られる。
福留「……俺が自衛隊にいた頃」
その言葉だけで、我乃差の表情が硬くなる。
福留「今日からここに配属になりました!福留満です!よろしくお願いします!」
まだ少年の面影が残る声だった。
隊服は少し大きく、肩が落ちている。体つきも細く、訓練を重ねてきた隊員たちの中では明らかに浮いていた。
整列する視線が一斉に福留へ向く。
興味、値踏み、そして――嘲り。
我乃差「あぁ、よろしく。ここの部隊は厳しいぞ?ついてこれるか?」
福留は背筋を伸ばし、勢いよく頷いた。
福留「はい!精一杯ついて行きます!」
我乃差「いい心意気だ。早速今日から訓練がある、やれるな?」
福留「はい!」
返事だけは誰よりも大きい。
それが余計に場違いに響いた。
隊員A「……ガキじゃねぇか」
隊員B「こんなのが戦力になるのかよ」
小さな笑い声が混じる。
福留は聞こえないふりをした。聞こえていないわけがないのに。
福留は遅れて入隊した。
周りの隊員より何歳も年下で、経験も浅い。
体力も筋力も追いつかない。
それでも。
訓練が始まれば、歯を食いしばって走った。
転べば泥だらけになって立ち上がった。
息が切れても止まらない。
「ここで倒れたら終わりだ」
その思いだけで身体を動かしていた。
我乃差は遠目にそれを見ていた。
若い、細い、それでも折れない目。
だが部隊の空気は優しくなかった。
厳しさではない。
もっと別の、陰湿な何かが――静かに芽を出し始めていた。
我乃差が夜中、消灯時間を過ぎてからも机に向かい事務作業を続けていた。
静まり返った基地の廊下に、紙をめくる音だけが響く。
その時。
外から、かすかな音が聞こえた。
ギッ、ギッ、と地面を蹴る靴音。
誰かが動いている。
我乃差は眉をひそめ、椅子を引いて立ち上がる。
我乃差「……誰だ」
懐中電灯を手に外へ出る。
夜の冷気が肌を刺した。
音のする方へ歩いていくと、薄暗い訓練場に人影があった。
腕立て伏せ。
息を切らしながら、何度も何度も繰り返している。
小さな身体。
福留だった。
汗で髪が額に張り付き、腕は震えている。
限界を超えているのが一目で分かった。
それでも止めない。
我乃差の胸に、苛立ちと、どこか危うさへの警戒が走る。
我乃差は一歩踏み出し、怒鳴った。
我乃差「何してる!」
福留の身体がびくりと跳ねる。
我乃差「消灯時間すぎてるだろ!」
福留は慌てて立ち上がろうとするが、足がもつれてよろける。
我乃差「心意気は良いが、ここは部隊なんだ!」
声が夜に響く。
我乃差「規律を重んじるところだ!勝手な行動をするな!」
福留は震える息を吐きながら、必死に姿勢を正した。
我乃差「明日、訓練終わり俺の所にこい」
福留の目が揺れる。
我乃差「罰を与える」
冷たい言葉だった。
福留は唇を噛み、深く頭を下げた。
福留「すみません!」
その声は掠れていた。
我乃差は背を向けたまま、足を止めていた。
心の中で思う。
(本来なら――)
規律を破った以上、連帯責任で隊全体に罰を与えることもできる。
それが部隊という組織だ。
だが。
ただでさえ居場所がない福留に、それを背負わせるのは酷すぎる。
隊員たちの視線。
年下で、細くて、必死に食らいつくその姿を笑う空気。
そこにさらに「全員に罰を与えた原因」という烙印を押せば。
福留は、本当に潰れる。
我乃差は拳を握り、胸の奥で小さく息を吐いた。
それから福留は罰を与えられた。
規律を破った以上、当然だった。
我乃差も容赦はしなかった。
追加訓練。
雑務。
誰もやりたがらない仕事。
福留は心身ともに削られながら、それでも耐えた。
倒れそうになっても歯を食いしばり、立ち上がった。
ここまで食らいつくのには理由がある。
福留は、自分が嫌いだった。
逃げ癖がある自分が。
苦しくなれば投げ出して、嫌になれば背を向けてしまう、そんな弱さが憎かった。
だからこそ、ここで逃げたくなかった。
逃げない人間になりたかった。
必死だった。
でも――
逃げ癖は簡単には抜けなかった。
積み重なる疲労。
孤立。
誰にも吐き出せない息苦しさ。
ストレスを抱えきれなくなった福留は、無断で持ち込んだお菓子を隠していた。
夜。
誰も見ていない場所で。
訓練の合間。
震える手で。
口に甘いものを押し込む。
それだけが、崩れそうな心を繋ぎ止める唯一の逃げ道だった。
弱い。
情けない。
そう思いながらも、福留はやめられなかった。
いつも通り、福留は外で隠れるようにしてお菓子を口に運んでいた。
夜風が冷たい。
基地の灯りは遠く、ここだけが世界から切り離されたようだった。
その時。
ガサガサ、と草を揺らす音がした。
福留は肩を跳ねさせ、慌てて振り向く。
闇の中から、小さな影が現れた。
子犬だった。
痩せ細り、毛は汚れ、片足を引きずっている。
腹を空かせているのが一目で分かった。
福留は息を呑む。
福留「……親はいないのかな」
周りを軽く見回す。
返ってくるのは静寂だけだった。
子犬は怯えながらも、福留の手元の匂いに引かれるように近づいてくる。
福留は迷った。
だが、放っておけなかった。
その夜、福留は食堂からダンボールを盗んだ。
誰にも見つからないように抱え、子犬をそっと中へ入れる。
さらに、自分の服を丸めて一緒に入れた。
少しでも暖が取れるように。
子犬は小さく震えながら、その布に鼻を埋めた。
福留の胸が締めつけられる。
だが、問題は餌だった。
犬が食べられるものが、手元にはない。
福留は考えた末、決めた。
朝。
昼。
夜。
自分の配給のご飯を少しずつ減らす。
その分を、犬が食べられるものだけ選んで持っていく。
誰にも気づかれないように。
罰を受けて削られていく身体を、さらに削りながら。
それでも福留は続けた。
逃げ癖のある自分が嫌いだった。
でも、この小さな命からは――
逃げたくなかった。
福留は隊で習ったことを思い出した。
包帯の巻き方。
止血の仕方。
応急処置の基本。
本来は人間に施す技術だった。
だが福留は、震える子犬の足をそっと掴み、慎重に包帯を巻いてやった。
子犬は最初こそ怖がっていたが、福留の手が痛みを与えないことを理解すると、じっと耐えた。
毎日少しずつ世話を続けた。
餌を持っていく。
傷口を洗う。
包帯を替える。
そんな日々が積み重なり――
子犬の怪我は治っていった。
足取りは軽くなり、ついには走り回れるほどに回復した。
ダンボールの中で縮こまっていた姿はもうない。
福留が近づくと、子犬は勢いよく飛び出してくる。
しっぽをぶんぶん振りながら。
嬉しそうに鳴き、福留の足元にまとわりつく。
福留は思わず小さく笑った。
その瞬間だけは。
基地の中で居場所を失った少年にも、確かに居場所があった。
ある日。
訓練の合間、福留がいつものように姿を消していた時だった。
背後から荒い声が飛ぶ。
隊員「おい福留」
福留が振り向く。
隊員「お前最近、どこにいる?」
福留の喉が詰まる。
福留「……え、いや……」
隠そうとした。
何も言わなければいいと思った。
だが、その沈黙が癇に障った。
隊員の顔が歪む。
隊員「調子乗ってんじゃねぇぞ」
次の瞬間。
拳が飛んだ。
腹に、顔に、背中に。
福留は声も出せず、ただ耐えるしかなかった。
誰にも助けを呼べない。
呼んだところで、何も変わらないと知っていたから。
やがて隊員たちは吐き捨てるように去っていった。
静寂が戻る。
地面にうずくまる福留の背に、影が落ちた。
我乃差だった。
我乃差は福留の姿を見た瞬間、目を見開く。
我乃差「……なんだその傷は!」
福留は慌てて顔を背ける。
福留「自主練してたら……転んでしまいまして」
我乃差の眉が吊り上がる。
我乃差「怪我をしたなら早く報告をしろと、あれほど言ったろ!」
福留は小さく震えながら頭を下げる。
福留「すみません」
我乃差は息を吐き、声を落とした。
我乃差「お前の気合いは評価してる」
福留が僅かに顔を上げる。
我乃差「だが、それで死なないってわけにはならん」
我乃差の視線は厳しいままだが、その奥にあるのは叱責だけではなかった。
我乃差「気をつけろよ」
福留は返事をすることもできず、ただ小さく頷いた。
福留は段々と変わっていった。
逃げ癖は薄れていった。
あれほど縋っていたお菓子も、いつの間にか口にしなくなった。
甘いもので誤魔化すよりも。
この子犬の世話をする時間の方が、ずっと心を満たしたからだ。
子犬は、福留にとって唯一の救いだった。
誰にも必要とされない場所で。
自分を待ってくれる存在がいる。
それだけで、福留は少しずつ前を向けるようになっていた。
その日もいつも通りだった。
福留は草むらに隠した箱の前に座り、子犬の頭を撫でる。
子犬は嬉しそうに目を細め、しっぽを振った。
福留「……元気だな」
小さく笑う。
その瞬間だった。
背後で、足音。
ザッ。
福留の背筋が凍った。
ゆっくり振り向くと、そこに立っていたのは隊員だった。
隊員は福留ではなく――
その腕の中の子犬を見ていた。
隊員「……は?」
空気が止まる。
子犬が無邪気に鳴く。
その声が、決定的だった。
隊員の口元が歪む。
隊員「お前……何飼ってんだよ」
福留の顔から血の気が引いていく。
隠していたものが、ついにバレてしまった。
福留「いや、これは――」
言い終わる前だった。
拳が顎を貫いた。
鈍い衝撃。
視界が揺れ、福留の体が地面に叩きつけられる。
耳の奥で音が割れていた。
隊員は倒れた福留など見もしない。
その視線は、子犬に向いていた。
福留「……やめろ!!」
必死の叫び。
だが隊員は鼻で笑う。
隊員「これは違反だろ」
手が伸びる。
子犬の首根っこを乱暴に掴み上げた。
子犬は怯えた声を漏らし、足をばたつかせる。
福留は立ち上がろうとした。
だが背後から腕を掴まれる。
別の隊員が押さえつけていた。
福留「放せ!!放せよ!!」
隊員たちは嘲るように笑う。
隊員「必死だな」
その瞬間。
隊員が腰からサバイバルナイフを抜いた。
刃が月明かりを反射する。
福留の呼吸が止まった。
福留「やめろ……!」
隊員は迷いなく刃を子犬の首裏へ滑らせた。
赤い線が走る。
小さな体が震える。
次の瞬間、力が抜けた。
福留の目の前で。
たった一つの居場所が、壊された。
福留「……あ、ぁ……」
声が出なかった。
世界が真っ白になる。
何かが切れる音がした。
気づけば。
周りに立っていた隊員たちは、全員倒れていた。
呻き声だけが転がっている。
福留の拳は血で濡れていた。
自分が何をしたのか、理解する前に。
福留は立ち上がった。
隊の規律も。
未来も。
もうどうでもよかった。
福留はただ森へ走った。
逃げたのではない。
壊れた世界から、抜け出すために。
そしてその背中には。
もう二度と戻れない闇が張り付いていた。
福留の回想が途切れる。
重たい沈黙が基地の中に落ちた。
福留は俯いたまま、掠れた声で言う。
福留「俺が密かに飼っていた犬を……隊員の奴らに殺されたんだ」
拳が震えている。
福留「……あの狼男の傷、見覚えしか無かった」
その言葉に、我乃差の顔から血の気が引いた。
我乃差「そ、そんな話は……初めて聞いた」
福留は笑うでもなく、ただ淡々と返す。
福留「言えるわけないだろ。言った瞬間、俺が壊れる」
大熊が眉を寄せる。
大熊「犬が……妖怪化することもあるのか?」
白川が静かに頷く。
白川「ある。強い怨念とか、執着とかが残ればな、大抵は霊になる。でも、妖怪になる例もゼロじゃない」
空気が冷えていく。
輝が、ぽつりと口を開いた。
輝「……もう一つ、なる方法がある」
福留が顔を上げる。
福留「?」
輝の目が鋭くなる。
輝「外部から妖力を供給された場合だ」
大熊「供給……?」
輝「誰かが意図的に妖怪へ作り替えたってことだ」
福留の喉が鳴る。
輝「その場合、理性は残らない、人間を見境なく襲う。復讐とかじゃなく、ただ暴走する」
福留の顔が歪む。
福留「じゃあ……あいつは……」
白川が低く言った。
白川「怨念で生まれたのか、誰かに弄ばれたのか」
我乃差が拳を握り締める。
我乃差「……俺の部隊のせいで、そんなことに……」
輝が遮るように言う。
輝「今は後悔してる暇はない、狼男はまだ生きてる。そして、誰かが妖力を与えてるなら――」
全員が息を呑む。
輝「敵は、狼男だけじゃない」
大熊「って言っても、被害がある以上、なぁ?」
福留「分かってる……でも、」
輝「俺は狼男を助ける方向で動きたい」
その一言で空気が止まった。
白川が目を見開く。
白川「正気ですか!?狼男の目には福留さんも入ってないし、人を襲ってるんですよ!?」
大熊も声を荒げる。
大熊「そうや!鎮静化させる方法がないやないか!」
輝は答えず、ただ黙っていた。
その沈黙の中で、輝の胸元がわずかに熱を持つ。
服の内側、誰にも聞こえない声が囁いた。
パド『言霊で上書きすれば鎮静化できそうだけどね』
輝の瞳が僅かに揺れる。
輝
女郎蜘蛛も同じように、輝の内側にだけ響く声で笑う。
女郎蜘蛛『呪霊操術ね。霊以外にも効くのかしら』
パド『効くよ。妖怪も精神がある以上、縛れる』
輝は口元を引き結ぶ。
輝(でも、それを使えば――)
パドが続けて囁く。
パド『使っちゃえば、輝が呪霊操術を使ってるってバレる。禁術じゃん?』
輝の背筋に冷たいものが走った。
白川たちは輝の沈黙を「迷い」と捉えたのか、さらに詰める。
白川「輝さん……何か策があるんですか?」
大熊「助ける言うても、どうやってや!」
輝はゆっくり顔を上げる。
輝「……方法がないわけじゃない」
福留が息を呑む。
福留「輝……」
輝「一旦ひとりで考える」
そう言い残し、輝は基地の外へ出た。
夜風が肌を撫でる。森の匂いがまだ鼻に残っていた。
輝「パド、どうすればいい?」
胸の奥から、軽い調子の声が返る。
パド『簡単だよ。じんた助けた時みたいに“上書き”すればいいんだよ』
女郎蜘蛛『そのことを言ってるんじゃないでしょ?』
輝は小さく息を吐いた。
輝「うん……呪霊操術を使ってるのがバレたら、結構やばいかも」
パド『それは……』
言葉が途切れる。
女郎蜘蛛が静かに囁く。
女郎蜘蛛『あなた次第よ、輝、あなたが決めないと』
輝は拳を握った。
輝「……一か八か、やってみる狼男を助けたいからね、後のことは、その時考える」
パド『やむを得ないね』
覚悟が決まった瞬間、輝は踵を返した。
基地へ戻り、全員の前に立つ。
輝「もう一度森に入る」
白川が反射的に身構える。
白川「……本気なんですか」
輝は頷く。
輝「狼男のところへ行く、大熊と福留、足止めしてほしい」
大熊が目を細める。
大熊「足止めはええけど……どうやって止めるんや?」
輝は一瞬だけ黙った。
言えない。
禁術だと明かせば、仲間を巻き込む。
それでも。
輝は真っ直ぐに言った。
輝「それは、その時に見ればわかる」
福留の喉が鳴る。
福留「……頼む、輝」
輝は短く頷いた。
輝「行くぞ」
全員が基地の外へ出た瞬間だった。
休憩室の二階。
誰かの影があった。
月明かりに照らされ、隊員が腕を組んでこちらを見下ろしている。
我乃差「お前ら!消灯時間すぎてるだろ!」
鋭い声が森に響く。
だが隊員は怯まない。
隊員「こんな時に寝てられるか!全部聞いたぞ!」
その視線が福留に突き刺さる。
隊員「福留!てめぇが悪いんだってな!」
大熊の眉が跳ね上がった。
大熊「は?お前、何聞いてたんだよ」
白川がすぐに間へ入る。
白川「大熊さん、落ち着いてください」
しかし隊員は止まらない。
隊員「それと、そこのガキ」
指が動く。
輝を真っ直ぐ指さした。
隊員「さっき外出た時、何と喋ってた?」
空気が凍った。
輝の肩がびくりと跳ねる。
輝「……ひ、独り言です」
隊員は鼻で笑った。
隊員「変なやつだなお前」
隊員「早く退治してくれよ!雑種犬をよぉ!」
福留の顔が強張る。
拳が震えた。
我乃差の目が鋭く光る。
我乃差「……貴様」
だが輝が一歩前に出た。
輝「退治するかどうかは、俺たちが決めます」
隊員「は?」
輝の声は静かだった。
だが芯があった。
輝「もう、誰かの勝手で踏みにじられるのは終わりにする」
沈黙。
隊員の口元が歪む。
隊員「生意気言うなよ、学生が」
大熊が低く唸る。
大熊「……輝、行こう、時間の無駄だ」
白川も頷く。
白川「相手にする時間が惜しいです」
福留は隊員を見上げた。
福留「……あんたらが、全部壊したんだ」
隊員の顔が一瞬揺らぐ。
だがすぐに吐き捨てる。
隊員「知るかよ」
隊員「化け物になった犬なんか、さっさと殺せ」
大熊の中で、何かが切れた。
さっきから胸の奥で燻っていた苛立ちが、完全に爆ぜたのだ。
大熊が一歩、前へ出る。
先ほどまで制していた白川も、もう動かなかった。
止める理由が見つからない。
むしろ、同じ怒りが腹の底に沈んでいる。
誰も止めようとしない。
基地の空気が重く沈んだ。
隊員「お?」
隊員は二階から身を乗り出し、嘲るように口角を上げる。
隊員「なんだ?やるか?」
隊員「対人戦ならこっちに分があるんだぞ?」
その言葉に、大熊は返事をしなかった。
ただ、ゆっくりと階段へ足をかける。
ギシ、と鳴った。
一段。
また一段。
大熊の体が近づくたびに、隊員たちの顔から余裕が消えていく。
そして。
踊り場を越え、二階へ。
大熊は四人の隊員の前に立った。
圧が違う。
体格が違う。
何より、怒りの密度が違う。
隊員の喉が鳴った。
隊員「……で、デカ…」
思ったより、ではない。
想像を超えていた。
大熊は何も言わない。
ただ、見下ろしている。
まるで言葉など必要ないとでも言うように。
隊員たちは笑うこともできず、ただ固まっていた。
その沈黙が、一番怖かった。
大熊は、動いた。
一人の隊員の襟元を掴むでもなく、腕を取るでもなく。
頭を、鷲掴みにした。
指が髪に食い込み、逃げ場を奪う。
隊員「ひっ……!」
顔が無理やり引き寄せられる。
鼻先が触れそうな距離。
隊員の瞳孔が震えた。
大熊「素人は――黙っとれや」
低い声だった。
怒鳴り声ではない。
だからこそ、骨に響いた。
隊員の腰が抜けた。
膝が崩れ、その場にへたり込む。
大熊は手を離すと、まるで興味を失ったように踵を返す。
そして次の瞬間。
大熊は手すりに足をかけた。
隊員「え……?」
隊員「お、おい!」
誰かが止める間もない。
大熊の巨体が宙に躍った。
二階から。
そのまま。
ドンッ!!
床が揺れるほどの衝撃。
隊員「二階から!?」
信じられないという声が背後で上がる。
大熊は何事もなかったように立ち上がり、肩を回した。
大熊「ちょっとはスッキリしたわ」
その言葉だけ残して、振り返らない。
白川も、福留も、輝も、我乃差も。
誰も止めなかった。
止める必要がないと、全員が理解していた。
大熊はそのまま外へ向かう。
夜の冷たい空気が肌を刺す。
そして、森へ。
狼男を探すために。
闇の中へと足を踏み入れた。
森に入った瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂い。 木々のざわめき。 闇の奥に何かが潜んでいるような圧。
そんな中で。
白川と輝は、なぜか二人で手を繋いでいた。
大熊「……お前ら、できてんのか?」
一拍置いて。
白川&輝「違うわ!!」
声が綺麗に重なった。
即答だった。
福留が苦笑しながら肩をすくめる。
福留「怖いみたいだよ」
白川は顔を真っ赤にして目を逸らす。
輝も咳払いして誤魔化した。
大熊「情けないのぉ」
わざとらしく呆れた声を出す大熊。
その横で我乃差が静かに口を挟む。
我乃差「無理ないですよ。非戦闘員なんですから」
白川「……非戦闘員って言うな!」
輝「今はそれどころじゃないだろ……」
手は離れないまま。
森の闇が、じわじわと五人を包み込んでいく。
その時だった。
森の奥、遥か遠くから――
「ォォォォォ……」
長く、哀しげな遠吠えが響いた。
空気が震える。
木々がざわめき、鳥が一斉に飛び立つ音がした。
五人の身体が同時に硬直する。
大熊「……来たな」
輝は小さく息を呑み、手を強く握り直した。
福留は何も言わず、ただその方向を見据える。
誰かが合図するまでもなく、五人は駆け出した。
枝を踏み、草を裂き、闇を切り裂くように走る。
そして――
森を抜けた先。
開けた場所に出た瞬間、視界が広がった。
中央には大きな岩。
その上に、月光を浴びる影がひとつ。
満月を見上げる狼男の姿だった。
黒い毛並み。 鋭い牙。 そして首裏に残る傷。
サバイバルナイフで刻まれた古傷が、月明かりに浮かび上がっている。
福留の喉が震えた。
福留「……やっぱり」
一歩、また一歩。
福留が前に出る。
白川が止めようと手を伸ばしかけたが、言葉にならなかった。
福留の背中が、あまりにも真っ直ぐだったからだ。
福留「お前……」
狼男が低く唸る。
「グルルル……」
だが今は、暴走していない。
ただ獣の目で福留を見つめている。
福留は震える声で続けた。
福留「……あの時の子犬なのか?」
狼男の瞳が揺れた。
敵意だけではない。
何か――記憶の底から引きずり出されるような感情。
岩の上で、狼男は動かない。
ただ唸り声を漏らしながら、福留を見下ろしている。
福留の胸が締め付けられる。
あの夜。
小さな命を守れなかった自分。
その命が、今こうして妖怪となり――
目の前に立っている。
輝は一歩後ろで静かに構えた。
輝
助けるのか。 止めるのか。
月の下で、運命の選択が始まろうとしていた。
狼男がゆっくりと顔を上げた。
そして――
「ォォォォォォォォ――――!!」
夜空を裂くような遠吠え。
満月に向かって放たれた咆哮は、ただの威嚇ではなかった。
合図だった。
森が、ざわりと揺れる。
木々の影が動く。
次の瞬間だった。
バサッ、ガサッ、ドンッ――!
四方八方の闇の中から、赤い目が灯る。
一つ、二つではない。
無数。
狼男が、現れた。
岩の周囲を埋め尽くすように、獣の群れが姿を現す。
牙を剥き、唸り声を重ねながら、ゆっくりと円を描いて包囲していく。
大熊が乾いた笑いを漏らした。
大熊「……はっはぁ」
そして頭を掻く。
大熊「マジかぁ。これ足止めかぁ……」
福留は目を細めた。
福留「……1匹じゃないとは分かってたけど」
息を吐く。
福留「大分多いね」
白川は唇を噛み締め、静かに呟いた。
白川「……他の子達も、この森で亡くなった子達みたいですね」
その言葉が落ちた瞬間、空気が冷えた。
輝の背筋に嫌な感覚が走る。
妖怪じゃない。
これは――
執着と怨念で形を持った存在。
狼男たちは獣の姿をしているが、どこか人の影が滲んでいた。
我乃差が前に出る。
我乃差「……囲まれたな」
狼男たちが一斉に唸る。
「グルルルルル……」
大熊が拳を鳴らした。
大熊「しゃあない、輝!」
輝が顔を上げる。
大熊「お前がやる言うた方法、今しかないやろ!」
輝は小さく頷いた。
輝「……分かってる」
福留が狼男を見つめたまま言う。
福留「……頼む。せめて、あいつだけでも」
狼男の群れが、じりじりと距離を詰める。
月光の下、獣たちの影が重なり合う。
次の瞬間――
一匹が地面を蹴った。
戦闘が始まる。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
今回の狼男編は、ただの妖怪退治ではなく、 「過去の傷」と「贖罪」と「友達としてどう向き合うか」 そういう部分を強く描きたくて書きました。
福留の過去、我乃差の後悔、そして輝の選択。 全員がそれぞれの立場で苦しみながらも前に進こうとしている回です。
そして、森の奥から現れた“無数の狼男”。
ここから一気に試験の空気が変わっていきます。
次回、輝が禁術を使うのか。 狼男たちは本当に救えるのか。
次回54話ーー吉と出るか凶と出るか




