51話:別れの挨拶
人は、守るものを得た瞬間から弱くなると言う。
だが同時に、それは――何よりも強くなる理由でもある。
血と裏切り、信頼と叫び。
積み上げてきたものが崩れ落ち、それでもなお立ち上がろうとする背中が、今ここにある。
過去の因縁は終わっていない。
涙も、後悔も、まだ地面に落ちきってはいない。
これは決着ではない。
これは別れでもない。
ただ、運命が次の頁をめくろうとする、その瞬間の物語である。
大熊の拳が振るわれるたび、空気が鈍く震えた。
ただ殴っているのではない。体重、覚悟、これまで背負ってきたすべてを一点に集約し、逃げ場のない角度で叩き込んでいる。
拳が鹿戸の頬に沈んだ瞬間、肉が歪み、骨が悲鳴を上げた。
鹿戸の身体が横に吹き飛び、床を転がる。
だが大熊は歩みを止めない。倒れた相手に距離を与えるほど、甘くはなかった。
追いつき、起き上がろうとする鹿戸の腹部へ、容赦なく一撃。
鈍い音が響き、鹿戸の口から空気が強制的に吐き出される。
鹿戸は声を上げようとする。
だが、喉が震えるだけで音にならない。
肺が、内臓が、理解するより先に壊されていく。
大熊の拳は正確だった。
無駄な動きは一切なく、確実に急所を打ち抜いていく。
顎、こめかみ、肋骨。
一撃ごとに、鹿戸の身体から力が抜けていくのが、誰の目にも明らかだった。
鹿戸の視界が揺れる。
世界が滲み、立っているのか倒れているのかすら分からなくなる。
だが、それでも次の衝撃は必ず来る。
逃げ場はない。
時間も、猶予も、与えられない。
大熊は怒鳴らない。
罵倒もしない。
ただ黙って、拳を振るい続ける。
それが何よりも恐ろしかった。
鹿戸の膝が崩れ落ちる。
支えようとした腕に、追撃の拳が叩き込まれ、完全に地面へと沈んだ。
顔を上げようとするが、首が言うことを聞かない。
意識はある。
だが、身体が壊れていく感覚だけが、はっきりと分かる。
最後に視界に映ったのは、大熊の拳だった。
影のように落ちてきて、鹿戸の世界を完全に打ち砕く。
音は、そこで途切れた。
鹿戸は声も出せず、ただ地面に伏したまま、動かなくなっていた。
大熊は拳を下ろし、静かに息を吐く。
その背中は、圧倒的だった。
鹿戸は震えながら、地面を見つめていた。
指先が小刻みに跳ね、血と埃にまみれた床を掻く。
大熊「もう終わりにしようや」
低く、静かな声だった。
怒りも憎しみも乗せていない、決着を告げる言葉。
だが――その光景を、大熊は見ていない。
鹿戸の口元が、ゆっくりと歪む。
人の顎の可動域を無視したかのように、裂ける勢いで笑みが広がっていく。
歯が覗き、頬が引き攣り、眼球だけが異様に冷静だった。
鹿戸「……おい」
その声は、掠れていながらも、確かな愉悦を孕んでいた。
鹿戸「起きてこいやぁ」
その瞬間だった。
倒れていたはずの鹿戸組の組員たちが、軋む音を立てて動き出す。
折れたはずの腕を引きずり、血を流しながら、ゆっくりと――確実に、立ち上がっていく。
纏「な、なにこいつら……!」
声が震える。
あり得ない光景だった。
気絶ではない。致命傷を負っていたはずだ。
それでも、彼らは“起きてくる”。
真鴉「……やっぱりな」
歯噛みするように呟き、真鴉は拳を握る。
真鴉「死んでも起き上がってくる……まるでゾンビだな……」
その言葉が、大熊の耳に届いた瞬間。
脳裏に、ひとつの情報が焼き付く。
大熊「……ゾンビ……外冠死業……」
無意識に、言葉が零れた。
過去に聞いた、忌まわしい分類。
死を超えて動く“業”の名。
輝「え?」
驚いたように、大熊を見る。
輝「それって……百目鬼校長が言ってた、“漸義”ってやつのことか?」
大熊は答えない。
ただ、ゆっくりと拳を握り直す。
目の前で、常識が壊れていく音がしていた。
鹿戸は笑っている。
地獄の底を見せつけるような、歪んだ笑みを浮かべたまま。
鹿戸「まだや……」
その声は、確かに“人間”のものではなかった。
承知いたしました、先生。
台詞の迫力を立て、狂気を強調して整えます。
---
鹿戸「――漸義様に貰ったんや……」
鹿戸はゆっくりと顔を上げる。
裂けた口元から零れる唾と血を気にも留めず、瞳だけが異様な光を帯びていた。
鹿戸「大熊を殺す機会ィィ……」
喉を鳴らし、笑いを噛み殺すように肩を震わせる。
鹿戸「逃すわけ、ないやろォォ!!」
叫びと同時に、背後の“起き上がった者たち”が一斉に唸り声を上げる。
理性のない獣のような低音が、夜の空気を震わせた。
真鴉「……完全にイカれてやがる」
纏「これ、もう人間じゃない……!」
大熊は鹿戸を真正面から見据え、ゆっくりと息を吐く。
恐怖はない。
ただ、確信だけが胸に落ちていた。
大熊「なるほどな……」
拳に力が籠もる。
橙色の炎が、今まで以上に濃く、重く燃え上がった。
大熊「お前はもう、“鹿戸飛雄”やない」
一歩、踏み出す。
大熊「――俺が、ここで終わらせたる」
鹿戸は歓喜に歪んだ声で笑った。
鹿戸「来いやァァァ!!」
夜が、再び――地獄へと傾いた...と思われた
その瞬間だった。
夜の喧騒を切り裂くように、低く落ち着いた声が響く。
???「おい……この騒ぎ。まさかと思えば……」
その声だけで、敵も味方も動きを止める。
空気が、一段冷えた。
真鴉と纏は、反射的に背筋を伸ばし――次の瞬間。
真鴉「……」
纏「……」
二人は揃って正座した。
さっきまでの修羅場が嘘のように、完全な“反省モード”である。
???「市民巻き込んで、どんちゃん騒ぎか」
呆れた溜め息。
???「……この後の後始末、誰がやると思ってんだよ」
その言葉が終わるより早く――
轟音。
空が裂けたかのような雷光が走った。
――バァンッ!!
白紫の一閃が地面を薙ぎ、
鹿戸組員の半数以上が、悲鳴を上げる暇もなく吹き飛ばされ、倒れ伏す。
一瞬。
音だけが遅れて、街に落ちた。
雷は、ある男の前でぴたりと止まる。
長身。
無造作な立ち姿。
だが、そこに立っているだけで“格”が違う。
輝が、思わず目を輝かせた。
輝「……雷牙さん!!」
雷牙はちらりと輝を見る。
雷牙「お前、また無茶してんな」
大熊は口角をわずかに上げ、鼻で笑った。
大熊「……遅いわ」
雷牙は肩をすくめる。
雷牙「俺たちも忙しいんだよ!」
大熊は、はっきりと言った。
大熊「……天城先生、すんません」
その名に、鹿戸の表情が歪む。
理解が、追いついていない。
鹿戸「……は?」
天城は鹿戸を一瞥し、淡々と告げる。
天城「状況は把握した」
雷が、再び男の周囲で静かに鳴る。
天城「――ここから先は、教師である私が受け持ちます」
その一言で、
夜の主導権は完全に入れ替わった。
天城と雷牙がそれぞれ散開し、鹿戸組員を次々と“いなす”ように無力化していく。
拳は最低限、動きは無駄がない。
殴り倒すというより、戦闘不能に置いていく――そんな動きだった。
その最中。
天城の視線が、鹿戸の背後に立つ巨体へと一瞬だけ向く。
天城「……そこのデカブツ」
低く、短く。
天城「舌、抜いとけ」
大熊「……え?」
思わず聞き返す大熊。
鹿戸が、わずかに肩を強張らせた。
天城は視線を外さず、淡々と続ける。
天城「こいつが『起きろ』って合図出した瞬間に、事前に契約してた人間が――半不死身状態になる」
一拍。
天城「……そんな感じだろ。概ね」
鹿戸の目が、はっきりと見開かれた。
否定の言葉が出ない。それが答えだった。
天城は小さく鼻で笑う。
天城「図星だな」
そして、さらに言葉を重ねる。
天城「そのデカブツの舌に、霊力が集中してた」
天城「霊力解放――三段階目の能力だろ」
鹿戸「……ッ」
天城「しかも」
天城の指が、静かに一点を示す。
――藤荊棘。
天城「そこの男」
指先が止まる。
天城「霊力も、妖力も感じない」
場の空気が、さらに冷える。
天城「……もう死んでるんだろう」
沈黙。
それは推測ではなく、断定だった。
鹿戸の口元が歪む。
だが、もう誤魔化しは利かない。
大熊は、ゆっくりと拳を握り直した。
大熊「……なるほどな」
大熊「だから、何回倒しても起き上がってきよったんか」
天城「そういうことだ」
天城は鹿戸を真っ直ぐに見据える。
天城「――随分と、汚い手を覚えたな」
雷牙の雷が、再び低く唸り始める。
この場で、“種”はすべて割れた。
あとは――刈り取るだけだった。
大熊は一歩踏み出し、鹿戸の顔を片手で鷲掴みにした。
指が顎に食い込み、骨が軋む。
鹿戸「――っ!」
逃れようと暴れるが、力の差は歴然だった。
大熊はそのまま、無理やり口をこじ開ける。
鹿戸は理解していた。
――舌を抜かれれば、終わりだ。
能力の核を失うだけではない。確実に死に至る。
鹿戸「ひゃ……ひゃめて……!」
涙と唾液が混じり、言葉にならない声が漏れる。
鹿戸「おへがひだ……っ!!」
(やめて……お願いだ……)
かつての威圧も、狂気の笑みも、そこにはなかった。
あるのはただ、生に縋るだけの醜い命乞い。
だが――
それを見ても、大熊の胸は一切揺れなかった。
哀れとも思わない。
憎しみすら、もう残っていない。
大熊の瞳にあるのは、
終わらせる者の覚悟だけだった。
背後で、嗚咽が聞こえる。
振り返らずとも分かる。
――柊だ。
大熊は鹿戸の口を掴んだまま、低く言った。
大熊「……柊」
一瞬、言葉を切り。
大熊「目、つぶっとけ」
その声は怒りでも威圧でもない。
ただ、決定事項を告げる声だった。
天城が鹿戸の脈に指を当て、わずかに目を伏せた。
天城「……終わりだ」
その瞬間だった。
まるで糸が切れたように――
周囲の鹿戸組員たちが、次々と崩れ落ちる。
立っていた者も、呻いていた者も、
一斉に力を失い、地面に叩きつけられる。
息はない。
もう、二度と起き上がらない。
異様な静寂が、現場を覆った。
大熊は呆然とその光景を見回し、低く呟いた。
大熊「……この数、操ってたんか」
天城は表情一つ変えず、淡々と答える。
天城「同情する価値もない」
――その時。
遠くから、はっきりと聞こえてくる。
パトカーのサイレン。
徐々に近づき、現実が戻ってくる音。
大熊は肩をすくめ、乾いた笑みを浮かべた。
大熊「……また、入るかぁ」
自分の運命を、冗談のように受け入れる声。
だが。
その袖を、誰かが掴んだ。
柊だ。
震える手で、それでもはっきりと大熊を止める。
柊「……若頭」
一度、息を吸い。
柊「罪……償いではないですが」
震えながらも、目を逸らさず続ける。
柊「今度は……俺が、行きます」
その言葉に、大熊は目を見開いた。
大熊「……いや、ええ。俺が――」
そう言いかけて、言葉が止まる。
柊の顔を、真正面から見たからだ。
そこにあったのは、恐怖でも自己犠牲の酔いでもない。
自分で選んだ覚悟の顔だった。
逃げない。
誤魔化さない。
誰かに押し付けない。
――それは、かつて自分が持っていた顔と、同じだった。
大熊は、何も言えなくなる。
数秒の沈黙。
やがて、大熊はゆっくりと息を吐いた。
そして、柊の肩から手を離す。
大熊「……」
何も言わず、ただ一度だけ、頷いた。
サイレンの音が、すぐそこまで来ていた。
柊は、ほんの一瞬だけ視線を伏せたあと、意を決したように大熊を見る。
柊「……俺が出てきたら……」
喉が鳴る。
柊「また、若頭って……呼んでも、ええですか?」
その問いは、許しを乞うものではなかった。
帰る場所を、確認するための言葉だった。
大熊は、しばらく黙ったまま夜空を見上げる。
そして、静かに口を開いた。
大熊「……親父が死んで、組長が居らん今」
一度、言葉を切る。
大熊「肩書き上では、俺が組長になる」
柊の目が揺れる。
大熊は、真っ直ぐに柊を見据えた。
大熊「次、お前が戻ってくる時はな」
低く、だが確かな声で告げる。
大熊「お前が、若頭や」
その一言で、柊の堪えていたものが決壊した。
泣きそうなのに、
それでも口元は、はっきりと笑っている。
学生時代と同じ、少し不器用な笑顔。
柊「……はい!」
力いっぱい、短く。
背筋を伸ばし、踵を返す。
もう振り返らない。
自分で選んだ道だからだ。
柊は、そのまま到着した警察の方へと、自らの足で歩いていった。
誰にも押されず、誰にも縋らず。
その背中を見送りながら、天城が小さく息を吐く。
天城「……行ったか」
淡々と続ける。
天城「言葉に甘えよう。面倒になる前にずらかるぞ」
振り返り、全員に向けて。
天城「――帰るぞ」
夜は、まだ終わっていなかった。
だが、それぞれの覚悟だけは、確かに決まっていた。
大熊組の事務所に戻ると、室内にはすでに人影があった。
詰めた空気の中で待機している。
その視線が、一斉に入口へ向いた。
血と埃にまみれながらも、自分の足で歩いている輝の姿を確認した瞬間、
場の空気がわずかに緩む。
安堵の吐息が、あちこちから零れた。
福留「……輝くん、無事で何よりです」
そして、ふと周囲を見回し、表情を曇らせる。
福留「……柊さんは?」
その問いに、大熊は一瞬だけ目を伏せた。
大熊が答えるより先に、天城が静かに口を開く。
まるで事実を整理するような、淡々とした声で。
天城「……事情は大熊から聞いた。全部な」
事務所の奥が、静まり返る。
天城は大熊を見る。
天城「大熊。お前……組長になるつもりか?」
その問いは、確認だった。
責めでも誘導でもない。
大熊は少しだけ笑い、首を振る。
大熊「せやな……いずれはなる」
一拍置いて、続ける。
大熊「やけど、今はならん」
そう言って、視線を横に向ける。
そこには、まだ傷の残る体で立つ輝がいた。
大熊「俺が……守らなあかん奴が出来たからな」
その言葉に、輝が一瞬目を見開く。
真鴉と纏は、何も言わない。
ただ、深く、何度も頷いていた。
それは同意であり、理解であり、
この男が選んだ道を受け入れた証だった。
事務所の空気が、ひと段落したその時だった。
白川が、ためらいがちに一歩前へ出る。
視線は大熊ではなく、床に落ちていた。
白川「……あの……」
小さく息を吸い、意を決したように顔を上げる。
白川「なぜ……柊さんは、裏切ったんですか?」
その言葉に、空気が再び張りつめた。
誰もが答えを持っていない問い。
あるいは、聞いてはいけない問い。
だが――
その沈黙を破ったのは、崎原だった。
崎原は、白川の方を見ない。
遠くを見るように、静かに口を開いた。
崎原「……裏切ったんやない」
白川が驚いたように顔を上げる。
崎原「柊は……ずっと、挟まれてただけや」
淡々と、しかし一言一言を噛みしめるように続ける。
崎原「たまに言ってたんやあいつ、若頭が居なくなったのは俺のせいかもとか」
拳を、ぎゅっと握りしめる。
崎原「鹿戸に拾われた恩もあった。
弱い頃の自分を、引き上げてくれた過去もあった」
崎原「……若頭と鹿戸どっちかを選べ言われて、
心が追いつかんかっただけや」
白川「……」
崎原は、初めて白川を見る。
崎原「最後の最後まで、柊は止めようとしてた」
崎原「若頭を刺す直前も、
あいつ……泣いとった」
その言葉に、誰かが小さく息を呑む。
崎原「裏切り者や言うのは簡単や」
崎原「……あれは、弱いまま迷ってた男の末路だ」
崎原は、深く頭を下げた。
崎原「……俺は、そう思っとる」
天城が、ゆっくりと立ち上がった。
天城「……さぁ、帰るぞ」
その一言で、張りつめていた空気がほどける。
誰も反論せず、静かに頷いた。
大熊は、事務所の出口へ向かう途中でふと足を止める。
何かに引かれるように、後ろを振り返った。
そこには――
大熊組の組員たちが、ずらりと並び、深々と頭を下げていた。
言葉はない。
だが、その背中がすべてを語っていた。
大熊は、一瞬だけ目を伏せ、何も言わずに向き直る。
その時。
崎原「若頭!」
一拍、言い直すように息を吸い――
崎原「……いや……組長!」
声が、少し震えていた。
崎原「柊が帰ってきたら……一杯やりましょうや」
崎原「ゆっくり……三人で!!」
必死に明るく振る舞おうとする声だった。
大熊は、その言葉を聞いて――
ほんの一瞬だけ、肩の力を抜いた。
大熊「……あぁ」
そして、ふっと笑う。
大熊「必ずな」
それだけ言って、背を向けた。
もう、振り返らない。
天城を先頭に、一行は夜の街へと歩き出す。
それぞれが、それぞれの想いを胸に抱いたまま。
承知しました、先生。
輝の一人称語りとして整理し、区切りも明確にします。
---
――あの後の話を、少しだけ。
崎原さんから大熊宛に来た連絡で、だいたいの顛末は知った。
大熊組と鹿戸組の構成員の大半は投獄。
鹿戸組は完全に解体されて、名前だけが過去になったらしい。
柊さんは……主犯格として、一番重い刑を受けたそうだ。
面会に行った崎原さんから聞いた話では、
柊さんは後悔している様子はなかったみたい。
柊「組長に、よろしく伝えてください」
そう言って、笑ってたらしい。
大熊は今でも、たまに休暇を取って面会に行っている。
何を話しているのかは、俺たちには教えてくれないけど――
たぶん、それでいいんだと思う。
あの大騒動から、二週間。
街の空気は少しずつ落ち着いてきて、
不穏だったざわつきも、嘘みたいに薄れていた。
そして――
次に動き出したのは、俺たちの日常だった。
教卓に立つ天城先生が、黒板にチョークを置く。
天城「お前らに、一つ伝えることがある」
教室が、しんと静まる。
天城「今から一週間後――試験がある」
その瞬間。
教室のあちこちから、
小さな悲鳴と、ため息が一斉に漏れた。
天城の言葉に、教室中から一斉にブーイングが上がった。
輝「ええ〜、試験? 嫌ですよ、そんなの!」
大熊「なんや? 戦闘試験か?」
天城「授業をきちんと聞いていれば分かるはずですが、筆記試験と戦闘試験の二つです」
真鴉「ひ、筆記!? 終わったぁぁぁぁ!!」
白川は、状況を聞いた瞬間に目を輝かせていた。
ようやく自分の土俵が来た――そんな空気を隠そうともしていない。
一方、水瀬と神宮寺は何も言わず、すでに昨日の授業内容を思い返すように静かに復習を始めていた。
福留「戦闘試験ならまだしも……筆記はきついですねぇ」
輝「俺、どっちも無理だって……」
真鴉「戦闘試験なら、まだ何とかなるんだけどな」
輝「だから俺は、どっちも無理なんだって」
大熊「で、どっちからやるんや? 戦闘試験が先の方がええな!」
輝「先でも後でも、俺が無理なのは変わらないからな……」
天城「戦闘試験は後だ。先に筆記をやる。これからの授業は復習多めにしてやる」
その言葉を聞いた瞬間、教室の空気がざわつく中――
輝は静かに妖力を巡らせ、鼻元に眼鏡を作り出した。
さきほどまでの絶望はどこへやら。
背筋を伸ばし、まるで別人のような落ち着いた表情で口を開く。
輝「早く授業を始めましょう。時間が勿体ないですよ」
あまりにも“できる生徒”然とした態度に、周囲が一瞬言葉を失う。
大熊「……分かりやすいな、輝!」
その一言で、教室に笑いが戻った。
だが同時に、これから始まる試験週間の重さも、確かに全員の胸に落ちていた。
授業が始まってしばらくすると、先程までの輝の勢いはすっかり影を潜めていた。
机に向かう身体は前のめりになり、首が小刻みに波打っている。必死に起きていようとしているが、意識はところどころ飛んでいるようだった。
一方で真鴉は、椅子に深く腰掛け、頭の後ろで両手を組んだまま天井を眺めている。
欠伸こそ噛み殺しているものの、退屈そうな態度は隠しきれていない。
大熊はというと、額をかきながらノートに必死で文字を書き連ねていた。
板書を見ては書き、書いてはまた板書を見る。その横顔からは、戦闘中とは別の意味での必死さが滲み出ている。
そして白川だけは、最初から最後まで変わらなかった。
背筋を正し、ノートを取りながら、終始穏やかな笑顔。
まるでこの時間を待ち望んでいたかのように、授業そのものを楽しんでいるようだった。
放課後。
輝の表情は、これまで数々の戦闘を潜り抜けてきた時よりも、よほど険しくなっていた。眉間には深い皺が寄り、視線は虚空を彷徨っている。
白川がそっと声をかける。
白川「大丈夫?」
輝は返事をする気力もないのか、曖昧に視線を揺らすだけだった。
その背中を、大熊が力強く叩く。
大熊「そんな心配しなさんな! 赤点取ったとこで、退学になる訳でもないみたいやし!」
その豪快な声とは対照的に、輝の顔色は晴れない。
その様子を、少し離れた場所からひっそりと見つめている影があった。
百目鬼校長である。
百目鬼「あんな傷心してる輝君を見るのは嫌だっ! 天城! 今からでも撤廃しよう! 試験!」
突然の叫びに、周囲の空気が一瞬固まる。
天城は振り返り、深いため息を一つ吐いた。
天城「……校長、仕事を増やさないでください」
そう言い残し、天城はそのまま校舎の中へと歩いていく。
百目鬼校長は慌てて後を追い、両手を伸ばした。
百目鬼「待って! 天城! 天城ぉぉぉぉ!!!」
夕暮れの校舎に、必死な叫び声だけが虚しく響き渡っていた。
寮に戻ると、食堂にはいつもの光景が広がっていた。
福留は机に向かい、山盛りの晩御飯を前に無心で箸を動かしている。
福留「……んぐ、やっぱ疲れた後の飯は正義やな」
その横――とはいえ距離を少し取った机では、まるで別世界が展開されていた。
真鴉、輝、大熊、そして纏。
四人はノートや教科書を広げ、即席の勉強会を開いている。
中心にいるのは纏だった。
纏「だからここは、“妖力の流れ”じゃなくて“霊力の定着”を前提に考えるの」
纏はそう言いながら、図を描くようにペンを走らせる。
真鴉は椅子に浅く腰掛け、頭を抱えて唸った。
真鴉「待て待て……それ昨日も聞いたけど、まだ意味が分からん」
輝は真剣そのものの表情でノートを覗き込み、必死に書き写している。
輝「……ここで分岐するのか……」
大熊はというと、腕を組み、眉間に皺を寄せながら黙って頷いていた。
大熊「ほぉ……なるほど……なるほど……」
纏は三人の顔を見渡し、小さくため息をつく。
纏「……分かったふり、やめよう?」
大熊「バレたか」
真鴉「最初から分かってへん」
輝だけは食らいつくように顔を上げた。
輝「もう一回……最初からお願いします」
その真剣さに、纏は一瞬目を瞬かせ、すぐに柔らかく微笑む。
纏「うん。じゃあ基礎からいこう」
その様子を横目で見ながら、福留は飯をかき込みつつ呟く。
福留「……あっちは戦場より修羅場やな」
白川が、机の横からすっと顔を出した。
白川「輝くん、ここですね。霊力じゃなくて、妖力が武具の具現化に変換されている...ですよ 霊力は身体の強化です」
輝は一瞬きょとんとし、ノートと教科書を見比べる。
輝「……あ」
纏が静かに頷く。
纏「白川の言う通り。そこ取り違えると、後ろ全部ズレる」
大熊が腕を組んだまま、わざとらしく声を上げる。
大熊「おい輝! そんなことも分かってなかったんかいな!」
輝「うっ……」
真鴉は椅子にもたれ、苦笑いを浮かべる。
真鴉「こりゃ俺たちより、輝の方が心配だな」
大熊と真鴉――霊力解放を自在に扱える二人が、ほぼ同時にため息をついた。
大熊「……戦闘中なら頼りになるんやけどなぁ」
輝は悔しそうに唇を噛みしめ、ノートを握り直す。
輝「……もう一回、ちゃんとやる」
白川は眼鏡を押し上げ、穏やかに微笑んだ。
白川「大丈夫ですよ。分からないところが分かるのは、前に進んでる証拠ですから」
その言葉に、輝は小さく頷いた。
寮が寝静まった深夜。
輝は目を閉じても眠れず、静かにベッドから降りた。
輝(……眠れねぇな)
ふと、天井を見上げながら思う。
輝(そういえば……最近、真鴉の苦しそうな寝言、聞かなくなったな)
以前は、うなされる声が聞こえて起こされることもあった
それが当たり前のように消えていることに、今さら気づく。
輝は小さく首を振り、枕元に置いていたノートと教科書を手に取った。
輝(考えても仕方ないか……)
忍び足で部屋を出て、人気のない廊下を進む。
向かう先は、寮の食堂だった。
食堂の手前で輝が足を止める。
――電気が、ついている。
輝(……誰か、起きてる?)
静まり返ったはずの時間帯。
その明かりが、妙に現実感を伴って輝の目に映っていた。
食堂の奥、ひとつだけ点いた照明の下。
白川が一人、ノートを広げて何かを書き込んでいた。
輝「……白川?」
その声に、白川の肩がびくりと跳ねる。
白川「わっ……! ……なんだ、輝くんか。驚かせないでよ」
胸を撫で下ろし、少し力の抜けた笑顔を向ける。
白川「そのノート……勉強しに来たの?」
輝「うん。寝れなくてさ」
輝がそう言うと、白川は少しだけ目を細めた。
白川「そっか。実は僕もなんだ。頭使いすぎると、逆に眠れなくてさ」
机の上には、びっしりと文字と図で埋まったノート。
霊力と妖力の違い、式の構造、授業内容の整理――几帳面な字が並んでいる。
輝「……すげぇな。もうここまでやってんの?」
白川「得意分野だからね。試験って聞いた瞬間、ちょっと楽しくなっちゃって」
そう言って照れたように笑う白川を見て、輝は小さく息を吐いた。
輝「正直さ……俺、置いてかれてる気しかしなくて」
白川はペンを置き、真っ直ぐ輝を見る。
白川「大丈夫。輝くんには、輝くんにしか出来ないことがあるよ。
筆記は僕が手伝う。だから一人で抱え込まないで」
輝は一瞬驚いたあと、照れ隠しのように視線を逸らした。
輝「……ありがと。じゃあ、少し一緒にやろうぜ」
白川「うん。夜更かしはほどほどにね」
静かな食堂に、紙をめくる音とペンの走る音が、ゆっくりと重なっていった。
白川はノートから視線を外し、ぽつりと続けた。
白川「……正直、羨ましいんだ」
輝「え?」
白川「輝くんはさ、前に出て戦えなくても、皆の中心にいる。
真鴉も大熊も、無意識に輝くんを軸に動いてる」
輝は少し考え込み、首を傾げる。
輝「でも俺、何もしてないぞ?」
白川「それが出来てるんだよ」
白川は小さく笑った。
白川「輝くんがいると、場の空気が変わる。
誰かが折れそうな時に、自然と声をかけて、繋ぎ止めてる」
輝「……そんなこと、考えたこともなかった」
白川「僕は頭で考えることしか出来ない。
だから留守番も合理的だし、間違ってないって分かってる」
一瞬、白川の指がノートの端を強く押さえる。
白川「でもさ……やっぱり、前に立って名前を呼ばれるの、羨ましいよ」
輝は黙ったまま、白川の横に並ぶように椅子を引いた。
輝「白川」
白川「なに?」
輝「俺さ、白川がいなかったら、今日の授業の内容、半分も分かってない」
白川が目を瞬かせる。
輝「郷里島の時も抗争の時も、留守番じゃなくて“後ろ守ってた”んだろ?
俺は、そう思ってる」
白川「……」
輝「頼られてないんじゃない。
頼られ方が違うだけだろ」
白川はしばらく黙り込み、やがて困ったように笑った。
白川「……ずるいな、輝くん。
そういうこと、真顔で言うんだから」
輝「本当のことだし」
二人の間に、さっきまでより少しだけ柔らかい空気が流れる。
白川「……じゃあさ」
輝「ん?」
白川「筆記試験、僕が全力で支える。
その代わり、戦闘試験の時は、輝くんが前に立ってよ」
輝は一瞬きょとんとし、すぐに笑った。
輝「役割分担ってやつだな。任せとけ」
朝の校門前。
登校する生徒の流れの中で、輝と白川は自然と肩を並べて歩いていた。
輝「昨日のとこだけどさ、霊力循環の式、後半どう繋がるんだっけ」
白川「そこは一次展開しないで、そのまま属性係数に当てはめるんだよ。ほら、この部分」
白川はノートを開き、歩きながらも迷いなく指で示す。
輝「あー……なるほど。そりゃ分からんわ」
白川「戦闘理論と違って、筆記は素直だからね」
二人の会話は途切れず、完全に“勉強仲間”の空気だった。
その少し後ろ。
真鴉、纏、大熊の三人が横一列で歩きながら、その様子を不思議そうに眺めている。
真鴉「……なぁ」
纏「うん」
大熊「……なんや?」
真鴉「なんであいつら、朝からあんな真面目なん?」
纏「昨日まで試験って言葉聞くだけで死んだ目してたのに」
大熊「しかも肩並べてやぞ。仲良すぎやろ」
前を行く輝が、白川の言葉に大きく頷く。
輝「よし、今日の授業ついていけそうだわ」
白川「その調子。赤点回避はいける」
その背中を見ながら、三人は顔を見合わせる。
真鴉「……置いてかれてねぇよな、俺ら」
纏「たぶん」
大熊「筆記、ちゃんとやらなあかん気してきたわ……」
朝の空気の中、少しだけ静かで、少しだけ可笑しい変化が、確かに始まっていた。
授業中、輝は昨日までの様子が嘘のように、背筋を伸ばしてノートに要点をまとめていた。
黒板とノートを交互に見比べ、書く手は一切止まらない。
休み時間になると、当然のように白川の机を引き寄せ、二人で顔を突き合わせる。
白川「さっきの式、ここの前提条件が抜けてた」
輝「ほんとだ、だから結果ズレてたのか」
その光景を横目に、大熊と真鴉は言葉もなく固まっていた。
大熊「……なんや、置いてかれてへんか俺ら」
真鴉「いや、完全に置いてかれてるだろ」
二人の胸に、今まで感じたことのない焦燥感がじわじわと広がる。
放課後。
輝と白川は寮へは戻らず、そのまま教室に残っていた。まるで授業の続きをしているかのように、机の上にはノートと教科書が広がっている。
輝「妖力増やすのって、どうするんだっけ」
白川「妖怪の糞だね」
輝「さんきゅ!思い出した!」
何の躊躇もなく言い切る白川と、即座に納得する輝。
教室には、異様なほど真面目な空気だけが残っていた。
教室の後方、半開きになった扉の隙間から百目鬼校長がじっと中を覗いていた。
輝と白川が並んでノートを広げ、真剣に言葉を交わしている様子を見て、校長の顔がみるみる緩む。
百目鬼「見てください天城! 輝君が白川さんと打ち解けてますよ!」
天城「……校長、あまりはしゃがないでください。子供みたいですよ」
百目鬼校長は名残惜しそうにもう一度教室を振り返ると、天城に袖を引かれるようにしてその場を離れた。
二人はそのまま職員室へと戻っていく。
職員室の扉を開けた瞬間、室内にやや荒っぽい声が響いた。
???「天城! 俺の“二年担任”って肩書き、勝手に盗みやがってよぉ!」
天城「盗んだつもりはない。お前は教師というより、任務に出ている時間の方が長いだろ」
そう言って視線を向ける先に立っていたのは、任務帰りらしく手土産を肩に掛けた男だった。
???「それでもだ! 俺が育てた雷牙と翠馬と猿渡を、お前に預けるのは不本意極まりねぇ!」
百目鬼「その前に雷牙さんと翠馬さんと猿渡さんの三人は、任務明け次第すぐ二年の授業に合流してもらいますからね。準備、進めておいてくださいよ天城。――厓山」
厓山 譌。
元二年教員にして、現在は明確な立場を持たない男。形式上は天城の先輩にあたるが、実権も信頼もすべて天城に持っていかれている。
厓山「ちぇ……相変わらず容赦ねぇな」
悔しさが滲まないわけではない。
それでも厓山は、天城の力量を誰よりも理解していた。だからこそ劣等感に飲み込まれることはなく、ただ肩をすくめて笑う。
厓山「ま、任せた以上は文句は言わねぇよ。あいつらがどう育つか、楽しみにしてる」
天城「期待には応えるさ」
短く交わされた言葉の裏で、新たな波が静かに学園へ流れ込もうとしていた。
夜の校舎を飛び出し、二人は並んで寮へ向かって走り出した。
人気のない通路に、足音だけが軽く響く。
白川「……いけませんね、少し熱中しすぎました」
輝「ほんとだよ……」
輝は走りながら携帯を取り出し、画面を確認した瞬間、目を見開いた。
輝「――もう十二時! 明日も朝早いのに!」
白川「気づいたら時間が飛んでましたね。問題を解いてると、どうしても……」
輝「白川が分かりやすすぎるんだよ。説明聞いてたら止まらなくてさ」
白川は少し照れたように、しかしどこか嬉しそうに笑う。
白川「そう言ってもらえると、教えた甲斐があります」
輝「……でも、これで寝不足確定だ」
白川「ふふ。では、走って少しでも早く寝ましょう」
輝「原因作った本人が言う?」
そんな軽口を叩き合いながら、二人は夜風を切って寮の灯りへと駆けていった。
輝が目を覚ますと、いつも朝 食堂にいる白川の姿がなかった。
輝「……白川は?」
水瀬「朝起きてすぐ制服着て、さっと出ていったよ」
その一言で、輝は察した。
――教室だ。
輝は身支度を整えると、いつもより早めに寮を出た。
教室の扉を開けると、予想通りの光景がそこにあった。
机に向かい、ノートを広げ、黙々とペンを走らせる白川。
輝「おはよ! 白川!」
その声に、白川は少し驚いたように顔を上げ、すぐに穏やかな表情になる。
白川「おはよう、輝くん。……早いね」
机の上には、びっしりと書き込まれた文字と図。
昨夜の続きを、そのまま引きずっているのが一目で分かった。
白川「寝不足じゃない? 無理はだめだよ」
輝「それ、白川が言う?」
そう言って輝は笑い、白川の隣の席に腰を下ろした。
輝は、ふと白川のノートに視線を落とした。
そこに並んでいた文字に、思わず息を呑む。
ノートの上部に、大きく三つの名前。
――輝
――大熊
――真鴉
その下には、それぞれ矢印や囲みで繋がれた要点と簡潔なまとめ。
「霊力と妖力の違い」「解放条件」「戦闘応用時の注意点」
どれも、輝だけでなく、大熊や真鴉が授業中につまずいていた部分だった。
輝「……白川、これ……」
白川は一瞬だけ目を泳がせ、それから小さく笑った。
白川「自分の勉強じゃないよ。昨日の授業、三人とも同じところで引っかかってたから」
輝「俺たちのために……?」
白川「大熊さんも真鴉くんも、戦闘は得意だけど座学は苦手そうだったし」
淡々とした口調だったが、ノートの端には何度も書き直した跡が残っている。
一晩でまとめたものではないと、輝にも分かった。
輝「……ありがとう」
白川「礼を言われるようなことじゃないよ。仲間でしょ」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
輝はノートを見つめながら、初めて実感する。
――白川は、戦えなくても、確かに“前線”に立っている。
輝「……よし。俺、ちゃんと赤点回避するよ。この試験」
白川は少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに頷いた。
白川「うん。一緒に、ね」
昼休み。
輝は真鴉と大熊を呼び出し、白川のノートをそっと開いて見せた。
ページをめくった瞬間、二人の動きが止まる。
そこには、授業内容が噛み砕かれ、要点だけが分かりやすく整理された文字。
三人それぞれの理解が詰まりやすい箇所が、色分けされて丁寧に書かれていた。
大熊「……」
大熊は一瞬固まり、次の瞬間、勢いよく白川の方を向いた。
大熊「白川ァ!!」
泣きそうな顔で白川の手を両手で掴み、ぶんぶんと振る。
大熊「なんやこれ……!こんなん、先生より分かりやすいやないか……!」
白川「ちょ、ちょっと大熊さん、落ち着いて……」
真鴉もノートを覗き込み、思わず息を吐いた。
真鴉「……なんて良い奴なんだ」
照れくさそうに鼻の下を指で擦りながら、視線を逸らす。
真鴉「正直、筆記は捨ててたけど……これなら、やれる気がする」
白川は少し困ったように笑った。
白川「大げさだよ。みんな、同じところで引っかかってただけだから」
大熊「それをまとめるのが凄い言うてんねん!」
真鴉「ありがとうな、白川。助かる」
白川「うん。役に立つなら良かった」
その様子を横で見ていた輝は、なぜか胸を張っていた。
自分が褒められているわけでもないのに、口元が緩む。
輝(……だろ?白川、すげぇんだよ)
三人に囲まれて慌てる白川を見ながら、輝は静かに思う。
この試験、ただの関門じゃない。
――仲間の形が、少し変わる合図なんだと。
筆記試験当日。
教室へ向かう廊下は、いつもより静かだった。
緊張が空気に混じっている。
輝は――不思議なほど、落ち着いていた。
胸の奥にあるのは不安よりも、「やれる」という感覚。
一方で。
真鴉「……」
席に向かう途中、真鴉は何度も指を鳴らし、視線を泳がせている。
明らかに、いつもの戦闘前より顔が硬い。
輝「真鴉」
真鴉「ん?」
輝「筆記の方が緊張するって、どうなんだよ」
真鴉「うるせぇ……銃より紙の方が怖いんだよ」
小さく悪態をつく真鴉の横を抜け、輝は席へ向かう。
その直前、白川が歩み寄ってきた。
白川「……いける?」
輝「うん」
言葉はそれだけで十分だった。
二人は軽く拳を合わせる。
コツン、と乾いた音。
白川「一緒にやってきたんだ。大丈夫」
輝「ありがとう、白川」
短い笑顔を交わし、それぞれの席へ。
椅子に座った輝は、机の上にペンを置き、深く一度だけ息を吐く。
輝(俺、一人じゃない)
その事実が、何よりの支えだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
抗争編を経て、命のやり取りや裏切り、覚悟と別れを描いてきた中で、試験編は一見すると空気が変わったように感じられるかもしれません。
しかし、この編で描きたかったのは「戦えない時間にこそ見える強さ」です。
輝は、戦闘では決して最前線に立てる存在ではありません。
それでも仲間に必要とされ、仲間のために必死になれる。
白川もまた、力ではなく知識と観察で誰かを支える立場の人間です。
今回の話は、
「守られる側だった人間が、別の形で仲間を守り始める瞬間」
そして
「その行為が、本人の知らないところで周囲を救っている」
という点を大切にしています。
真鴉や大熊の焦り、纏や神宮寺の静かな信頼、
そして白川が無言で積み重ねていた努力。
それらが、戦闘とは違う“連携”として形になり始めています。
次に来る試験は、単なるイベントではありません。
この学園で生き残るための、ひとつの分岐点です。
ここから、白川が主役として物語の前面に立ちます。
派手さはなくとも、確実に物語を動かす存在として。
引き続き、彼らの歩みを見守っていただけましたら幸いです。
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