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霊業  作者: まんらび
2章
50/54

50話:決着

逃げ道は、もう残っていない。


拳を握った瞬間から、

選択はひとつしかなかった。


友だった者。

守ると決めた者。

そして――越えてはならなかった一線。


過去は、忘れたふりをしても消えてはくれない。

傷は塞がっても、力を持つ者の責任だけは残り続ける。


これは正義の物語ではない。

赦しの話でもない。


ただ、

拳で始まり、拳で終わらせるしかなかった男たちの、

避けられなかった決着の記録である。


――夜は、もう明けない。

大熊が、一歩踏み出した瞬間だった。


床を蹴る音が、廃工場に響く。

それを合図にしたかのように、周囲の空気が一変した。


一斉に動き出す人影。

怒号、足音、金属が擦れる音――戦いの火蓋が切って落とされる。


大熊は、真正面から突っ込んだ。


拳を振るうたび、相手が吹き飛ぶ。

避けもせず、怯みもせず。

肩に、腹に、背中に――刃物や拳が当たるが、足は止まらない。


血が滲む。

それでも大熊は、確実に“優勢の位置”に立っていた。


動きは荒い。

だが無駄がない。


一人倒すたび、次の敵の懐へ踏み込む。

力任せではない。

相手が嫌がる位置、逃げ場を潰す角度を、無意識に選んでいる。


「……ちっ」


倒れた男を踏み越え、さらに前へ。


その背後では、柊も必死に戦っていた。


柊は数で押されながらも、弱そうな相手を見極め、確実に倒していく。

拳が震え、息が荒くなる。


それでも――逃げない。


柊「……っ、負けるか……!」


足元を狙う相手を蹴り飛ばし、振り向きざまに拳を叩き込む。

動きは粗いが、覚悟だけは本物だった。


大熊は、一瞬だけ振り返る。


倒れずに立っている柊の姿を確認し、口角をわずかに上げた。


大熊「……上等や」


再び前を向く。


その先――

人の壁の向こうに、鹿戸の気配がある。


大熊の目が、完全に据わった。


ここから先は、

もう“喧嘩”ではない。


拳で始まり、

拳で終わらせるための――戦いだった。


大熊は、止まらなかった。


相手が何人いようと関係ない。

拳を振るうたび、骨の砕ける感触が掌に伝わる。


顎を打ち抜き、体が宙を舞う。


腹部に叩き込んだ拳がめり込み、息ごと地面に沈める。


数える意味はなかった。

目の前に立った人間を、順番に“消していくだけ”だ。


刃物が振るわれ、腕を掠める。

血が飛び散る。

だが大熊は眉一つ動かさない。


大熊「……遅い」


踏み込み、肩から体重を預ける。

相手の体が後方へ弾け、壁に叩きつけられる。


怒号が上がる。

恐怖と焦りが混じった声。


だが、それもすぐに途切れる。


大熊は、攻撃を“受けてから”潰す。

殴られ、切られ、蹴られながらも、必ず相手の中心を捉える。


逃げ場を奪う。

呼吸を奪う。

立つ理由そのものを、叩き折る。


床に転がる人間が増えていく。

呻き声、血の臭い、汗と鉄の匂い。


それでも、まだ人は湧いてくる。


「行け! 囲め!」


誰かの叫び。

大熊は足を止めず、群れの中心へ入った。


拳を振るう。

肘を叩き込む。

膝で崩し、頭を床に打ち付ける。


動きは荒い。

だが、確実だ。


一撃ごとに、相手が“戦えない状態”になる。


背中に衝撃。

鈍い痛み。


それでも振り向かず、背後の人間の腕を掴み、そのまま前方へ投げ飛ばす。

投げられた男は、別の仲間を巻き込み倒れた。


大熊「……邪魔や」


低く呟く。


大熊は前へ進む。


そして、最後の一人。


向かってきた男の顔に、迷いが浮かんだ瞬間だった。


大熊は、踏み込んだ。


腰を落とし、全体重を拳に乗せる。

狙いは、顔面。


拳が当たった瞬間、骨の感触がはっきりと伝わる。

男の体が仰け反り、そのまま後方へ倒れ込む。


同時に、拳から血が垂れた。


自分の血か。

相手の血か。


そんなことは、どうでもいい。


大熊は、ゆっくりと拳を下ろす。

血が、床に落ちる。


ぽたり。

ぽたり。


その赤い滴の向こう。


視線の先で――

鹿戸と、目が合った。


鹿戸は、少し離れた場所で立っていた。

騒ぎの中心にいながら、一歩も動かず。


口元に、薄い笑み。


まるで、最初からこの光景を待っていたかのように。


大熊は、拳を握り直す。

血が、指の間から滴り落ちる。


視線は逸らさない。


大熊は、答えなかった。


ただ、血に濡れた拳をゆっくりと下ろし、

鹿戸へ向けて――指を一本、折り曲げる。


降りてこい。


それだけの合図。


鹿戸は一瞬、目を細め、

次の瞬間――


床を蹴った。


二階の足場から、躊躇なく飛び降りる。

着地の衝撃で埃が舞い、鈍い音が工場内に響く。


鹿戸は膝を軽く曲げたまま体勢を整え、

顔を上げて、大熊を見る。


鹿戸「……前座にもならんかったか?」


口元が歪む。

嘲りとも、楽しげとも取れる笑み。


鹿戸「期待しとったんやけどなぁ。

  お前の“仲間想い”が、どこまで持つか」


大熊は、ゆっくりと一歩踏み出す。


床に落ちた血を、靴底で踏み潰しながら。


大熊「……黙れ」


低い声。

だが、はっきりと届く。


大熊「もう、お前の口から出る言葉に価値はない」


鹿戸は肩をすくめる。


鹿戸「相変わらずやな。

  正義気取りで、全部拳で解決する」


一歩、鹿戸も前へ出る。

二人の距離が、急速に縮まる。


鹿戸「せやけどな――」


鹿戸の目が、冷たく光る。


鹿戸「それで守れたもん、どれだけあった?」


その言葉に、大熊の拳が強く握られる。

血が、再び指の隙間から滲む。


大熊「……」


一瞬の沈黙。


そして、大熊は顔を上げた。


大熊「全部や」


短く、断言する。


大熊「少なくとも……

  お前みたいに、仲間を“使い捨て”にはせぇへん」


鹿戸の笑みが、消えた。


空気が、張り詰める。


次の瞬間――

二人は、同時に踏み込んだ。


大熊は、最初の一撃で理解した。


――違う。


あの頃、拳を交えた鹿戸とは、

まるで別物だった。


鹿戸の踏み込みは鋭く、重い。

間合いの取り方、体重移動、視線の置き方――

すべてが「殺し合い」を前提に研ぎ澄まされている。


大熊が拳を振るう。

だが鹿戸は、紙一重でかわし、肘を打ち込んできた。


鈍い衝撃が肋に走る。


大熊「……っ」


息が詰まる。

確実に、効いている。


鹿戸「どうした? 前はもっと軽々受けとったやろ」


鹿戸の声は落ち着いていた。

余裕がある。

――いや、楽しんでいる。


鹿戸「俺な、あん時からずっと考えとったんや」


踏み込みながら、拳を放つ。


鹿戸「強さって何や、ってな」


大熊は受け、弾き、下がる。

床に足跡が血で残る。


鹿戸「守るための力? 正義の拳?」


嘲るように笑う。


鹿戸「そんなん、幻想や」


鹿戸の蹴りが、大熊の腹を抉る。

身体が宙に浮き、壁に叩きつけられる。


視界が揺れる。


鹿戸「俺は違う道を選んだ」


一歩、また一歩。

確実に距離を詰めてくる。


鹿戸「奪う側に回ったんや。

  壊す覚悟を決めた」


大熊は壁に手をつき、立ち上がる。

拳が震える。

だが、視線は逸らさない。


大熊「……せやから、ここまで歪んだんや」


鹿戸の目が、細くなる。


鹿戸「歪んだ?

  ちゃうな、大熊」


鹿戸は静かに言った。


鹿戸「進化したんや」


次の瞬間。

鹿戸の拳が、大熊のガードを粉砕した。


骨に響く衝撃。

膝が、自然と落ちる。


それでも――

大熊は、倒れなかった。


大熊は理解する。


鹿戸は、もう昔の友じゃない。

そして同時に――


この男を、ここで止めなければならない。


そうでなければ、

奪われるのは、過去ではなく“これから”だと。


柊の声が、割って入った。


柊「大熊さん!!」


その一言で――

大熊は、はっとした。


背後にいる仲間。

血を流しながらも、まだ立っている柊。

倒れていった連中。

それでも、自分を見ている視線。


大熊は、ふっと笑った。


それは嘲りでも余裕でもない。

思い出したのだ。


大熊「……あぁ、そうやな」


肩に走る痛みを無視し、鹿戸を真っ直ぐに見る。


大熊「鹿戸ォ……」


低く、腹の底から。


大熊「お前が強くなったんは、痛いほど分かったわ」


拳を、ゆっくり握り直す。


大熊「やけどな。

  俺とお前の“決定的な違い”が、ひとつだけある」


鹿戸は鼻で笑った。


鹿戸「それが、なんや?」


大熊は一歩、踏み出す。

その背中に、迷いはない。


大熊「守るもんが、あるかないかや」


一瞬、鹿戸の表情が止まる。


大熊「仲間や。

  背中預けて、名前呼んでくれる連中や」


柊の方を、ちらりと見る。


大熊「……そいつらがおる限り、俺は何遍でも立つ」


鹿戸は肩をすくめる。


鹿戸「それが強さや言うんか?」


大熊は、笑ったまま言った。


大熊「ちゃう」


拳を構える。


大熊「それが“差”や」


視線が鋭くなる。


大熊「その差はな――

  とんでもなく、でけぇぞ」


空気が、張り詰めた。


鹿戸の笑みが、消える。


鹿戸が踏み込んだ。


床が割れる音と同時に、殺気が一直線に走る。

拳は速い。重い。

先ほどまでの乱戦とは、明らかに質が違った。


だが――


大熊は、避けた。


紙一重。

風圧だけが頬を掠める。


鹿戸「……は?」


次の瞬間、鹿戸の腹に衝撃が走った。


大熊の拳ではない。

肘だ。


肋を叩き潰すような一撃。

鹿戸の体が「く」の字に折れ、数歩吹き飛ぶ。


鹿戸「が……っ!」


着地すらままならない。

膝をついた瞬間、視界が揺れる。


鹿戸は歯を食いしばり、立ち上がろうとした。


――来ない。


さっきまでの大熊なら、追撃していた。

だが今の大熊は、ただ立っている。


拳を下げ、静かに鹿戸を見ている。


鹿戸「……なんや、その余裕は」


大熊「余裕ちゃう」


一歩、前に出る。


大熊「今までが“合わせてただけ”や」


鹿戸の背筋に、冷たいものが走った。


鹿戸「ふざけんな……!」


叫ぶように突進する。

拳、膝、蹴り――

覚えたての技を、全て叩き込む勢いで放つ。


しかし。


大熊は、一切当たらない位置にいた。


半歩ずれる。

肩を引く。

踏み込みの角度をずらす。


それだけで、全てが空を切る。


鹿戸「なんで……当たらん……!」


大熊「見えてるからや」


低い声。


大熊「力も、速さも、覚悟も。

  全部、最初から」


鹿戸の呼吸が荒くなる。


次の瞬間。

大熊が踏み込んだ。


ドン、という音が工場に響く。


床を蹴る力が、そのまま拳に乗る。

逃げ場はない。


鹿戸「――っ!」


ガードを上げるが、意味を成さない。


拳が、腕ごと叩き割る。

骨の軋む音。

悲鳴にならない声。


鹿戸の体が宙に浮いた。


しかし――

落ちる前に、もう一撃。


顎。


視界が白く弾け、意識が飛びかける。


それでも鹿戸は、必死に立とうとした。


鹿戸「……俺は……負けへん……!」


その目に、狂気が宿る。


大熊は、ため息をついた。


大熊「……やっぱりな」


静かに、構え直す。


大熊「お前には、“背中”がない」


次の瞬間。

大熊の拳が、鹿戸の顔面を正確に捉えた。


狙いは――左目。


鈍い音。

骨が砕ける感触。


鹿戸「――がぁぁぁぁっ!!」


叫びと共に、鹿戸が地面に叩きつけられる。

顔を押さえ、のたうち回る。


指の隙間から、血が溢れ落ちる。

左目は、もう開かない。


大熊は、その前に立った。


息は、ほとんど乱れていない。


大熊「……これで終いや」


鹿戸は、震える声で笑った。


鹿戸「……最初から……本気やなかったんか……」


大熊は答えない。


ただ一言、低く告げる。


大熊「演技や」


鹿戸の笑みが、完全に消えた。


その場にいた誰もが理解した。

勝負は、最初から決まっていたのだと。


廃工場に残ったのは、

左目に消えない傷を刻まれ、地に伏す男と――

圧倒的な敗北の空気だけだった。


大熊は、倒れ伏す鹿戸を見下ろした。


呼吸は荒く、左目を押さえたまま、立ち上がる気力すら残っていない。

それでも鹿戸は、歪んだ笑みを浮かべようとしていた。


大熊「……鹿戸」


低く、感情を削ぎ落とした声。


大熊「お前をここで生かしといたらな、後々――確実に面倒や」


鹿戸の笑みが、ぴたりと止まる。


鹿戸「……はは……結局、殺すんか……」


大熊は答えない。

ただ、静かに視線を柊へ向けた。


大熊「柊」


柊「……はい」


大熊「目、つぶっとけ」


一瞬の沈黙。

柊は唇を噛みしめ、それでも――従った。


柊「……わかりました」


ぎゅっと、目を閉じる。

拳を強く握りしめ、震えを堪える。


鹿戸はそれを見て、何かを悟ったように息を吐いた。


鹿戸「……大熊」


大熊は、ゆっくりと一歩踏み出す。


鹿戸「俺は……お前に負けたんやな……」


大熊「最初からや」


それだけ言うと、もう言葉はなかった。


次の瞬間――

鈍い音が、廃工場に短く響いた。


柊の肩が、びくりと跳ねる。


風が止み、空気が落ち着く。


やがて。


大熊「……もうええで」


その声に、柊は恐る恐る目を開けた。


そこにあったのは、

動かなくなった鹿戸と、静かに立つ大熊の背中。


大熊は、もう振り返らない。


大熊「行くぞ、柊」


柊「……はい」


震える声で答え、柊は一歩踏み出す。


その背後で、

鹿戸 飛雄という存在は――完全に、終わった。


大熊はただ前を向いて歩いた。

守るものがある人間の背中で。


翌日――

大熊の家に、警察が訪れた。


玄関に立つ制服姿を見た瞬間、逃げ場がないことを悟る。

それでも大熊は、微塵も取り繕わなかった。


淡々とした問いかけに、大熊は一言で答える。


大熊「……俺がやった」


空気が、重く沈んだ。


否定も、言い訳もない。

事実として、それだけを置いた。


父は、何も言わなかった。

怒鳴りもしない。殴りもしない。


ただ――

目を見開いたまま、立ち尽くしていた。


その顔は、大熊がこれまで見てきたどんな表情とも違った。

失望でも、怒りでもない。


守れなかったことへの、後悔と自責が滲んだ顔。


大熊は、その表情を一生忘れないと直感した。


――あぁ、

俺は、この人の一番嫌がる道を選んだんやな。


胸の奥が、ひどく痛んだ。


やがて手錠をかけられ、連れ出される。

外は眩しいほどに晴れていた。


パトカーのドアが開き、乗り込もうとした、その時。


遠くから、聞き慣れた声が響いた。


崎原「俺がやった!!」


振り向くと、必死に走ってくる崎原の姿。


崎原「俺が全部やったんや!!大熊さんは関係ない!!」


続いて、もう一人。


柊「そうや!!捕まえるなら俺らにしろ!!」


叫びながら、喉が潰れそうなほどの声で。


柊「大熊さんは……俺らを守っただけや!!」


警官に制止されても、二人は食い下がる。


その光景を見て、大熊は――

思わず、笑ってしまった。


大熊「……馬鹿野郎ども」


声は届かない。

それでも、確かに心は通じていた。


大熊は、ゆっくりと振り返る。


大熊「柊、崎原」


二人が、はっと顔を上げる。


大熊「俺はな……後悔してへん」


一拍置いて、続ける。


大熊「お前らを守れた。それだけで、十分や」


柊の目から、涙が溢れ落ちた。


柊「……大熊さん……!」


大熊は、最後に一度だけ――

仲間たちを見るように、真っ直ぐ前を向いた。


そして、パトカーに乗り込む。


ドアが閉まり、エンジン音が響く。


走り出す車の中で、大熊は静かに目を閉じた。


――これでええ。


そう、心の底から思えた。


守るものがある男は、

そのためなら、どんな罪でも背負えるのだから。


少年院の中で、大熊は一度も拳を振るわなかった。


必要がなかったからだ。


周囲の半グレたちは、皆どこか幼く見えた。

声を荒げ、虚勢を張り、力を誇示しようとする――

そのすべてが、大熊の目には背伸びをする子供にしか映らなかった。


それは大熊の体が大きすぎたからではない。

覚悟の重さが、違った。


誰かを守るために拳を振るった男と、

ただ暴れたいだけの連中とでは、立っている場所が違う。


気づけば、誰も大熊に逆らわなくなった。

命令を出した覚えもない。

だが、自然と視線は集まり、場は静まる。


――ドン。


そう呼ばれていることを、大熊自身が知ったのは、だいぶ後のことだった。


出所の日。


大熊は、静かに看守の前に立ち、深く頭を下げた。


大熊「……お世話になりました」


看守は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに小さく頷いた。


門が、軋む音を立てて開く。


外に一歩踏み出した瞬間――

大熊は、足を止めた。


視界の奥が、見えない。


ずらりと並んだ人、人、人。

道路の先まで、頭を下げる影が続いていた。


先頭に立っていたのは、柊と崎原だった。


柊は、以前より少しだけ逞しくなっている。

崎原もまた、背筋を伸ばし、静かに立っていた。


その後ろには――

見慣れた顔ぶれ。


大熊組の幹部たち。


大熊「……なんで」


思わず、声が漏れる。


大熊「なんで、幹部の方々まで……」


困惑する大熊の背後から、足音がひとつ。


ゆっくりと、しかし確かな重みを伴って近づいてくる。


振り返ると、そこに立っていたのは――

父親だった。


組長としての威圧を纏ったまま、それでもどこか年老いた背中。


親父「……迎えに来たに決まっとるやろ」


低く、しかし穏やかな声。


親父「帰る場所は、まだ残っとる」


大熊は、言葉を失った。


親父は、大熊の前に立つと、深く頭を下げた。


その場にいた全員が、息を呑む。


親父「……すまんかったな」


短い一言。

だが、その中に込められた後悔と愛情は、痛いほど伝わった。


大熊の胸が、強く締め付けられる。


大熊「……親父」


柊と崎原が、静かに一歩前に出る。


柊「おかえりなさい、大熊さん」


崎原「……待ってました」


大熊は、しばらく俯いたまま動かなかった。


やがて、顔を上げる。


その目にあったのは、迷いではない。


親父は、大熊が投獄されている間...大熊がやった出来事を、すべて柊から聞いていた。


廃工場での抗争。

仲間を守るために拳を振るったこと。

そして――鹿戸を殺した、その決断まで。


柊は、包み隠さず話した。

自分たちが止められなかったことも、

大熊が背負う覚悟の重さも。


親父は、途中で一度も遮らなかった。

怒りも、否定も、なかった。


ただ、静かに聞き続けていた。


そして最後に、短く言ったという。


父親「……そうか」


それだけだった。


父親は、大熊の前に立つ。


もう“組長”としてではなく、

一人の父親として。


親父「健二」


名を呼ばれ、大熊は背筋を伸ばした。


親父「お前が何をしてきたか、柊から全部聞いた」


大熊は、何も言わない。

言い訳もしない。


親父「守るもんがあったんやな」


低い声。

だが、そこに責める色はなかった。


親父「間違いもした。血も流した」


一拍、間を置く。


親父「……それでもや」


父親は、大熊の目を真正面から見据える。


親父「人の上に立つ人間は、正しい奴やない」


大熊の眉が、わずかに動く。


親父「“背負える奴”や」


沈黙が落ちる。


親父「逃げへんで、覚悟の重さを受け止めて、

それでも前に立てる人間や」


拳を握る大熊。


親父「健二」


ゆっくりと、しかしはっきりと告げられる。


親父「お前に――俺の後を継いでほしい」


その言葉は、命令ではなかった。

押し付けでもなかった。


願いだった。


大熊は、しばらく黙っていた。


やがて、深く息を吐く。


大熊「……俺は」


視線を落とし、そして上げる。


大熊「立派な人間やない」


親父「知っとる」


即答だった。


大熊「血も汚れも、背負ってしもうた」


親父「それも知っとる」


大熊は、一歩前に出る。


大熊「それでも……俺でええなら」


真っ直ぐに、父を見る。


大熊「逃げんと、全部引き受ける」


親父は、初めて――

ほんのわずかに、笑った。


親父「それでええ」


その背後で、柊と崎原が、静かに頭を下げる。


大熊は、もう少年ではなかった。


守るものを選び、

責任を知り、

それでも前に立つと決めた男だった。


それからというもの――

大熊は、頭を抱えながらも若頭としての務めを一つずつ吸収していった。


机仕事、挨拶回り、揉め事の仲裁。

父の背中でしか見たことのなかった“組長の景色”が、否応なく目の前に広がる。


大熊「……ほんま、向いてへんわ」


そう呟きながらも、逃げるつもりはなかった。


ある日の稽古場。


大熊は腕を組み、前に並ぶ組員たちを睨む。


大熊「お前らァ!」


腹の底から響く声。


大熊「人様にはぁ?」


組員一同「礼儀を!!」


反射のように揃う声。


大熊「助ける声がしたら?」


組員一同「命を呈して助ける!!」


大熊「声が……」


一瞬の間。


柊「ちいせぇぇ!!」


間髪入れずに飛んだツッコミ。


次の瞬間――


大熊「っははははは!!」


堪えきれず、腹を抱えて笑い出す。


その笑いにつられ、組員たちも次々と吹き出す。


張り詰めていた空気が、一気にほどけた。


大熊「……あかん、無理や。今のは反則やろ」


柊「若頭、真面目にやりましょうや!」


そう言いながら、柊自身も肩を震わせている。


そこへ、腕を組んだ幹部が一歩前に出た。


幹部「けんじ――」


言いかけて、咳払い。


幹部「……あぁ違う違う。若頭ァ!」


場が、少し引き締まる。


幹部「気張れよ。あんたの背中、皆見とるんやから」


大熊は一瞬だけ真顔になり、深く頭を下げる。


大熊「すんません……」


そして、横にいる柊を見る。


大熊「柊がツボなんすわ」


柊「俺のせい!?」


また、笑いが起きる。


だがその笑いの中に、軽さはなかった。

そこにあるのは、信頼だった。


大熊はまだ未熟だ。

悩み、迷い、頭を抱える。


それでも――

逃げずに立ち続ける。


その姿を、誰よりも近くで見ている者たちがいる。


若頭としての業務を数年積み重ね、大熊が次期組長の座を目前にしていた頃のことだった。


ある夜、大熊は単身で抗争寸前の喧嘩の仲裁に向かった。

相手の数も、状況の荒れ具合も承知の上だった。それでも退くという選択肢は、最初からなかった。


結果は――

凄惨だった。


大熊は全身を打ち据えられ、肋は砕け、内臓は悲鳴を上げる。

血に塗れ、意識が遠のく中で、ついに膝をついた。


大熊……ここまでか


生と死の境界。

その瞬間――体の奥で、何かが「壊れる」感覚が走った。


まるで、長年固く閉じられていた栓が、音を立てて砕け散ったかのように。


次に目を開いた時、大熊の視界は一変していた。


自信を覆う炎...

壁際に立つ“誰もいないはずの影”。

天井に張り付く、形の歪んだ何か。

そして、怒号と殺気に紛れて蠢く、明らかに人ではない存在。


大熊は理解した。

見えてはいけないものが、見えているのだと。


奇跡的に一命を取り留めた後も、その視界は消えなかった。

霊。妖怪。

この世の裏側に棲む存在たち。


大熊は誰にも言わなかった。

言えば、自分が狂ったと思われるだけだと分かっていたからだ。


大熊「……見えとらん。俺は、見えとらん」


そう言い聞かせ、力を隠したまま、これまで通り業務に当たった。

仲裁、交渉、采配。

見えるものが増えただけで、やるべきことは変わらない。


だがある日、書類の山に紛れて、一通の封筒を見つける。


黒地に不気味な紋様。

差出人には――禍津学園。


大熊「……なんや、これ」


訝しみながら、封筒に触れた瞬間。


視界が、反転した。


足元が消え、世界が引き剥がされる感覚。

重力も、音も、すべてが遠のいていく。


大熊「――っ!?」


次に意識を取り戻した時、大熊は見知らぬ校門の前に立っていた。


異様な気配が満ちる空気。

霊と妖怪が、当たり前のように行き交う場所。


大熊は、ゆっくりと息を吐く。


大熊「……なるほどな」


自分が“選ばれた”のではない。

“引きずり込まれた”のだと。


大熊は、胸の奥に澱のように溜まった感情を噛みしめていた。


若頭。

その呼び名は、誇りでもあり、同時に重荷でもあった。


嬉しくないわけがない。

認められた証だ。父の背中に、ようやく手が届いたという実感もある。


それでも――


大熊(……若頭)


その二文字を向けられるたび、胸のどこかが軋む。

自分が望んだ立場なのか、それとも押し付けられた役割なのか。

誇りと嫌悪が同時に湧き上がる、その矛盾に、大熊自身が一番うんざりしていた。


だが。


禍津学園に引きずり込まれ、

霊や妖怪が跋扈するこの異常な世界に立たされた今。


その感情が、ほんの少しだけ――軽くなった気がした。


大熊(……ここじゃ、肩書きなんぞ関係あらへんな)


拳が物を言う世界。

覚悟と胆力だけが試される場所。


大熊は、深く息を吐く。


そして、表情を切り替えた。


大熊「……よし」


踵を返し、足取りを強める。

向かう先は、学園の体育館。


これから何が待っているのかは分からない。

だが、逃げる気は一切なかった。


大熊(若頭でも、組長でもない)


大熊(――ここでは、ただの“俺”や)


そう心の中で言い切り、

大熊は体育館の扉を押し開けた。


輝の一声が、深く沈み込んでいた大熊の意識を現実へと引き戻した。


輝「大熊?」


肩を掴まれ、視界がはっきりする。


輝「大丈夫か?」


大熊「あぁ……大丈夫や」


短く答え、ゆっくりと顔を上げる。

視線の先――そこにいたのは、決しているはずのない男だった。


鹿戸。


二度と見ることはないと、自分の手で終わらせたはずの因縁。

胸の奥が、静かに、しかし確実に軋む。


大熊は一歩前に出て、低く問いかける。


大熊「俺はあの時、確実にお前を殺した……。それでもや。なんで生きとる?」


鹿戸は薄く笑い、椅子に深く腰掛けたまま肩をすくめる。


鹿戸「話す義理はないな」


間を置き、視線だけで大熊を射抜く。


鹿戸「知りたきゃ倒してみろよ……倒せたら、な」


そう言うと、鹿戸はゆっくりと立ち上がった。

ネクタイを緩め、首を鳴らすその仕草は、かつての荒々しさとは違う、どこか余裕を帯びている。


その変化を、大熊は一瞬で理解した。


――強くなっている。


大熊は、後ろに立つ輝へと視線を投げる。


大熊「輝、下がっとけ」


輝「……分かった。でも無茶は――」


大熊「心配いらん」


そう言って、大熊は静かに腕まくりをする。

分厚い前腕に浮かぶ筋と古傷が、これまで歩んできた修羅の道を物語っていた。


大熊(殺したはずの相手を、もう一度……)


だが、迷いはない。


大熊の視線が、真正面から鹿戸を捉える。


鹿戸は、ゆっくりと左目に指を当てた。

そこには、肉が裂けたまま時を止めたような、生々しい傷跡が残っている。


鹿戸「俺のこの傷……この傷だけは、どうしても治らんかった」


指先でなぞり、薄く笑う。


鹿戸「大熊。お前に付けられた傷や。覚えとるか?」


大熊は一瞬も迷わず、低く答えた。


大熊「覚えてないわけないやろ」


次の瞬間だった。

大熊の足元から、轟、と空気を焼く音が立ち上がる。


抑え込んでいた霊力が、最初から全力だと言わんばかりに解放される。

橙色の炎が、大熊の身体を包み込み、床を舐めるように揺らめいた。


空気が歪み、周囲の温度が一気に上がる。


鹿戸は目を細め、その光景を見据えた。


鹿戸「やっぱりな……」


口角を上げ、確信を込めて言い放つ。


鹿戸「お前も、こっち側なんだな」


大熊は眉をひそめ、短く声を落とす。


大熊「あ?」


次の瞬間、鹿戸の足元からも異変が走った。

闇を凝縮したかのような霊力が噴き上がり、紫色の炎となって鹿戸を包む。


橙と紫。

相反する二つの炎が向かい合い、互いを喰らおうとするかのように激しく揺れる。


鹿戸の左目の傷が、紫の炎に照らされ、妖しく光った。


大熊は、その気配を肌で感じ取り、鼻で笑う。


大熊「……なるほどな」


その一言に、すべてが込められていた。

生き返った理由も、異様な成長も、そして――再び相まみえた意味も。


ビルの外は、夜風が吹き抜けるだけの静寂に包まれていた。

最上階だけが不自然なほど静まり返っている。


――その瞬間だった。


空気そのものが弾け飛ぶような、

パリン、という乾いた破裂音。


最上階のガラス張りが内側から粉砕され、無数の破片を夜空に散らしながら、二つの影が外へと投げ出された。


大熊と鹿戸。

橙と紫の炎を纏ったまま、互いに絡み合うようにして落下していく。


同時に、下の階。


神宮寺を背負い、各階を駆け下りていた真鴉と纏の視界に、その異様な光景が飛び込んだ。


真鴉「……っ!?」


纏「うそ……!」


夜空を切り裂くように落ちてくる炎の塊。

それが大熊だと認識した瞬間、二人の顔から血の気が引いた。


真鴉は歯を食いしばり、神宮寺を強く背負い直す。


纏は目を見開いたまま、落下していく大熊から視線を離せずにいた。


静寂だった夜は、今や破壊の予兆に満ちていた。


真鴉と纏は、並んでエレベーターの前に立っていた。

下へ向かうボタンは、すでに赤く点灯している。


上階で激突した衝撃が、まだ建物全体に残っているようで、

空気は重く、張りつめていた。


――そのとき。


上から降りてくる表示が、静かに光る。


纏「……来る」


真鴉「あぁ……」


二人は無意識に身構えた。

今このタイミングで、上から降りてくるものが何なのか――考えるまでもない。


エレベーターが、真鴉たちのいる階で止まる。

低い駆動音が消え、扉がゆっくりと開いていく。


不穏な空気。

戦いの余韻を引きずったまま、二人は視線を前へ向け――


そこに立っていたのは。


輝、柊、そして見慣れぬ大熊組の組員。


一瞬、時が止まった。


真鴉&纏「輝!!」


思わず同時に声が重なる。


輝「うおっ!? びっくりしたぁ!」


肩を跳ねさせ、心底驚いた様子で目を見開く輝。

その温度差に、張りつめていた空気が一気に崩れた。


柊は苦笑しながら頭をかき、組員はきょとんとした顔で状況を見回す。


纏「……生きてた!」


安堵と戸惑いが入り混じった視線が交錯する中、

だが誰も、大熊の姿がここにないことには、まだ口を開かなかった。


六人は言葉も少ないままエレベーターに乗り込み、

扉が閉まると同時に、機械は一階へ向かって下降を始めた。


重力が体にのしかかる。

誰もが、胸の奥に嫌な予感を抱えたままだった。


――到着を告げる音。


扉が開き、外へ一歩踏み出した瞬間。


ドンッ!!


空気を叩き潰すような轟音が、夜の街に響き渡った。

地面が揺れ、ガラスが震え、悲鳴と歓声が入り混じる。


視線の先――


道路の中央で、大熊と鹿戸が肉弾戦を繰り広げていた。

拳と拳がぶつかるたび、衝撃波のような音が周囲に広がり、

アスファルトにはひびが走っている。


橙と紫の炎が交錯し、夜を引き裂く。


その周囲を取り囲むように、

野次馬が何重にも人垣を作っていた。


スマホを構える者、逃げ遅れた者、

何が起きているのか理解できず立ち尽くす者――

数は、あまりにも多い。


真鴉は、神宮寺を背負ったまま、顔を強張らせた。


真鴉「……まずいな」


低く、短く。


真鴉「人が多すぎる」


纏は歯を食いしばり、視線を逸らさずに言った。


纏「このまま続けば、一般人が巻き込まれる」


輝は拳を握りしめ、前に出ようとする。


輝「大熊……!」


柊「……あの二人、止めなきゃ、街が壊れます」


だが、真正面でぶつかり合う二つの怪物は、

すでに周囲など見えていない。


拳が振るわれるたび、

野次馬の悲鳴が遅れて波のように広がっていく。


――ここは、戦場になってしまった。


誰かが、

止めなければならない場所だった。


鹿戸は、血に濡れた口元を歪め、大きく息を吸い込んだ。


鹿戸「――こいやァ!!出番やぞ!!」


その叫びが夜に叩きつけられた瞬間だった。


ビルの入口、割れたガラスの奥、非常階段、裏路地――

どこに潜んでいたのか分からないほどの人数が、一斉に溢れ出してくる。


黒い影、殺気、妖力。

鹿戸組の組員たちが、雪崩のように街へとなだれ込んだ。


輝「……っ、まだこんなに……!」


柊「数が、異常すぎます……!」


その中に――

あり得ない顔が、混じっていた。


真鴉の視線が、一点で止まる。


灰谷だ。

先ほど確かに叩き伏せ、動かなくなっていた男。


真鴉「……は?あいつ……もう起きてんのか!」


一方、別方向。


春日部と対峙する纏が、目を細める。


纏「……結構、伸ばしたと思ってたんだけど」


その声には、困惑よりも違和感が滲んでいた。


そして――

さらに奥。


藤荊棘の姿が、はっきりとそこにあった。


神宮寺と死闘を繰り広げ、

確かに息絶えたはずの男。


だが、その藤荊棘は、何事もなかったかのように立ち、静かに笑っている。


真鴉の背筋に、冷たいものが走った。


(……おかしい)


真鴉は、神宮寺を拾った時を思い出す。


確かに途切れていた呼吸。


(あの時、藤荊棘は……)


真鴉「……死んでた」


ぽつりと漏れた言葉は、

轟音と怒号の中にかき消えそうになる。


真鴉(息も、霊力も……完全に、途絶えてたはず...)


なのに、今、目の前にいる。


しかも――

他の二人、灰谷も春日部も、

倒される前とほとんど変わらない動きをしている。


真鴉は、嫌な予感を確信へと変えつつあった。


真鴉(……“回復”やない)


真鴉(これは……何か違う)


鹿戸が、愉快そうに笑う声が響く。


鹿戸「どうしたァ?藤荊棘ァァ!さっきまで元気やったやんか!」


鹿戸「まさか……自分が死んだって思ったんか?一瞬でもォ」


その言葉に、真鴉は歯を食いしばる。


真鴉(不死身……)


脳裏に、

先ほど組長の部屋で漂っていた、

形容しがたい妖力がよぎった。


真鴉(あれと、同じ匂いや……)


戦場は、ただの乱戦ではない。

これは――


理屈を壊す戦いだ。


真鴉は、仲間たちの位置を一瞬で確認し、

覚悟を決めるように、低く息を吐いた。


真鴉「……厄介やな」


そして、神宮寺を下ろし構え直す。


鹿戸組の組員たちが、雪崩のように押し寄せてくる。


逃げ場はない。

真鴉、纏、輝、柊――全員が、それぞれの位置で迎え撃つしかなかった。


拳と拳がぶつかり合い、骨の鳴る鈍い音が夜気に響く。

真鴉は的確に相手を沈めていく。


一撃。

二撃。

無駄がない。


真鴉は確実に組員を倒している。

だが――


数が、異常だった。


倒しても倒しても、背後や横から新しい影が湧いてくる。


真鴉……ちっ


反射的に霊力を引き上げかけて、すぐに思いとどまる。


視界の端に映る、野次馬。

悲鳴を上げる一般人。

スマホを構え、こちらを撮っている人影。


真鴉(使えるか……アホ)


ここで能力を解放すれば、

無関係の人間を巻き込む。


真鴉(拳で、やるしかないな)


重心を落とし、飛んできた拳を最小限の動きで外す。

返す拳が、相手の鳩尾を正確に捉える。


組員「ぐっ……!」


そのまま崩れ落ちる――が。


次の瞬間。


反応がほんの一拍、遅れた。


横合いから振り抜かれた拳が、

真鴉の側頭部を掠める。


真鴉「……っ!」


視界が揺れ、足が止まる。


その一瞬を、逃す相手ではなかった。


背後から迫っていた組員が、

渾身の蹴りを真鴉の背中に叩き込む。


鈍い衝撃。


真鴉「が……っ!」


前に踏み出し、膝をつく。


周囲を見渡す。


纏は春日部を倒した後も次々と相手をしているが、

数に押され、じわじわと間合いを詰められている。


輝も必死に拳を振るっているが、

避けきれない攻撃を何度も受けていた。


柊は歯を食いしばり、

弱い相手を食い止めているが、

腕はすでに限界に近い。


誰も、能力は使えない。

使えば、終わる。


一般人がいるこの状況で、

本気を出すことはできない。


拳だけ。

生身だけ。


それでこの数を相手にするのは――

あまりにも分が悪い。


真鴉は歯を食いしばり、低く吐き捨てる。


真鴉「……クソ。やばいな」


それでも、退くという選択肢はない。


ここで崩れれば、

次に傷つくのは、守るべき人間たちだ。


鹿戸が、愉快そうに口角を吊り上げた、その瞬間だった。


――ドドドドド。


地鳴りのような音が、遠くから近づいてくる。

重なり合う足音。

エンジンをふかす荒々しいバイクの音。


鹿戸の笑みが消える


鹿戸「……チッ」


大熊は、拳を構えたまま眉をひそめる。


大熊「なんや……この音」


観衆がざわめき、道の中央が割れるように人が押し退けられていく。

悲鳴と怒号の中を、一直線に突っ切ってきた影――


それは、大熊組だった。


先頭を走るのは、見覚えのある顔。

包帯を巻いたままの者。

腕を吊ったままの者。

中には、明らかに病院着のまま飛び出してきた幹部の姿もある。


幹部「若頭ァァァ!!」


その声が夜に響いた瞬間、

大熊の目が、見開かれる。


大熊「……なんで、お前ら……」


幹部は血の滲んだ包帯を気にも留めず、歯を見せて笑った。


幹部「決まっとるやろ。若頭が命張っとる時に、寝とれ言われて寝れるかいな」


別の組員が怒鳴る。


組員A「病院の看護師に止められましたわ!でもな!」


組員B「足折れてても走れますわ!!」


次々と集まる人影。

数は、鹿戸組に引けを取らない。


柊が、呆然とその光景を見つめる。


鹿戸は一歩前に出て、低い声で呟く。


鹿戸「……病院から逃げ出してまで来るとはな」


その目は笑っていない。


鹿戸「ほんま、厄介な男やで……大熊」


大熊は、一瞬だけ視線を伏せ、

それから、ゆっくりと前を見据えた。


大熊「……アホやな、お前ら」


そう言いながらも、

声は震えていなかった。


組員たちが一斉に拳を鳴らす。


組員一同「――命、張らせてください」


その光景を見て、

鹿戸は小さく息を吐いた。


鹿戸「はぁ……」


紫の炎が、ゆらりと揺れる。


鹿戸「守るもんがあるかないか……か」


大熊の背後で、

大熊組と鹿戸組が睨み合う。


一般人は、ようやく異常事態に気づき、距離を取り始めていた。


夜の空気が、張り詰める。


大熊は、拳を強く握り直し、鹿戸を真っ直ぐに見据える。


大熊「もう、逃げ場はないで」


鹿戸は、歯を剥き出しにして笑った。


鹿戸「上等や。ここで全部、終わらせたろやないか」


二つの組織。

二人の因縁。


――決着の時は、もう目前だった。


夜の路上で、怒号が爆発した。


大熊組と鹿戸組が一斉にぶつかり合い、拳と拳が交錯する。

骨の鳴る音、血の飛沫、アスファルトに叩きつけられる肉体。


真鴉は無言で前に出て、迫る組員の顎を正確に打ち抜く。倒れた次の瞬間、背後からの拳を肘で弾き、腹に一撃。感情のない動きで、次々と沈めていく。


纏は回転しながら蹴りを放ち、数で押そうとする相手を崩していく。


纏「数だけやね……!」


大熊組員たちも咆哮を上げ、負傷をものともせず突っ込む。


組員「若頭の前やぞォ!」


鹿戸組も必死に食らいつき、乱闘は完全な泥沼へと変わる。


そして――

喧騒の中心で、大熊と鹿戸だけが互いを見据えたまま、一歩も動かず立っていた。


大熊が鹿戸と言いかける瞬間

時間が、そこで一瞬止まった。


背中から伝わる、冷たい感触。

遅れて走る激痛に、肺がひきつり――大熊の口から血が零れ落ちる。


大熊「……がはっ……」


アスファルトに赤が落ちる音が、やけに大きく聞こえた。


鹿戸は、その光景を見て口角を歪める。

愉悦を隠そうともしない、不気味な笑み。


鹿戸「はは!ようやってくれた!」


大熊は、膝をつきながらも、ゆっくりと振り返る。

怒りでもなく、憎しみでもない――

ただ、ひどく悲しそうな目で。


大熊「……崎原の話は……本当やったんか……なぁ……」


震える声で、問いかける。


そして――

視線の先に立っていたのは。


大熊「……柊ぃ……」


刃を握ったまま、俯く柊。


柊「……すみません……若頭……」


その声は、震えていた。

だが、刃は離さない。


その瞬間。


遠くで、崎原が絶叫する。


崎原「あぁ!ちくしょう!柊が若頭に危害加える直前に止めようとしてたのに!」


組員をいなしながら続ける


崎原「他に気ぃ散らされて忘れてたッ!! クソッ!!」


駆け出そうとするが、組員に阻まれ、間に合わない。


崎原「若頭ァ!!!」


大熊は、柊から視線を外さなかった。


大熊「……なんでや……」


力なく、問いかける。


大熊「……俺、間違っとったか……?」


柊の唇が、噛みしめられる。


柊「……若頭は……正しかったです……」


涙が、ぽたりと落ちる。


柊「……正しすぎたんです……」


鹿戸が、低く笑った。


鹿戸「守るもんがある言うてたなぁ、大熊」


一歩、近づく。


鹿戸「それが――弱点や」


大熊は、血を吐きながらも、かすかに笑った。


大熊「……そうか……」


その目に、悔しさよりも――

仲間を信じたまま裏切られた人間の、どうしようもない優しさが残っていた。


夜の喧騒の中で。

この一刺しが――

大熊の人生を、決定的に変えた。


大熊の胸の奥で、何かがぐしゃりと音を立てて潰れた。


信じてきたもの。

守ってきたもの。

背負ってきた名前。


それらが、一気に崩れ落ちていく。


大熊は、俯いた。


歯を食いしばっても、肩が震える。

年甲斐もなく。

漢として、決して見せまいとしてきたものが――


目の端に、滲んだ。


大熊「……くそ……」


声にならない嗚咽が、喉を締め付ける。


鹿戸は、その様子を見逃さなかった。

いや、待っていたと言わんばかりに、にたりと笑う。


鹿戸「終わりやな、大熊」


一歩、距離を詰める。

血に濡れた手が、大熊の首へと伸び――


その瞬間。


ガッ、と音がした。


鹿戸の腕を、横から掴む手。


鹿戸「あ?」


驚いたように振り向く、その先。


息を切らし、歯を剥き出しにした少年が立っていた。


輝だ。


輝は、震える腕で、それでも全力で鹿戸の腕を掴み続ける。


輝「……大熊に……」


ぎゅっと、指に力が入る。


輝「大熊に触れるなァ!!」


その叫びは、夜の喧騒を切り裂いた。


鹿戸は一瞬、目を見開き――

次の瞬間、心底可笑しそうに笑った。


鹿戸「はは……ガキが……」


だが。


その背後で。

大熊の目に、再び火が灯ったのを――

鹿戸は、まだ知らない。


鹿戸は、掴んだままの腕に力を込め、輝の身体を軽々と持ち上げる。


次の瞬間――

叩きつける。


鈍い音が、地面に響いた。


輝「ガハッ……!」


肺の空気が、一気に吐き出される。

内臓が揺れ、視界が白く弾けた。


鹿戸は、口元を歪める。


鹿戸「……弱すぎて笑いそうや」


そう言いかけ――

ふと、動きを止めた。


倒れたはずの輝が、膝をつきながらも――立ち上がったからだ。


ふらつきながら、それでも一歩、前へ。


鹿戸「……ほぉ?」


輝は、血の混じった唾を吐き捨てる。


輝「……大熊が戻ってくるまで」


息が荒い。

声も、震えている。


それでも、目だけは逸らさない。


輝「俺が……相手してやるよ」


鹿戸の笑みが、わずかに歪んだ。


その少し離れた場所で――

遅れて駆けつけた崎原が、柊を地面に押さえつける。


柊は抵抗もせず、俯いたまま動かない。


崎原「……っ!」


歯を食いしばり、声を張り上げる。


崎原「若頭! 若頭!!」


だが――

大熊の世界には、その声は遠い。


水の中に沈んだような感覚。

視界が揺れ、音がくぐもる。


体が重い。

思考が、上手く回らない。


――もう、終わりか。


そんな考えが、よぎった、その時。


輝の声だけが。

不思議なほど、はっきりと届いた。


「俺が相手してやる」


その言葉が、

沈みかけた意識に、錨のように突き刺さる。


大熊の指が、わずかに動いた。


胸の奥で、消えかけていた火が――

まだ、消えていないと、主張するように。


鹿戸の拳が、容赦なく輝の頬を打ち抜く。


鈍い衝撃音。

だが――輝は、倒れない。


膝が沈み、上体が揺れる。

それでも、地面に手をつくことはなかった。


鹿戸「……なんや、このタフさ!」


苛立ちを隠さず、鹿戸が舌打ちする。


その光景を、少し離れた場所で見つけた二人が、同時に声を上げた。


真鴉「は!? 輝!? また命かけてんのかよ、あいつ!!」


纏「もう! 本当に! こっちの寿命が縮むんだけど!」


二人は即座に駆け出す。

だが――前に出た瞬間、数人の組員が立ちはだかった。


真鴉が拳を構える。


真鴉「邪魔だ、どけ!」


纏も鞭を構えかけるが、周囲には一般人の視線。

思うように力を使えない。


その間にも、鹿戸の拳は輝を打ち続ける。


腹。

肩。

顎。


それでも――輝は、前を向いたまま、倒れない。


血を垂らしながら、視線だけを大熊に向ける。


輝「……なぁ、大熊」


声は掠れている。

だが、不思議なほど、真っ直ぐだった。


輝「俺、分かってるんだよ」


鹿戸の拳が、再び飛ぶ。

輝の身体が揺れる。


それでも、言葉は止まらない。


輝「こいつを倒せるのは……大熊しかいないって」


息を吸うのも苦しいはずなのに、輝は笑う。


輝「だからさ……」


血混じりの息を吐きながら。


輝「大熊が、戻ってこれるって……信じてるから」


もう一発、殴られる。

視界が霞む。


それでも、輝は立ったまま、叫ぶ。


輝「命、かけれてるんだよ……!」


その声が――

水の底に沈みかけていた大熊の意識を、強く叩いた。


拳を握る力が、確かに戻り始めていた。


輝は、息を整えることもせず、そのまま言葉を重ねた。


輝「大熊が……誰よりも仲間思いなの、俺は知ってる」


殴られ、膝が笑いそうになるのを必死で堪えながら。


輝「俺のこと、何回も庇ってくれたし……」


――ふっと、視界が切り替わる。


***


教室。

昼下がりのざわめき。


天城「おい、輝。学校の備品壊したのお前か? あそこにいたの、お前だけだぞ」


視線が集まる。

喉が鳴り、言葉が詰まる。


輝「えっと……は……」


言いかけた、その背後。


大熊「天城先生!」


低く、よく通る声。


大熊「俺がやったんや! いやぁ、ちょっと力入れすぎてもうてなぁ」


頭を掻きながら、悪びれもせず。


大熊「すんません! 弁償しますわ!」


教室がざわつく中、輝はただ、目を見開いていた。


――壊したのは、自分なのに。


***


現実に戻る。


鹿戸の拳が、再び輝を打ち抜く。

だが、輝は倒れない。


輝「……しょうもない事かもしれないけどさ」


血を吐きながら、それでも笑う。


輝「俺、あの時……めちゃくちゃ嬉しかったんだ」


その言葉に――

遠くで拘束されかけていた柊の身体が、ぴくりと反応した。


柊「……」


歯を食いしばり、震える声で呟く。


柊「……あの人は、いつもそうや……」


鹿戸の方を見ながら、悔しさと後悔を滲ませる。


柊「自分のことなんか、どうでもええみたいに……」


輝は、視線を大熊から逸らさない。


輝「だからさ……」


声が、少しだけ強くなる。


輝「そんな人が、ここで終わるわけないだろ」


その一言が――

深く沈みかけていた大熊の胸に、確かに届いた。


握りしめた拳が、震えながらも、ゆっくりと持ち上がる。


柊は、輝の言葉を真正面から受け止めた瞬間、堪えていたものが一気に崩れ落ちた。

顔を歪め、子どものようにしゃくり上げながら、その場に膝をつく。


柊「若頭ァ……いや……大熊さん……」


嗚咽混じりの声。


柊「すみません……すみません……俺……馬鹿な手下で……」


何度も、何度も頭を下げる。

その背中は、小さく震えていた。


その刹那――。


輝が踏み込み、鹿戸の死角へ回り込む。

首裏に腕をかけた瞬間、鹿戸の顔色が変わる。


鹿戸「……しもた!」


輝は歯を食いしばり、全身で締め上げながら叫ぶ。


輝「大熊ァ! いつまで落ち込んでんだ!!」


血の混じった声が、夜気を切り裂く。


輝「男らしくねぇぞぉぉ!!」


鹿戸は嘲るように口角を上げかける。


鹿戸「あいつはもう起きれな――」


その言葉は、最後まで紡がれなかった。


――ドン、と。

地面を叩く、重く、はっきりとした音。


鹿戸の視線が、思わずそちらへ向く。


そこには――

ゆっくりと、だが確かに立ち上がる影。


血に濡れ、息も荒い。

それでも背筋は折れていない。


大熊が、立っていた。


鹿戸「……なんやと……」


大熊は顔を上げる。

その瞳には、迷いも、濁りもない。


大熊「……悪いな」


低く、腹の底から響く声。


大熊「もう、目ぇ覚めたわ」


その瞬間、空気が変わった。

鹿戸は、本能的に悟っていた。


大熊「輝……てめぇ……」


一拍、置いて。


大熊「……かっけぇよ」


輝の腕に、さらに力がこもる。


大熊は、はっきりと続けた。


大熊「真鴉と纏の気持ちが、今わかったわ。……ありがとうな」


その声を聞いた瞬間、鹿戸が苛立ちを露わにする。


鹿戸「感動ごっこは終わりや……離れろ!!」


輝は離れない。

むしろ、叫ぶ。


輝「大熊ァ! 今だ!!」


大熊は一歩、踏み出す。

地面が、低く鳴った。


鹿戸が輝を引き剥がそうと腕を伸ばした、その刹那――


大熊の拳が、鹿戸の鳩尾に突き刺さった。


空気が潰れる音。


鹿戸「……がっ……!」


輝の腕が緩み、鹿戸の身体が前のめりになる。

その瞬間を逃さず、大熊は鹿戸の胸倉を掴み上げる。


大熊「もう終わりや、鹿戸」


輝は投げ出される形で後方へ飛ばされながらも、叫ぶ。


輝「気張れよ! 大熊ァ!!」


大熊は笑った。


大熊「ははっ! 言われんでも――」


拳に力が集まる。


大熊「もう、気張っとるわ!!」


夜の空気を切り裂くように、大熊の拳が振り抜かれた。

こまでお読みいただき、誠にありがとうございました。

長きにわたる大熊と鹿戸の因縁は、拳だけでなく、信頼と裏切り、そして「守るもの」の差によって決着を迎えます。強さとは何か、漢であるとはどういうことか――その問いに、大熊なりの答えが見えた場面だったかと思います。


また、輝という存在が、この決戦において大熊を現実へと引き戻す“楔”になったことも、物語として非常に重要な意味を持っています。誰かが信じてくれるからこそ、人は立ち上がれる。その想いを、少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。


物語はまだ続きます。

この戦いの果てに待つもの、そして大熊が背負う未来を、引き続き見届けていただければと思います。

次回51話ーー別れの挨拶

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