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霊業  作者: まんらび
2章
49/54

49話:不死身

人は、なぜ倒れても立ち上がるのか。

なぜ限界を越えてなお、前へ進もうとするのか。


守るべきものがあるとき、人は一瞬だけ――不死身になるのです。


第四十九話では、前話までで積み重なった傷と選択の結果が、

静かに、しかし確実に牙を剥き始めます。

誰も無敵ではなく、誰も安全ではない。

それでも彼らは倒れず、立ち続ける。


血に濡れ、息を切らし、恐怖を抱えながらも、

それぞれが「まだ終われない理由」を胸に刻んで。


この話は、派手な勝利の物語ではありません。

それでも確かに、“折れない”という強さを描く回です。

神宮寺は、瓦礫と血の匂いの中に倒れていた。

胸はわずかに上下し、かすかな呼吸だけが生の証を主張している。


静かな風の音。

それとは不釣り合いに、遠くから断続的に響く轟音があった。

壁が砕け、肉体が叩きつけられる音――大熊が、まだ暴れている。

それが嫌でも分かる。


その合間。

規則的で、急ぎながらも無駄のない足音が、階段を上ってくる。


神宮寺の視界はもう閉じていたが、その気配だけは確かだった。


真鴉だ。


真鴉は踊り場に辿り着くなり、倒れている影を見つける。

一瞬、時間が止まったように動きが止まり――次の瞬間、駆け出した。


真鴉「……神宮寺!!」


名を叫びながら膝をつき、胸元に手を伸ばす。

呼吸を確認し、脈を取る。

――ある。


真鴉は、はっきりと息を吐いた。


真鴉「……生きてる……」


視線を上げると、少し離れた場所に藤荊棘の亡骸が横たわっていた。

完全に力を失ったその姿を見て、短く呟く。


真鴉「……勝ったんだな」


それ以上、言葉はいらなかった。

真鴉は神宮寺の腕を取り、迷いなく背負う。


血で濡れた身体は重い。

だが、その重さを拒む理由はなかった。


真鴉は歩き出す。

戦場のど真ん中を、確かな足取りで。


――その頃。


別の階では、纏が走っていた。

息を切らしながら、廊下を曲がり、階段を駆け上がる。

輝の名を呼びはしない。ただ、探す。


足音は速く、近い。

一階、また一階。

建物全体に、纏の焦燥が伝播していく。


さらに上層。


大熊は、走りながら敵を薙ぎ倒していた。

立ち塞がる者を、止まることなく叩き伏せる。


大熊「邪魔だ……どけぇ!!」


拳と体当たりだけで道を切り開き、視線は常に前。

組長のいる場所を探し、進む。


それぞれが、別々の場所で、別々の戦いを続けている。

だが目的は一つ。


まだ、終わっていない。


静と動、絶望と意志。

そのすべてが交錯する中で、物語は次の局面へと踏み込んでいく。


エレベーターの扉が、鈍い音を立てて開いた。


大熊「……とりあえず、乗るか」


そう言いながら、大熊は一歩踏み出し、操作盤へ手を伸ばす。

乗り込むことに、迷いはなかった。


その横から、柊が覗き込む。


柊「全部押してみたらいいんじゃないですか? 物は試しで」


冗談めいた口調だったが、目は笑っていない。

大熊は一瞬だけ柊を見てから、肩をすくめた。


大熊「……なるほどな」


次の瞬間。


大熊は、操作盤に並ぶすべての階層ボタンを、まとめて叩き込んだ。


低く唸るような音とともに、扉が閉まる。

直後、エレベーターは勢いよく上昇を始めた。


表示灯が異常な速度で流れていく。


柊「……速くないですか?」


大熊「止まる気、ねぇな」


やがて最上階の表示を通過し、なおも上へ。

誰も知らない“その先”へと、箱は進む。


そのとき。


エレベーターが停止し、ゆっくりと扉が開いた。


――瞬間。


奥から、押し寄せる。


形容しがたい妖力。


熱でも、冷気でもない。

重く、粘つくような圧が、空気そのものを歪めて流れ込んでくる。


大熊は、無意識に拳を握りしめた。


柊「……」


言葉にならない感覚に、喉が詰まる。


輝は、一歩前に出た。

目の奥に、恐怖と同時に、強い覚悟が灯る。


輝「……ここだな」


間違いない。

この先にいる。


すべての元凶が。


大熊は、ゆっくりと振り返り、柊を見た。


大熊「……お前らは、ここにいろ」


柊「……」


大熊「この先、他の奴らが来たらな」


一拍置き、低く、しかしはっきりと言う。


大熊「『逃げとけ』って、そう伝えてくれ」


それだけ言うと、大熊はもう振り返らない。

輝の肩を軽く叩き、そのまま奥へと歩き出す。


輝も迷いなく続いた。


残された組員と柊は、壁にもたれかかりながら、その背中を見送る。

二人の背は、次第に闇の奥へ溶けていく。


重い妖力が、通路の先から絶えず流れてきていた。


しばらく無言で歩いたあと、大熊が口を開く。


大熊「……ほんま、着いてくるんか?」


振り返らず、確認するような声。


輝は一瞬だけ拳を握り、すぐに答えた。


輝「あぁ。着いてくよ」


迷いはなかった。


大熊は、鼻で小さく笑う。


大熊「……足だけは引っ張んなよ」


輝「引っ張らない。」


その言葉に、大熊は何も返さなかった。

ただ、歩調をわずかに速める。


二人は並んで、さらに奥へ。

妖力の中心へと、踏み込んでいった。


奥の部屋に辿り着き、大熊は無言でドアに手をかけた。

軋む音を立てて扉が開く。


広い部屋。

その最奥――淡い照明の下で、ひとりの男が椅子に腰掛けていた。


組長は、肘掛けに腕を預け、まるで待っていたかのようにそこにいる。


大熊「……あんたが組長か?」


低く、腹の底から出した声。


大熊「俺らのシマに、てぇ出したこと……後悔――」


その言葉が、途中で途切れた。


組長が、ゆっくりと顔を上げたからだ。


その瞬間。

大熊の表情が、凍りつく。


血の気が引き、瞳が大きく見開かれる。

まるで――死体を見る人間の顔。


組長「おぉ……」


薄く笑い、組長は言った。


組長「大熊。なんやその顔は」


愉快そうに、喉を鳴らす。


組長「まるで、死んだ人間を見るような顔しやがって」


大熊の喉が、ひくりと鳴る。


大熊「……そんな……」


言葉が、続かない。


輝「どうした? 大熊!」


輝が一歩前に出る。

だが大熊は、視線を逸らさない。


大熊「……お前は……」


震える声で、吐き出す。


大熊「俺が……殺したはずや……!」


室内の空気が、一気に張り詰めた。


組長は、椅子に深く腰を沈めたまま、口角を上げる。


組長「殺した……か」


楽しそうに、噛みしめるように。


組長「はは……人間ってのは、都合のええもんやな」


ゆっくりと立ち上がり、影が床に伸びる。


組長「“死んだと思った”だけで、全部終わった気になれる」


その視線が、今度は輝へと向く。


組長「……そっちの坊主は、初対面やな」


輝は歯を食いしばり、一歩も退かない。


輝「……大熊。説明してくれ」


大熊は、拳を強く握りしめた。


大熊「……あいつはな」


低く、重く。


大熊「俺が、確実に殺したはずの男や」


そして――

再び、組長を見る。


そこにあるのは、怒りでも恐怖でもない。

理解できないものを前にした、純粋な嫌悪だった。


部屋の奥で、組長が静かに笑った。


大熊が過去を思い出すように――回想が、静かに始まる。


学生時代の大熊が通っていたのは、

地元でも名の知れた大荒れの高校だった。


廊下では怒号が飛び、

教室では机が宙を舞う。

放課後になれば、誰が誰を殴っただの、

誰が保健室送りになっただの――

そんな話が日常のように転がっている場所。


喧嘩の嵐。

暴力が、呼吸と同じくらい自然に存在する環境。


だが、その中心にいながら――

大熊は、無闇に手を出さない生徒だった。


理由は、ただ一つ。


幼い頃から、

実の父親――大熊組の組長に、

繰り返し言われてきた言葉があったからだ。


父「不要な喧嘩は、絶対にするな」


厳しい声だった。

だが、それは怒鳴りつけるようなものではなく、

どこか“戒め”に近い言い方だった。


父「お前の体はな……

 普通の人間のもんやない」


その意味を、

大熊は身をもって知っていた。


恵まれすぎた体格。

骨格。

筋肉のつき方。


殴り方を知らなくても、

“振る”だけで、相手が壊れる。


それが、大熊という人間だった。


小学生の頃。

些細な口論の末、

クラスメイトを突き飛ばしたことがある。


ただ、それだけだった。


――それだけだったはずなのに。


相手は、頭を打ち、

病院送りになった。


教室は凍りつき、

教師は血相を変え、

親が呼ばれ、

学校は大問題になった。


その夜。


父は、大熊の前に座り、

いつもより低い声で言った。


父「……お前はな」


一拍、置いて。


父「喧嘩をしたら、

 相手を殺す可能性がある側の人間や」


その言葉は、

叱責でも、脅しでもなかった。


事実の宣告だった。


父「せやから、

 お前は選ばなあかん」


父「拳を振るう時は、

 “覚悟がある時だけ”や」


その日から、大熊は学んだ。


――力を持つということは、

――引き金を常に握らされているのと同じだということを。


高校に入ってからも、

周囲は喧嘩を仕掛けてきた。


「でかいからって調子乗んなよ」

「ヤクザの息子なんやろ?」


何度も、何度も。


だが大熊は、

拳を握り、

歯を食いしばり、

耐えた。


不要な喧嘩は、するな。


その言葉を、

胸の奥に刻みつけながら。


――だが。


その“選択”を、

踏み越えなければならない日が、

確実に近づいていたことを。


当時の大熊は、

まだ知らなかった。


いつも通り、教室は騒然としていた。


椅子が倒れ、

机がぶつかり、

怒鳴り声と笑い声が混ざり合う。


そんな中で――

一際異質な存在が、ひとりだけいた。


窓際の席。

背筋を伸ばし、

教科書を開き、

黒板を見つめている男。


喧嘩が起きても、

誰かが殴られても、

視線すら動かさない。


鹿戸しかど 飛雄とびお


――後に、敵組の組長となる男。


大熊は、ふと視線を向けた。


大熊(……あんなやつ、いたか?)


不良だらけの教室で、

“普通”に授業を受けていること自体が、

異常だった。


チャイムが鳴り、授業が終わる。

騒ぎがさらに増す中、大熊は立ち上がり、

その男の席へ向かった。


大熊「なぁ」


鹿戸は、ゆっくりと顔を上げる。

視線が合った瞬間、

大熊はわずかに息を呑んだ。


――目が、同じだった。


大熊「……喧嘩、せぇへんのか?」


鹿戸は一瞬だけ考え、

それから、淡々と答えた。


鹿戸「強すぎるから」


大熊「……は?」


鹿戸「俺がやると、周りが壊れる」


その言葉に、

冗談の色は一切なかった。


鹿戸「それが、嫌なんや」


その瞬間、

大熊の胸に、妙な共鳴が走った。


大熊「……分かるわ」


鹿戸が、初めてわずかに目を細める。


鹿戸「……あんたもか」


大熊「小さい頃な、

 ちょっと手ぇ出しただけで、人が倒れた」


大熊「それ以来、

 喧嘩は選べって言われとる」


鹿戸は、黙って聞いていた。

そして、ぽつりと呟く。


鹿戸「同じやな」


それだけで、

二人の距離は一気に縮まった。


その日からだった。


昼休みも、

放課後も、

帰り道も。


大熊と鹿戸は、

自然と一緒にいるようになった。


無駄なことは話さない。

だが沈黙が苦にならない。


周囲が喧嘩に明け暮れる中、

二人だけが、

少し距離を置いて世界を見ていた。


鹿戸「なぁ、大熊」


大熊「なんや」


鹿戸「俺ら、普通に生きられると思うか?」


大熊は少し考え、

肩をすくめた。


大熊「さぁな。

 でも……喧嘩せんで済むなら、それでええ」


鹿戸は、静かに笑った。


鹿戸「せやな」


――その笑みが、

後に“狂気”へ変わることを、

この時の大熊は、まだ知らない。


ただ、確かに思っていた。


(こいつは……

 俺と同じ場所に立っとる)


力を持ちすぎた人間同士が、

同じ檻の中で、

束の間、肩を並べていただけだった。


夕暮れの帰り道。

校舎から離れるにつれ、喧騒は遠ざかり、街の音だけが残る。


大熊と鹿戸は、並んで歩いていた。

言葉は少ないが、足並みは自然と揃っている。


そのとき――


路地の奥から、荒い声が聞こえた。


半グレ「金出せや、さっさとせぇ!」


男の悲鳴。

殴られる鈍い音。


視線を向けると、

数人の半グレに囲まれ、男が地面に転がされていた。


鹿戸は一瞥し、すぐに視線を戻す。


鹿戸「……ほっとけ」


淡々とした声だった。


鹿戸「関わる理由がない。

 放っといても、死にはせぇへんやろ」


大熊は、何も言わなかった。


ただ――

肩にかけていた鞄を、静かに地面へ落とす。


ガサリ、と乾いた音。


次の瞬間。

大熊は、走り出していた。


鹿戸「……はぁ」


鹿戸は深く息を吐く。


半グレ「なんやコラ、見てんじゃ――」


言葉は、最後まで出なかった。


大熊の身体が宙を舞う。


助走も、溜めもない。

ただ一直線に――


飛び膝蹴り。


ドゴッ――!!


顎に直撃した半グレの身体が、

宙を回転し、そのまま積まれたゴミ袋の山へ突っ込む。


袋が弾け、生ゴミが飛び散る。


半グレ「が……っ……」


そのまま動かなくなった。


残りの半グレたちが、一瞬硬直する。


半グレ「な、なんやこいつ――!」


だが、次の瞬間にはもう遅かった。


背後に、いつの間にか鹿戸が立っている。


半グレが振り向いた瞬間、

手首を取られ、体勢を崩される。


関節を極め、

重心をずらし、

地面に伏せさせる。


まるで――

赤子をいなすように。


抵抗する暇すら与えない。


最後の一人も、

足を払われ、壁に叩きつけられ、動かなくなった。


静寂。


鹿戸は、軽く服の埃を払う。


大熊は、倒れた男を見下ろす。


男は震えながらも、生きていた。


大熊「大丈夫か」


男は、何度も頷く。


鹿戸はその様子を見て、肩をすくめた。


鹿戸「優しすぎるんやって」


大熊「放っとけんかっただけや」


鹿戸「それが、一番厄介なんや」


鹿戸はそう言って、

路地の出口へ歩き出す。


大熊は一瞬だけ立ち止まり、

男に背を向けた。


そして、鹿戸の背中を追う。


夕焼けの中、

二人の影が、長く伸びていた。


――この時すでに、

大熊は「守る側」へ、

鹿戸は「切り捨てる側」へ。


同じ力を持ちながら、

進む方向は、

静かにズレ始めていた。


翌朝。


大熊が教室の扉を開けた瞬間、

いつもと違う空気に気づいた。


――自分の席に、誰かが座っている。


しかも、やけに姿勢がいい。


大熊が足を止めた、その刹那。

窓際の席にいた鹿戸がこちらを見て、深いため息をついた。


鹿戸「……来たか」


顎を、ひょいと前に突き出す。

指し示された先――大熊の席。


その男が、勢いよく立ち上がった。


柊「大熊さんですね!!」


教室中に響く声。


大熊「……さ、さん?」


聞き慣れない呼ばれ方に、思わず眉をひそめる。


鹿戸「俺らの子分になりたいんやて」


他人事のように、あっさり言う。


大熊「……は?」


柊「はい!!」


柊は、胸を張って一歩前に出た。


柊「俺、柊と申します!」


大熊「……柊、か」


柊「はい!!!

 フルネームはひいらぎ 焔華ほのかで!」


一瞬の間。


柊「女っぽい名前ってだけで!

 散々虐げられてきた人生を送ってます!!!」


大熊「お、おう……」


情報量が多すぎる。


周囲のクラスメイトが、

こっそりとこちらを見ているのが分かる。


柊「昨日助けていただいて!

 あのあと病院で縫ってもらって!

 でも命は助かりました!」


柊「それで思ったんです!

 俺、この人について行かなきゃ死ぬなって!!」


大熊「……極端やな」


鹿戸「ほんまにな」


鹿戸は机に肘をつき、頬杖をついたまま言う。


鹿戸「朝から教室全部回ってな。俺らのこと探してたんやってさ」


柊「制服見て同じ学校って気づいたんです!

それで色んな教室行って探してました!!」


鹿戸「よう喋るな……」


心底うんざりした声。


大熊は、頭を掻いた。


大熊「……昨日のは、たまたまや。

 別に、守ってやる義理も――」


柊「俺!昨日、あのままやったら確実に死んでました!!」


柊「命救われたら、ついて行くって決めてます!!」


あまりにも真っ直ぐな目。


大熊は、一瞬言葉を失う。


鹿戸は、その様子を横目で見て、鼻で笑った。


大熊「何や」


鹿戸「お前は、こうやって人を引き寄せる...で、そいつらが傷ついても、全部背負おうとする」


大熊「……」


柊「大熊さん!!」


大熊が目を細める


柊「俺、弱いです!

 喧嘩も強くないです!

 でも!」


一歩、踏み出す。


柊「逃げません!!

 あなたが前に出るなら、俺は後ろに立ちます!!」


教室のざわめきが、一瞬止まった。


鹿戸は、椅子の背にもたれながら、

ぽつりと呟く。


鹿戸「……重いなぁ」


大熊は、深く息を吐いた。


大熊「……子分とか、そんなん知らん」


大熊はそっぽを向き


大熊「勝手について来るなら、

 勝手にせぇ」


柊「はい!!!」


即答。


鹿戸「聞いてへんやろ、今の」


柊「聞いてます!!!

 つまり許可ですね!!!」


鹿戸「違うわ」


だが、鹿戸の口元は――

ほんのわずかに、緩んでいた。


それからというもの。


大熊と鹿戸が行くところ、

必ず柊がいた。


逃げるでもなく、

遠慮するでもなく、

当然のように、そこにいる。


放課後。


商店街の外れで、三人並んで歩いていると。


「ドーナツ美味いですね、これ」


紙袋を覗き込みながら、満足そうに頷く。


大熊

「……まだ食うんか」


「はい!

 カロリーは正義ですから!」


鹿戸

「意味分からん理論やな……」


別の日。


ゲームセンターの前で立ち止まると。


「プリクラ撮らないっすか!!」


鹿戸

「撮らん」


即答。


「えぇ〜!?

 一生の思い出になるやつですよ!?」


大熊

「ならん」


「冷たい!!

 でも撮ります!!!」


鹿戸

「話聞けや」


また別の日。


河川敷で座り込んでいると。


「水、いります?」


気づけば、

ペットボトルを差し出している。


大熊

「……なんで常に持ってんねん」


「備えあれば憂いなしです!」


鹿戸

「お前、

 俺らを災害かなんかと思ってへん?」


「大熊さんは特に、

 いつ何が起きてもおかしくないので!」


大熊

「失礼やな……」


だが。


追い払っても、

無視しても、

怒鳴っても。


柊は、いなくならなかった。


殴られる距離には立たず、

だが逃げる距離にも下がらない。


必ず一歩後ろ。


それが、柊の定位置になっていた。


ある日。


三人で歩いている途中、

ガラの悪い連中と目が合った。


鹿戸が、ほんの少しだけ肩を落とす。


――来るな、という合図。


だが。


柊は、

大熊の背後から一歩も動かなかった。


震えている。

だが、足は止まらない。


大熊は、それに気づいて、

小さく舌打ちをした。


大熊

「……怖いなら、下がれ」


「……怖いです」


正直な声。


「でも、

 ここにいろって言われてないんで」


鹿戸

「……はぁ」


鹿戸は、頭を掻いた。


鹿戸

「ほんま、面倒くさいの拾ったな」


大熊

「……せやな」


そう言いながらも。


大熊は、

無意識に一歩、前に出ていた。


柊を、背中で隠す位置に。


その背中を見て、

柊は、ぎゅっと拳を握る。


(――この人は、

 逃げへん人や)


それだけで、

ついて行く理由には、十分だった。


こうして。


大熊と鹿戸の後ろには、

いつも一人分の影が増えた。


大熊は、柊が下についてくれたことを、

素直に悪くないと思っていた。


それまで胸の奥に引っかかっていた、

親父の言葉。


――不要な喧嘩はするな。

――お前の拳は、人を壊す。


守るために使うなら、

それは“不要”じゃない。


そう、勝手に解釈した。


その日から、大熊は変わった。


絡まれている弱い奴を見れば、

迷わず前に出た。


逃げ場のないところで泣いている奴がいれば、

拳を握った。


一切の手加減なし。


半端な覚悟で来た相手は、

全員、地面に転がした。


噂は、あっという間に学校中に広がる。


――大熊に喧嘩を売るな。

――アイツは、次元が違う。


だが同時に。


「腕に覚えがある」連中が、

面白半分で大熊を訪ねてきた。


結果は、決まっていた。


一人残らず、

当たり前のようにねじ伏せられた。


倒された連中は、

殴られた痛みよりも、

その“差”に呆然としていた。


気づけば。


大熊の後ろには、

十人、二十人――

数え切れない人間が並んでいた。


命令なんてしていない。


ただ、

「ここにいろ」

と言っただけ。


それだけで、

誰も離れなかった。


柊は、その先頭にいた。


大熊の一歩後ろ。

いつもの位置。


ある昼休み。


屋上のフェンスにもたれ、

風に吹かれながら、鹿戸がぼそりと言った。


鹿戸

「最近、機嫌ええよなぁ。大熊」


大熊

「まぁなぁ!」


笑いながら、

空を見上げる。


大熊

「守るもんがあるって、

 悪ないな」


鹿戸は、

その横顔を見て、目を細めた。


鹿戸

「……守る、か」


その言葉に、

わずかな違和感が混じる。


鹿戸

「その人数、

 全部守るつもりか?」


大熊

「当たり前やろ」


即答。


迷いはない。


鹿戸は、

小さく息を吐いた。


鹿戸

「……ほんま、

 危なっかしい男や」


その時。


背後で、

柊が小さく声を上げた。


「でも、

 それが大熊さんっすから」


大熊

「お前は黙っとれ」


「はい!!」


即答。


三人の間に、

一瞬の静寂が落ちる。


とある日。

学校から帰り、玄関の戸を開けた瞬間だった。


何の前触れもなく、

拳が飛んできた。


鈍い衝撃音。


次の瞬間、大熊の身体は宙を舞い、

玄関のドアごと突き破って外へ叩き出される。


背中から地面に叩きつけられ、

肺の空気が一気に吐き出された。


息が、できない。


痛み――

今まで受けてきた喧嘩の拳とは、次元が違う。


何倍でもない。

何百倍でもない。


何億倍だ。


内臓を直接殴られたような、

骨の奥まで震える痛み。


大熊は、何が起きたのか理解できず、

ただ地面に転がったまま、目を見開いていた。


ゆっくりと、影が差す。


玄関から、

大熊組組長――

実の父親が歩み出てきた。


親父「……噂は、早いもんやな」


低く、腹に響く声。


親父「学校をな、

 暴力で制圧した言う話が、

 もうワシの耳に入っとる」


大熊「……っ」


身体を起こそうとして、

再び咳き込む。


親父は、表情ひとつ変えない。


親父「お前、何をしとる」


大熊「……違う……!」


必死に、声を絞り出す。


大熊「俺は……弱い奴らを守っただけや!」


親父「――守った?」


親父の眉が、わずかに動く。


大熊「喧嘩売られて、

 泣かされて、

 逃げ場もない奴らをや!」


大熊「それの何が悪いんや!!」


叫ぶ。


今まで、

一度も逆らったことのない相手に。


親父は、静かに息を吐いた。


親父「……お前な」


一歩、近づく。


親父

「“守る”言う言葉はな、

 力を持つ側が一番、使うたらあかん言葉や」


大熊「なんでや……!」


親父「守るつもりで殴った拳は、

 相手から見たら――」


親父は、

大熊を見下ろしたまま、言った。


親父「ただの暴力や」


大熊「……っ!」


親父「弱いもんを守りたい言うなら、

 拳に頼るな」


親父「お前のその身体はな、

 人を壊すためにある」


親父「せやから、

 ワシは何度も言うた」


親父「不要な喧嘩は、するな」


沈黙。


風が、割れたドアの隙間を吹き抜ける。


大熊は、

歯を食いしばった。


大熊「……じゃあ、

 見殺しにせぇ言うんか」


親父「そうや」


即答だった。


親父「守れん命もある。

 それを受け入れるのが、

 大人や」


大熊の胸に、

何かが決定的に落ちた。


大熊「……俺は」


ゆっくり、立ち上がる。


震える脚で、

それでも立った。


大熊「そんな大人には、

 ならへん」


親父の目が、

初めて細くなる。


親父「……ほう」


大熊「俺は、

 俺の拳で、

 守れるもんは全部守る」


親父「それが、

 どういう道か分かっとるか?」


大熊「分かっとる」


拳を、強く握る。


大熊「……戻れん道やろ」


親父は、

何も言わなかった。


ただ一度だけ、

大熊を――

組長ではなく、父親として見つめた。


その沈黙が、

すべてだった。


この日を境に。


大熊は、

父の背中から完全に離れた。


それからというもの。

家の中で、大熊は一言も喋らなくなった。


朝も、夜も。

食卓についても、父親とは目を合わせない。

返事もしない。

ただ、そこにいるだけの存在になった。


父親も、それ以上何かを言うことはなかった。

叱責も、説教もない。

あるのは、張りつめた沈黙だけだった。


――そんな日々が、しばらく続いた。


ある夜。

大熊は、トイレに行くため部屋を出た。


家はすでに寝静まっている。

廊下は暗く、足音がやけに響く。


そのときだった。


父親の部屋の前を通りかかった瞬間、

低い話し声が、耳に入った。


大熊は、思わず足を止める。


扉の向こうから聞こえるのは、

聞き慣れた――組の幹部たちの声だった。


大熊組幹部A「組長……あなたも、もう引退の歳です」


慎重で、探るような口調。


幹部A「ここは一つ……

 健二に、組長の座を譲りましょうや」


その言葉に、

大熊の指先が、ぴくりと動いた。


幹部B「今のまま燻ってても、何も出来ないっすよ」


幹部B「若い衆は、不満溜めとります」


幹部B「動かん組に、未来はないっす」


一瞬の間。


そして、

短く、切り捨てる声が返ってきた。


組長「――断る」


迷いのない声。


幹部C「ここで、

 頑固親父の意地張っても」


幹部C「組が、崩壊するだけですわ!」


語気が強まる。


だが――


組長「断るッ!」


怒声が、部屋を震わせた。


組長「今日は話終わりや!」


組長「帰れ!」


しばしの沈黙の後、

慌ただしい足音が遠ざかっていく。


やがて、

重い扉が閉まる音。


廊下には、

再び静寂が戻った。


大熊は、その場から動けなかった。


胸の奥が、

じわじわと熱を持ち始める。


――譲る気は、ない。


――俺を認める気も、ない。


拳が、自然と握り締められる。


(……結局)


歯を食いしばる。


(親父は、

 俺を否定するだけで……)


弱者を守るなと言い、

拳を振るうなと言い、

それでいて――

自分の座だけは、決して手放さない。


大熊の中で、

父親という存在が、音を立てて崩れていく。


憎しみが、

静かに、確実に、溜まっていった。


その夜、

大熊は何も言わず、自室へ戻った。


放課後。

三人で歩いていた帰り道。


夕焼けに染まる校舎を背に、大熊は足を止めた。

少しだけ、呼吸を整える。


大熊「……なぁ、鹿戸。柊」


二人が振り返る。


鹿戸「どしたんや、急に」


柊「なんか深刻そうっすね?」


大熊は、一度だけ視線を落とし、

それから真っ直ぐ前を見た。


大熊「俺の親父……

 大熊組の、組長や」


一瞬。


時間が、止まったようだった。


鹿戸の目が、見開かれる。


鹿戸「……は?」


次の瞬間、声が裏返る。


鹿戸「お前……

 大熊組の息子か!?」


大熊は、短く頷いた。


それを見た柊が、遅れて固まる。


柊「……え?」


理解が追いつかないまま、

もう一度聞き返す。


柊「……嘘、でしょ!?」


柊は大熊の顔をまじまじと見つめ、

次に鹿戸を見て、

また大熊を見る。


柊「え、え、え……!?」


柊「じゃあ、あの大熊組の……

 関西一帯で名前出しただけで空気変わる、

 あの!?」


鹿戸「……マジかよ」


鹿戸は、頭を掻いた。


鹿戸「そら、強いわけや……」


しばらく、沈黙。


大熊は、拳を軽く握りしめる。


大熊「俺は……あいつみたいには、ならん」


低い声。


大熊「組長の座なんぞ、要らん」


柊「……大熊さん」


柊は、少しだけ表情を和らげた。


柊「俺、納得しました」


大熊「……何がや」


柊「大熊さんが喧嘩する理由」


柊「威張りたいからでも、

 強いって見せたいからでもない」


柊「ちゃんと……

 守ろうとしてる人の拳っす」


鹿戸は、鼻で笑った。


鹿戸「ほんま、面倒な血筋引いとるなぁ」


そして、いつもの調子で言う。


鹿戸「でもまぁ」


鹿戸

「俺は、お前が大熊組やから一緒におるんやない」


鹿戸

「“お前”やから一緒におんねん、」


大熊は、少しだけ目を伏せた。


その言葉が、

胸の奥に、静かに染み込んでいく。


この時はまだ、誰も知らなかった。


この関係が、

この三人の時間が――

やがて血と裏切りに塗れる未来へと続くことを。


数日後――。


校内に、不穏な噂が流れ始めた。


大熊の手下が、何者かに襲われた。

しかも一人や二人ではない。


病院送り。

そのうち数人は、意識不明の重体。


その報せを聞いた瞬間、大熊の中で何かが切れた。


大熊

「……誰や」


低く、抑えた声。

だがその奥にある怒りは、抑えきれていなかった。


鹿戸

「偶然やないな」


鹿戸は短く言い切る。


鹿戸

「完全に、狙われとる」


「……やり方が、エグすぎます」


柊の拳が震えていた。


大熊は、答えずに歩き出した。


その日から、大熊は動いた。


噂を拾い、

裏の連中を洗い、

“近くで強い”と名の挙がる連中を、一人ずつ訪ねた。


最初は、言葉で聞いた。


大熊

「俺の仲間をやった奴、知らんか」


返ってくるのは、決まって同じ。


「知らねぇな」


「興味ねぇ」


「帰れ」


――次からは、聞き方を変えた。


薄暗い倉庫。

逃げ場のない路地裏。


「っ……何だよ……!」


大熊は、何も言わずに拳を振るった。


鈍い音。


男の体が宙を舞い、壁に叩きつけられる。


「がっ……!!」


大熊は、ゆっくりと近づき、

髪を掴んで引き起こした。


大熊

「……もう一回聞く」


低い声。


大熊

「俺の仲間をやったのは、誰や」


「し、知らねぇ……!」


次の瞬間。

腹に、重い一撃。


「ごふっ……!!」


床に転がった男の前に立ち、

影が覆い被さる。


大熊

「嘘つくな」


大熊

「俺の仲間はな……

 遊びで殴られるような奴らやない」


拳が、何度も落ちた。


叫び声が、やがて嗚咽に変わる。


最後に、男は泣きながら吐き出した。


「……鹿戸……!」


大熊の動きが、止まった。


「鹿戸飛雄が……

 裏で、人集めとるって……」


大熊

「……鹿戸、やと?」


その名を口にした瞬間、

胸の奥に、嫌な感覚が広がる。


“そんなはずがない”

“だが、もしも――”


疑念が、確信に変わり始めていた。


大熊は、男を放り捨て、背を向ける。


夕闇の中、

その背中は、以前よりも重く、硬くなっていた。


この時からだ。


大熊の拳が、

守るための拳から、

壊すことを躊躇わない拳へと変わり始めたのは。


物陰の先。

柊と鹿戸が向かい合っていた。


「……それは、本当です?」


鹿戸

「さぁな。

 そうかもなぁ」


軽い口調。

だが、その目は笑っていない。


大熊は足を止め、柱の影に身を沈めた。

無意識のうちに、呼吸を殺している。


鹿戸

「俺はな、組を設立するって言ってんだ」


鹿戸

「お前も入れ。

 悪い話ちゃうやろ」


「……それは……

 大熊さんには、話したんですか?」


その一言に、鹿戸の口角が上がる。


鹿戸

「今から言うつもりや」


鹿戸

「あいつにはな、

 二番手として俺と歩んでもらう」


「……」


沈黙。


鹿戸

「お前は口も利くし、動ける。

 長い目で見たら、ええ位置に置いたる」


鹿戸

「どうや?

 悪い話やないやろ?」


「……俺は……」


柊は、一瞬だけ目を伏せてから、はっきりと言った。


「大熊さんが断るなら、

 俺も断ります」


空気が、凍りついた。


鹿戸

「……あ?」


次の瞬間。


鹿戸

「――そうか!!」


声を荒げ、笑う。


鹿戸

「あいつなら入ってくれるから、柊も入るってことやな!」


「いや、まだ決まったわけじゃ――」


言い切る前だった。


ゴッ。


鈍い音。


鹿戸の拳が、柊の顎を正確に打ち抜いた。


柊は声すら上げられず、

糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。


鹿戸

「入るっつったんやからな」


鹿戸

「黙って、俺に従っとけばええねん」


倒れた柊に、容赦なく拳が落ちる。


一発。

二発。


鹿戸

「――調子乗りすぎや」


三発目を振り上げた、その時。


ガシッ。


腕が、止まった。


鹿戸

「……」


振り向く。


そこにいたのは――大熊だった。


鹿戸の腕を、片手で掴み、

微動だにせず立っている。


鹿戸は一瞬だけ目を見開き、

すぐに、万遍の笑みを浮かべた。


鹿戸

「……おぉ」


鹿戸

「来とったんか、大熊」


その笑顔のまま、

まるで何事もなかったかのように、言う。


鹿戸

「なぁ、提案がある」


鹿戸

「俺と――組...作らんか?」


その言葉は、

友情の形をした――宣戦布告だった。


大熊が掴んだ鹿戸の腕が、ギシギシと嫌な音を立てた。


鹿戸

「おぉ……!」


痛みに歪むはずの顔は、むしろ昂揚している。


鹿戸

「やっぱええ力やなぁ、大熊!」


鹿戸

「俺たちなら――

 関西どころか、全国制覇も夢やない!」


その言葉に、大熊は一切応えない。


ただ、無言のまま――

掴んでいた腕を、思い切り引いた。


鹿戸の身体が強引に引き剥がされ、

柊の上から放り出される。


鹿戸

「――お?」


次の瞬間。


大熊はもう片方の拳を、迷いなく握り締めていた。


腰を落とし、

肩が沈み、

拳に体重が乗る。


――ドンッ!!


鈍く、重い衝撃音。


大熊の拳が、鹿戸の頬を真正面から撃ち抜いた。


鹿戸の身体が宙に浮き、

数メートル先まで吹き飛び、

地面を転がる。


土埃が舞い、

一瞬、静寂が落ちた。


鹿戸は、ゆっくりと起き上がる。

口の端から血を垂らしながら――笑っていた。


鹿戸

「……はは」


鹿戸

「やっぱ、ええわ」


鹿戸

「その拳や。

 それがあるから、お前は――」


大熊

「黙れ」


低く、押し殺した声。


大熊は、倒れている柊の前に立ち、

鹿戸を睨み据える。


大熊

「俺はな……」


拳を、再び握る。


大熊

「仲間を殴るために、

 その力を持っとるんやない」


鹿戸の笑みが、わずかに歪んだ。


鹿戸

「……仲間?」


鹿戸

「いつから、そんな甘いこと言うようになったんや」


大熊

「昔からや」


大熊

「お前が変わっただけや、鹿戸」


一拍。


鹿戸の表情から、完全に笑みが消えた。


鹿戸

「……ほぉ」


鹿戸

「なら、決まりやな」


鹿戸

「お前は俺の敵や」


その言葉に、大熊は一歩踏み出す。


大熊

「最初から、そのつもりや」


大熊は一歩、前に出た。


鹿戸

「……来るんか?」


次の瞬間――

鹿戸が踏み込んだ。


鋭い右。

喧嘩慣れした、殺すための拳。


だが。


ドンッ。


大熊は受けない。

避けもしない。


真正面から、拳で拳を叩き潰した。


鹿戸

「――っ!?」


骨が軋む音が響く。

鹿戸の腕が、ありえない方向に折れ曲がった。


鹿戸

「ぐ、ぁ……!」


悲鳴を上げる暇も与えない。


大熊は距離を詰め、

腹、鳩尾、肋――

重い打撃を連続で叩き込む。


一発一発が、

「倒す」ためではない。

「終わらせる」拳だった。


鹿戸の身体が宙に浮き、

地面に叩きつけられる。


それでも鹿戸は、歯を食いしばって立ち上がろうとする。


鹿戸

「……俺は……」


その瞬間。


大熊の踵が、鹿戸の胸元にめり込んだ。


ズンッ!!


地面が揺れる。


鹿戸の背中がアスファルトに沈み、

肺の空気が一気に吐き出される。


鹿戸

「……っ、は……」


大熊は、馬乗りになる。


逃げ場はない。


拳を振り上げ――

一撃。


鹿戸の視界が白く弾けた。


さらに、もう一撃。


顔面が歪み、

意識が飛びかける。


鹿戸

「な……なんで……」


震える声。


鹿戸

「お前ほどの力があれば……

 俺となら……!」


大熊の拳が、止まる。


だが、それは躊躇ではなかった。


大熊

「力があるからこそや」


静かに、冷たく。


大熊

「弱いもん踏みつけるような真似は、

 俺はせぇへん」


最後に――

渾身の一撃。


鹿戸の意識が、完全に途切れた。


大熊は立ち上がり、

倒れた鹿戸を一瞥する。


そこに、かつての友を見る目はない。


大熊は倒れ伏す鹿戸に、もう一度だけ視線を落とした。

そこにあるのは憎しみでも怒りでもない。――完全な決別だった。


大熊は、地面に崩れる柊の肩を掴み、無言で立たせる。


「……大熊さん……」


大熊は一瞬だけ口を開き、低く告げた。


大熊

「これ以上、俺たちに関わるな」


鹿戸は動かない。

息はあるが、意識はない。


大熊

「絶交や」


それだけ言い捨てると、

大熊は柊を連れ、その場を背にした。


振り返らない。

呼び止める声も、追ってくる足音もない。


ただ、夜風だけが二人の背中を押していた。


――この瞬間、

かつての友情は、完全に終わった。


鹿戸は、それから数か月――

一切、姿を現さなかった。


街の噂にも、半グレの界隈にも、その名は出てこない。

まるで、最初から存在しなかったかのように。


「……鹿戸さん、今ごろ何してるんでしょうね」


何気ない一言だった。

だがその瞬間、大熊の足が止まる。


大熊

「もう考えるな」


低く、強い声。


大熊

「“さん”付けもするな。忘れろ」


「……すみません」


そこへ、少し遅れて歩いていた男が首をかしげる。


崎原

「鹿戸……?」


崎原 神璽。(さきはら しんじ)

一か月前、半グレに囲まれていたところを、大熊と柊に助けられ、

それ以来、二人について回っている男だった。


崎原

「その人、そんなにヤバい人だったんですか?」


大熊は、ほんの一瞬だけ黙る。

そして、吐き捨てるように言った。


大熊

「……ええんや」


大熊

「そいつのことは、もう忘れたいわ」


その言葉の裏に、

完全に断ち切れなかった何かが残っていることを、

柊も崎原も、感じ取っていた。


だが誰も、それ以上は踏み込まなかった。


朝。

大熊が登校すると、校内は異様なざわめきに包まれていた。


生徒A

「大熊さん!」


切羽詰まった声に足を止める間もなく、続けて叫ばれる。


生徒A

「柊と崎原が……!」


その言葉を最後まで聞く前に、大熊は走り出していた。

廊下を駆け、扉を乱暴に開けて保健室へ飛び込む。


そこにあったのは、

見るも無惨な姿でベッドに横たわる二人だった。


包帯と消毒の匂い。

殴られ、蹴られ、徹底的に痛めつけられた痕が、隠す気もなく残されている。


大熊

「……柊、崎原」


柊がゆっくりと目を開く。


「すんません……大熊さん……」


声はかすれ、悔しさが滲んでいた。


崎原

「……油断してました」


大熊は感情を押し殺したような低い声で問いかける。


大熊

「誰や」


一瞬の沈黙。

柊が視線を逸らしながら、はっきりと告げた。


「……鹿戸さんです」


その名を聞いた瞬間、

大熊の中で何かが音を立てて崩れた。


「明日の夜……“大熊を連れてこい。タイマン張ってやる”って……」


静まり返る保健室。

大熊は二人から目を離さず、淡々と言い放つ。


大熊

「なるほどなぁ」


そして、感情の芯だけを残した声で続けた。


大熊

「そっちがその気なら――お望み通り、ぶっ殺したるわ」


放課後。

大熊は一度、家へ戻った。


玄関を抜け、奥へ進もうとしたその時。

親父の部屋の前から、聞き覚えのある声が漏れてきた。


幹部

「……もうそろそろ、健二を選ばない理由を教えてくださいよ」


大熊は一瞬、鼻で笑い、そのまま通り過ぎようとする。

だが――


親父

「待て」


ではなく、

誰に向けたとも知れない、静かな声が耳に刺さった。


親父

「……俺はな」


大熊は、無意識のうちに足を止めていた。


親父

「あいつには、汚れて欲しくないんや」


幹部たちの息を呑む気配。


親父

「名の古い大熊組を継ぐために、俺は親父から厳しい訓練を受けてきた」


親父

「殴られて、叩き込まれて、逃げ場もなく育った」


親父

「せやけどな……」


声が、ほんの僅かに揺れる。


親父

「組長の座に座って、倅作って、初めて気づいたんや」


親父

「――あんな親には、なりとうないってな」


廊下の影で、大熊は拳を強く握り締めていた。


怒りでも、憎しみでもない。

胸の奥で、重く、どうしようもない何かが蠢いている。


だが――

その感情を整理する暇は、もうない。


明日の夜。

すべてに、決着をつける時が来る。


夜中。

街が完全に眠りについた頃、大熊は柊の案内で歩いていた。


人気のない工業地帯。

錆びついたフェンス、割れたアスファルト、遠くで鳴る機械音だけが耳に残る。


「……この先です」


声は低く、硬い。

廃工場の巨大な影が、闇の中に沈んでいた。


扉は、最初から開いている。

嫌な予感が、肌を撫でる。


中へ一歩踏み込んだ瞬間――

油と埃の匂いが鼻を突いた。


そして。


鹿戸

「……よう来たなぁ」


薄暗い奥の方から、聞き覚えのある声。

次の瞬間。


――バチンッ。


天井の照明が一斉に点灯する。


白く、無機質な光が工場内を照らし出し、

同時に“それ”が見えた。


取り囲むように立つ、数え切れないほどの人影。

鉄パイプ、ナイフ、角材。

殺気が、空気を歪ませている。


「……っ!」


柊の顔から、血の気が引いた。


「嵌められた……!」


鹿戸は高所の足場に立ち、腕を組んで笑っていた。


鹿戸

「タイマンや言うたやろ?」


鹿戸

「せやけどなぁ……」


口角を吊り上げ、楽しそうに続ける。


鹿戸

「“俺とお前の”タイマンやなんて、言うてへん」


大熊「タイマンって言葉知ってんのか?」


周囲の男たちが、じり、と距離を詰める。


鹿戸

「お前ひとりで、ここ全員相手にするんや」


鹿戸

「それが――今夜のルールや」


大熊は、静かに柊の前に立った。


大熊

「……柊」


「す、すんません……俺……」


大熊

「下がっとけ」


短く、それだけ。


そして、大熊はゆっくりと拳を握る。


大熊

「鹿戸」


見上げる視線が、鋭く光る。


大熊

「後悔するで」


鹿戸は、腹を抱えて笑った。


鹿戸

「せやから呼んだんや!」


鹿戸

「その顔が見たかったんや!」


廃工場の扉が、重い音を立てて閉まる。


逃げ場はない。

あるのは――暴力だけ。


そして今夜。

大熊の“本当の地獄”が、幕を開けた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回の回想編では、

大熊という人物が「なぜ拳を振るうのか」、

そして「なぜ人を守ろうとするのか」、

その根にあるものを描きました。


力を持って生まれてしまったがゆえに、

使い方を誤ればすべてを壊してしまう――

その恐怖と葛藤の中で、大熊は選び続けてきました。


鹿戸は、かつて同じ場所に立っていた存在です。

似た力を持ち、似た境遇でありながら、

“誰のために拳を使うのか”という一点で、

二人は決定的に分かれていきました。


そして今回、

その過去が現在と重なり合い、

「不死身」という言葉の意味が、

ただの異能ではなく“業”として立ち上がります。


次回はいよいよ、

避けられなかった因縁の夜。

大熊が選び続けてきた答えが、

血と暴力の中で突きつけられることになります。


ここまでお付き合いいただき、

本当にありがとうございました。

次回50話ーー決着

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