37話:百目鬼
山頂に響いた咆哮とともに、ひとつの真実が露わになった。
百目鬼が“忌みなる者”であったという事実は、五十嵐をはじめ仲間たち全員の世界を揺るがす。
それは恐怖であり、衝撃であり──そして同時に、逃れられない運命の幕開けでもあった。
人間と妖怪、その境界が曖昧になり始める中で、彼らは知らぬまま選んでいた。
自分たちの誰かが、誰かを「守る」立場になる道を。
仲間として、友として。
そして──人として。
「守り人」の物語が、ここから動き出す
【登場人物】
気道 慶作
篠原 知子
五十嵐 三郎
百目鬼 爾郎
加江田 白哉
鴉天狗
五十嵐の震えた声が、闇に落ちた山頂に細く響く。
五十嵐「……ど、百目鬼……? 本当に……お前……なのか……?」
黒い大きな身体が、ぎこちなく振り返る。
その単眼が揺れ、申し訳なさそうに形を歪めた。
百目鬼「う、うん! そうだよ先生! ごめん、驚かせて……!
でも今はそれどころじゃない! 慶作たちに見られる前に、俺は――」
言い終わるより早く、百目鬼の巨大な瞳が何かを捉えた。
その視線の先。
木々の隙間から、懐中電灯の光がゆっくりとこちらへ滲む。
慶作が追いついてきた
三人が、息を切らしながら駆け上がってくる。
慶作「え……?」
光が百目鬼の姿を照らした瞬間―
慶作の足が止まる。
目を見開き、言葉を失う。
そこに立っていたのは、
自分と肩を組み、笑い合っていた“あいつ”じゃなかった。
いや――
“あいつ”そのものなのに、まるで別物だった。
百を超える目が、苦しげに伏せられていく。
百目鬼「……最悪の……タイミングだ……」
風が、山の闇を揺らした。
慶作の顔から血の気が引いた。
震える指先で百目鬼を指さし、喉の奥から絞り出すように叫ぶ。
慶作「な、なんだよ……あれ……!?」
その声に反応するように、知子も加江田も五十嵐の背後へ下がりながら固まる。
目の前に立っている“それ”が、さっきまで一緒にふざけていた百目鬼だと理解できず、息が浅くなる。
知子「ウソ……でしょ……? 妖怪?」
加江田は声も出せない。ただ目が見開かれ、震えが止まらない。
そして――
遅れて駆けつけていた警官たちが、状況を理解できず銃に手をかけた。
警官「……っ! こちら現場! き、巨大な生物が――」
その無線の途中、
ブワッッ!!!
黒い翼が振るわれ、空気を裂いた。
次の瞬間、鋭い羽が弾丸のように警官の身体を貫く。
警官「が……っ!」
重力に引かれるように倒れ込み、返事はなかった。
黒い翼の妖怪が静かに着地する。
その目は人間を見ることなど価値もないと言わんばかりの冷たさだった。
黒い翼の妖怪「これ以上“始末するべき人間”を増やされても困る。逃げ惑う時間すら無駄だ。」
夕闇の色がさらに濃くなる。
その場に、生者の息遣いだけが荒く響いた。
百目鬼の全身の目が、苦しげに揺れる。
そして、震える声で小さく呟いた――
百目鬼「……見られちゃったな、ほんとに……」
誰よりも早く声でそれが“百目鬼”だと気づいたのは、幼い頃からずっと一緒にいた加江田だった。
加江田「……百目鬼?」
震えはあったが、その声音は確信に近かった。
その名を聞き、慶作たちは揃って百目鬼へと視線を向ける。
知子「……声、確かに百目鬼くんだよ……」
慶作「いや、そんなわけ……ない。だって、あいつは……人間、だろ……?」
現実を拒むように後ずさる慶作。
その瞬間、黒い翼の妖怪が薄く笑い、冷たい声で割り込んだ。
黒い翼の妖怪「仲間割れですかぁ? 見苦しいですねぇ、人間も……妖怪も」
挑発に、百目鬼の身体から黒い気配がゆらりと立ち上がる。
感情を押さえ込むように、しかし確かな怒りを含んだ足取りで、百目鬼が一歩、また一歩と妖怪へ歩み寄っていく。
百目鬼「……慶作たちは山から降りろ。ここは……俺だけでいい」
その声は震えていない。
恐怖に支配される人間たちとは対照的に、覚悟だけがその背中から滲み出ていた。
――百目鬼は、自分の“正体”を知られた混乱よりも、目の前の妖怪を前にした危険の方が遥かに大きいと理解していた。
百目鬼は黒い翼の妖怪を真っすぐに見据え、低く問いかけた。
百目鬼「……数々の行方不明事件。首謀者は――お前だな?」
黒い翼の妖怪は口角を吊り上げ、愉快そうに羽を震わせた。
黒い翼の妖怪「ご名答! いやぁ、やはり“同族”は話が早い。人間とは頭の作りが違いますねぇ!」
百目鬼はその挑発を受け流すように、ふっと目を伏せる。
百目鬼「……人間も妖怪も、一緒だ。分かり合えるはずなんだよ。」
黒い翼の妖怪「分かり合える? 本気でそう思ってるんですか? じゃあ、あなたの“人間のお友達”は――あなたを認めてくれてると?」
そう言いながら、翼の妖怪は指先で百目鬼の後方を示す。
百目鬼はゆっくりと振り返った。
その視線の先で――
慶作も、知子も、加江田でさえも。
皆、恐怖に縛られたまま動けず、化け物を見るような目で百目鬼を凝視していた。
その光景を受け、百目鬼はほんの僅か、寂しげに口元を緩めた。
百目鬼「……はは。まぁ……そうだよな。
慶作たちには……まだ、分かってもらえてないかもな。」
黒い翼の妖怪は、まるで嬉しくて堪らないといった様子で声を張り上げた。
黒い翼の妖怪「ほらぁ!言ったでしょう?人間なんて、結局“異形”を受け入れられない!
さぁ――君もこちら側に来なさい。私たちと共に人間を淘汰し、妖怪だけの世界を築くんですよ!」
百目鬼は、その言葉を聞きながらも、ゆっくりと眉をひそめる。
百目鬼「……“私たち”? お前の他に、仲間がいるのか?」
黒い翼の妖怪は誇らしげに胸を張り、翼をバサリと揺らした。
黒い翼の妖怪「いますとも!それも、数え切れないほどに!
あなたほどの力を持つ者なら――我らがボス、空亡様も必ずお喜びになりますよ!」
山の空気が一瞬、冷えたように沈む。
その名を告げる妖怪の声は、どこか酔いしれたようでもあり、畏れを含んでいるようでもあった。
百目鬼は黙ってその名を噛みしめるように目を伏せ――
後ろで息を呑む慶作たちの気配だけが、痛いほどに伝わっていた。
百目鬼が低く問いかけた。
百目鬼「お前、名前は?」
黒い翼の妖怪は一瞬だけ誇らしげに胸を張り、嘴のような口元を吊り上げた。
鴉天狗「我が名は――鴉天狗。空亡様に仕える者。その名、肝に銘じ――」
名乗り終えるより早く、百目鬼の姿がふっと視界から消えた。
次の瞬間、地面を蹴り砕く音とともに百目鬼が鴉天狗の懐へ飛び込み、その拳を容赦なく振り下ろす。
鴉天狗「ッ……!」
とっさに翼で受け止めたが、衝撃で地面が割れ、鴉天狗の足が沈む。
鴉天狗「な、なぜ……!? 名前を聞いてきたから……仲間になってくださるのだと思ったのにぃ!」
百目鬼はその拳を下ろした姿勢のまま、静かに、だが怒りを噛みしめているような声で言い放つ。
百目鬼「誰がてめぇらの仲間になんかなるかよ」
ゆっくり立ち上がり、鴉天狗を睨みつける。
百目鬼「今から俺が殺す“最初の妖怪”の名前を……覚えておいてやろうとしてるだけだよ」
鴉天狗の黒い瞳に、初めて恐怖が宿った。
加江田の叫びが、荒れた山頂の空気を震わせた。
加江田「百目鬼!!」
百目鬼は振り返らない。
だが、その言葉だけは確実に耳に届いていた。
加江田は息を荒げながら、それでも真っ直ぐ百目鬼の背中に向けて叫ぶ。
加江田「お前が人間じゃないってのは――一旦置いておく!!
長年の付き合いで分かる!
お前が良い奴だってことくらい、俺はずっと知ってる!」
百目鬼の肩が、ほんのわずかに揺れた。
加江田「それと……ここで死のうとしてることも、な!」
その言葉に、百目鬼の拳がきゅっと握られる。
鴉天狗がにやりと笑った。
鴉天狗「お!あなたのお友達、すっごく冴えてますねぇ。
……ちょっと長すぎて、そろそろ殺そうかなって考えてましたから!」
黒い翼が大きく広がり、殺意を孕んだ風が吹き抜けた。
――百目鬼の背中が、ゆっくりと鴉天狗に向き直る。
その動きに、加江田の喉がひゅっと鳴った。
百目鬼は静かに息を吸い、低く、しかし確かに言葉を落とす。
百目鬼「……悪いな、加江田。
でも俺は――逃げない」
その目は決まっていた。
自分がどう見られようと、人間だろうが妖怪だろうが関係なく。
“守りたいもの”のために立っている者の目だった。
鴉天狗が楽しげに翼をばさりと鳴らす。
鴉天狗「さぁ、続きしましょうかぁ!
友達の前で死ぬ姿、華々しく見せてくださいよぉ、百目鬼!!」
その言葉を聞いた瞬間、加江田は反射的に立ち上がろうとした。
だが——
両腕をがっしりと掴まれ、動きを止められる。
掴んでいたのは慶作と五十嵐だった。
慶作「バカ!今お前が行って何になる!!」
五十嵐「無茶だ!あれは……普通の殴り合いじゃない!」
五十嵐の目は震えていた。
教え子を守らなければという気持ちと、目の前の“現実離れした戦い”への恐怖が入り混じっている。
百目鬼と鴉天狗は既に何十合も拳を交わし、地面はえぐれ、木々は裂けていた。
だが攻撃を受け続けているのは百目鬼の方だ。
鴉天狗の一撃一撃は鋭く、重く、空気を裂くたびに人間では出せない轟音が響いた。
そのたびに百目鬼の身体が吹き飛ばされ、土煙が上がる。
慶作は歯を食いしばりながら叫ぶ。
慶作「……あいつ、めちゃくちゃ劣勢じゃねぇか……!」
加江田の拳は悔しさで震えていた。
それでも、慶作と五十嵐の手は決して離れない。
加江田「離せよ……!百目鬼が……!」
五十嵐「離さない!!お前まで死ぬ気か!!」
怒鳴る五十嵐の声は、震えていた。
それほどに、目の前の戦いは常軌を逸していた。
鴉天狗には、ひとつだけ理解していたことがあった。
百目鬼が、わざと自分の身体で攻撃を受け、
加江田たちに一切の“流れ弾”を行かせないよう立ち回っているという事実だ。
その気づきが、鴉天狗の表情を不快に歪ませる。
鴉天狗「……面白くないですねぇ」
その低い呟きとともに、鴉天狗の翼が大きくはためいた。
次の瞬間、鋭い黒い羽が矢のように放たれ、一直線に加江田へ――。
百目鬼「――加江田ァッ!!」
振り返るより早く、百目鬼の巨体が割り込み、
胸――いや、心臓のすぐ横を深々と黒い羽が貫いた。
肉を裂く音。
遅れて噴き出す、真っ黒な血。
加江田「ど、百目鬼!!」
加江田が崩れそうな足で駆け寄る。
百目鬼は苦しげに息を吐きながらも、その腕で逆に加江田の身体を掴み――
五十嵐の方へと、強引に投げ飛ばした。
五十嵐「っ――!」
加江田の身体を受け止めた五十嵐は、百目鬼を見て絶句する。
百目鬼は立ったまま、血を垂らしながら、
かすれた声で彼らを睨みつけた。
百目鬼「……邪魔だ……ッ。山から……降りろ……」
加江田「百目鬼……!」
その名を呼んだ瞬間、
百目鬼の片目が一瞬だけ揺った。
しかし次の刹那――
百目鬼「――降りろッ!!!」
雷鳴のような叫びが、山頂に響き渡った。
その声に、加江田の身体がビクッと震えた。
その一瞬の反応を、百目鬼は確かに見ていた。
鴉天狗と対峙しながらも、ほんの一瞬だけ――
自分の声で怯えさせてしまったことに気づいたように、百目鬼の表情が揺らぐ。
後悔とも、躊躇ともつかない微かな色が、その巨大な一つ目の奥に浮かんだ。
だが――次の瞬間には、もういつもの鋭い眼光へと戻っていた。
百目鬼はゆっくりと顔を上げ、鴉天狗を真っ直ぐ睨み据える。
風が山肌を抜け、黒い羽と無数の目を揺らす。
血に濡れた自分の身体を盾にしながらも、百目鬼の立ち方は崩れない。
その背中には――
「絶対に誰も傷つけさせない」という、凄まじい覚悟だけが宿っていた。
百目鬼は深く、一度だけ息を吐いた。
その肩越しに見える加江田たちの姿は、恐怖と混乱で固まっている。
百目鬼「勝てねぇな……俺の力じゃ……」
ぽつりと漏れた言葉は、自嘲でも諦めでもない。
決意に近い静かな声だった。
鴉天狗が首をかしげ、楽しげに羽根を揺らす。
鴉天狗「おや?もう降参ですか?それとも……何か策でも?」
百目鬼「おい、鴉天狗。禁忌の術って知ってるか?」
その言葉の重さに、鴉天狗の表情が変わる。
驚き……いや、それ以上に――喜悦。
鴉天狗「……ええ、もちろん。」
百目鬼「魍魎転生...」
鴉天狗は口角を吊り上げ、翼を震わせた。
心底楽しそうに。
鴉天狗「まさか、あなたがあれを使うなんて……!
人間を庇うために命まで削るとは!
いやぁ、空亡様も大喜びでしょう!!」
百目鬼は静かに目を閉じ、ゆっくりと開いた。
迷いを捨てた瞳。
百目鬼「これを使えば……俺はタダじゃすまない。
でも――あいつらが逃げる時間は、十分に稼げる」
その言葉に、鴉天狗は狂気じみた笑い声を上げた。
鴉天狗「いい!最高だ百目鬼!!
自分を殺して他人を守るなんて愚かで……滑稽で……そして――」
翼がバサリと広がり、風が巻き起こる。
鴉天狗「――最高に美しい!!」
百目鬼は仲間たちに背を向けたまま、ひとつだけ呟いた。
百目鬼「……頼む。生きて帰ってくれよ」
――魍魎転生の“代償”へ、静かに踏み出した。
百目鬼の足が地面を踏むたび、
ドクン……ドクン……と、大地そのものが脈打つような振動が走った。
その振動と同調するように、
百目鬼の全身へ赤い文様が滲み、
血管の上を走る雷のように蠢き始める。
鴉天狗はその変化を見て、まるで祭りを前にした子供のように両手を叩いて跳ねた。
鴉天狗「うわぁ!最高!最高じゃないですか百目鬼さんっ!
禁忌術なんて久しぶりに見ますよ!もっとやって、もっと!!」
百目鬼は返事をしない。
ただ静かに息を吸い込み、さらに大きく吐き出す。
そのたびに赤い文様はより深く刻まれ、
筋肉は膨れ上がり、
血のように黒い毛が肩や腕から噴き出すように生え、
牙は獣のそれへと伸び、
――そして額の二本の角はぐにゃりと歪み、
蛇が伸び上がるように巨大化した。
もう人の面影はほぼない。
だが、目だけは違った。
赤く濁りながらも、
そこには確かに「誰かを守ろう」とする、
あの百目鬼の意志が残っていた。
次の瞬間、百目鬼が咆哮する。
「ガアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
森中に響き渡る獣の咆哮。
枝が震え、鳥たちは一斉に飛び立ち、
野生動物は巣から飛び出して逃げ惑う。
その衝撃波だけで、
後ろにいた慶作たちの髪も服も大きくなびいた。
知子「な、なにこれ……っ!」
加江田「……百目鬼……!」
慶作は拳を握りしめ、奥歯を噛みしめながらも後退るしかなかった。
慶作「……行くぞ。百目鬼が――
“降りろ”って言ってんだ……!」
その言葉に知子と加江田は涙目のまま頷き、
五十嵐も顔を歪めながら振り返る。
五十嵐「……頼むぞ、百目鬼……絶対、生きて帰ってこい……!」
五十嵐達が降りようとする、鴉天狗はその姿を見て、
本当に嬉しそうに笑いながら呟く。
鴉天狗「逃がしませんよ?」
翼をはためかせ羽を飛ばし五十嵐たちの行く手を防ぐ
五十嵐「ッ...!」
次の刹那──
地面が割れるほどの勢いで百目鬼の巨体が踏み込み、鴉天狗の懐へ飛び込む。
鴉天狗「はははっ!それですよ、それぇ!!」
狂喜に震える声を上げ、鴉天狗が黒い翼を広げた瞬間、百目鬼の拳が鴉天狗の顔面にめり込む。
骨の軋む音。
衝撃で鴉天狗の身体が後方の木々を何本もへし折りながら吹き飛ぶ。
鴉天狗「ッはぁ……ッッ、最高だ……!」
血を流しながらも、目を爛々と光らせて立ち上がる。
百目鬼は返事をする代わりに、地を揺らして突撃する。
肉と肉、力と力の真正面衝突。
殴る
殴る
殴る──
百目鬼の拳は空気を割り、鴉天狗の蹴りは巨木を砕き、互いの肉が裂け、骨が砕ける音が森全体に響き渡る。
慶作「……百目鬼……!」
慶作たちがその場を離れようとしつつも、視線は戦場から離せない。
鴉天狗は笑っていた。
その笑みは勝利の確信でも、侮蔑でもない。
──ただ楽しくて仕方がないという、純粋な“悪意の歓喜”。
鴉天狗「もっと!もっとですよ!!」
黒い羽根が炸裂し、鋭利な刃となって百目鬼の体を切り裂く。
百目鬼も怯まず鴉天狗を掴み上げ、地面に叩きつけ、拳で顔を砕こうとする。
だが──鴉天狗の翼が、音もなくしなる。
次の瞬間。
ズバァァッ!!
黒い翼が槍のように百目鬼の腹を貫いた。
さらに翼は形を変えながら何度も叩き込まれ、
胸を、肩を、脚を、腹を――
身体中を何本もの黒翼が貫通していく。
血が噴き出し、百目鬼の巨体がよろめく。
百目鬼「……ッ、ぁ……!」
鴉天狗は恍惚とした声で囁いた。
鴉天狗「終わりですよ、百目鬼。
あなたの身体……もう支えられないでしょう?」
百目鬼の膝がゆっくりと、地面に落ちた。
百目鬼は両膝をついたまま、びくりとも動かない。
下に垂れた顎からは、まるで命そのものが零れ落ちるように、血が滝のように地面へ落ちていく。
その異様な静けさを切り裂くように――
バタバタッ…!
羽ばたきの音が降ってきた。
上空で旋回していた鴉天狗がゆっくりと降下し、百目鬼の目の前に着地する。
鴉天狗「……もう立てませんか?」
鴉天狗の声は、勝利の甘さを噛みしめる子供のように弾んでいた。
次の瞬間、ためらいもなく百目鬼の頭を片手で鷲掴みにする。
そして――
ドガァッ!!
顔面が地面に叩きつけられる。
土と岩が砕け、血飛沫が弧を描く。
ドガッ! ドガッ! ドガッ!!!
何度も、何度も、容赦なく。
大地が悲鳴を上げるほど、執拗に。
それでも百目鬼は声を上げず、抵抗すらできやい。
ただ、破れた皮膚から血が泡のように滲み続けるだけ。
鴉天狗「ふぅ……」
ようやく飽きたように、鴉天狗は百目鬼を放り投げる。
どさり、と崩れ落ちた百目鬼は、もはや息があるのかどうかすら判別できなかった。
そして。
鴉天狗はゆっくりと首だけを回し――
慶作・加江田・知子・五十嵐の方を見る。
にぃ……と。
見た者が一生忘れられなくなる種類の、不気味で冷たい笑みで。
鴉天狗「次は――あなた方ですね?」
牙を覗かせ、楽しげに。
まるで「獲物が逃げないように観察している肉食獣」の顔だった。
無邪気な子どものように声を裏返しながら「へへぇ!」と翼を羽ばたかせた、その瞬間――ドゴンッ! 大地が震えるような衝撃音が響きわたった。
反射的に慶作たちは身をすくませ、次の瞬間には一斉に駆け出していた。
鴉天狗は横目でそれを捉えながらも追わない。追うべき相手はそちらではないと、直感していた。
地鳴りを撒き散らした張本人――百目鬼が、そこにいた。
巨躯を支える腕で地面を何度も叩きつけ、言葉を失った喉の代わりに、睨みつける眼だけで鴉天狗に“こっちを見ろ”と強く告げている。
ゆっくりと身を起こした百目鬼は、しかし力尽きたように横へと崩れ落ちた。
鴉天狗はその姿を見つめ、静かに目を細める。
鴉天狗「ここまで根性のある妖怪は久しぶりです。——楽しかった。流石に敬意を送りますよ」
穏やかだが確かな声でそう告げる。
虫の息の百目鬼は、もはや黒目が白く濁りきっていた。
鴉天狗がそっと近づくと、その大きな体からは想像もつかないほど小さな声が漏れた。
最初は聞き取れなかったが、耳を寄せると……。
百目鬼「……たのむ……あいつらには……手を出さないでくれ……。
あいつらは覚えてねぇかもしれねぇが……俺が変化の術で猫になっちまった時……鴉から助けてくれた……。
借りを返したいんだ……たのむ……」
百目鬼の声は風に消えそうなほど弱い。
それでも、その言葉には確かな願いと、最後の意地が込められていた。
鴉天狗は喉の奥でくつくつと笑い、首をかしげながら百目鬼を見下ろした。
鴉天狗「──あぁ、そんな“ちっさな理由”で命を張るのですかぁ?」
羽根をひらつかせ、一歩、百目鬼へ影を落とす。
鴉天狗「確かに変化の術を使うと一日は元には戻れない。術のせいで死ぬ妖怪も珍しくない……けれど、たったそれ“だけ”で、そこまで必死になるんですか?」
嘲るような笑い声が、血の匂いが満ちる空気に薄く響く。
白く濁った百目鬼の瞳は、それでも揺らがなかった。呻くような息を吐きながら、震える声でただ一つの願いを押し出す。
百目鬼「あいつら…を…助けて……くれ……」
その言葉に、鴉天狗の笑みがさらに深く歪む。
鴉天狗は、百目鬼の濁りきった瞳を静かに見下ろしながら、指先で核の位置を探るように軽く触れた。
その仕草は、まるで儀式のように丁寧で――しかし残酷だった。
鴉天狗「……まぁいいですよ。そこまで言うなら、私もそこまで非道じゃありませんので」
軽い調子で言いながら、鴉天狗の声はどこか退屈そうだった。
その直後、鴉天狗の指が黒く伸び、鋭い影の刃となって百目鬼の核を一突きに貫く。
鈍い音さえ無い。
百目鬼は声もあげず、ただ大きな身体をそっと沈ませるように倒していく。
最後に残った一つの瞳が、遠く逃げていった慶作たちの方向をかすかに向き――
その光がふっと消えた。
鴉天狗はその様子を見届けると、軽く息をつき、つまらなそうに肩をすくめる。
鴉天狗「命を張って借りを返すなんて……ほんと、友情とか仲間意識ってのは面倒くさいですよねぇ」
そう呟きながら、黒い翼をひらりと揺らした。
鴉天狗は軽く肩を竦め、
鴉天狗「約束は約束ですから。……では、おいとましましょうか」
と軽い声音で言い残し、翼をひと振りした。
風が巻き、黒い羽が夜気の中に散る。
そのまま闇へ溶けるように姿を消し、ただ静寂だけが残った。
百目鬼の巨体は動かない。
残されたのは、土に沈むように倒れたままの亡骸と、湿った土の匂い。
遠く、慶作たちが逃げた方向から風が揺れ、木々がざわりと音を立てた。
森は、再び深い夜へと戻っていった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回の37話は、百目鬼にとっての始まりとなる回でした。
彼がどれほど不器用で、どれほど温かく、どれほど“誰かのために動く”人間だったのか──その本質がようやく形として描けた気がします。
加江田と百目鬼の絆は、派手な場面よりも静かな瞬間でこそ強く見えるもの。
次回からは、この喪失が彼らにどう影響するのか、そして物語がどこへ進むのか。
次回38話ーー守り人




