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傘をさしていても、小雨は肌を撫でるように掠めていく。
水滴が浮かぶ程ではないが、半袖から露出した腕も、膝下の素肌も、しっとりと雨に潤んでいた。
衣服も不快一歩手前で、湿り気を帯びて絡み付く寸前である。
気分転換にと散歩に出たが、反対に陰鬱な気持ちになってしまった。
とは言え部屋に居ても、気が晴れない事はわかり切っていた。
雨粒を落とす灰色の雲の向こう側に太陽があるおかげで、薄暗いと言っても夜ではないと認識出来るが、一人で室内にじっとしていたら、きっとあの恐怖感が蘇る…そう思ったのも事実だった。
過疎化が進む村落とは言え、遠く、小さな田んぼの世話をしているらしき人の姿も見えて、恐怖感は鳴りを潜めてくれている。
人影は少なく、挨拶をするような場面に遭遇する事等ないまま、記憶を辿って足を進めた。
横道に逸れる様に丸太を止めただけの階段を見つけると、躊躇う事なく上って行く。そのまま進んで地面が石畳に変われば、社はもうすぐのはずだ。
―――静かだ。
小雨と言うより霧雨のようになっているから、余計かもしれない。
雪が降ると音が消えると言われる事がある。
これは迷信でも思い違いでも何でもなく、科学的に証明されていて、実は雨にも同様の性質があるのだが、それを差し引いても、神社と言うのは静謐で神聖さが漂っているように感じる。
空気まで違って感じるのだから、不思議な事この上ない。
日本人に刷り込まれた感覚なのか、よくわからないが、近づくにつれて厳粛な気持ちになるのは確かだ。
足音を顰めるようにして、一歩一歩進む。
見えてきた社の前に、この前の美少年が佇んでいた。
着ている服は特に変わった所のない開襟のシャツに黒のズボン。
男子学生の夏服だと言われても納得してしまう程平凡な装いだが、息を飲む程美しく荘厳に感じるのは何故だろう。
だが、愛子は信心深い訳ではなく、『荘厳』だとか『神懸って』なんて雰囲気だとしても、怯んだりするような敬虔さは持ち合わせていない。かっこいい男の子をみればテンションが上がるというのは、そんな事よりはるかに重要度が高いのだ。何処までも凡庸な、今時の女の子である。
声を掛けるのを躊躇う素振りもなく、パッと表情を輝かせて駆け寄った。
「おーい」
傘を持っていない方の手を振りながら近づくが、まるで聞こえていないかのように少年は微動だにしない。
だが、そんな事でめげない。
夢と言われようが錯覚と言われようが、昨夜はあんな怖い目にあったのだ、美少年で厄払い等出来るはずもないが、同じ年頃の誰かと馬鹿話でもして盛り上がりたかった。
「ちょっと~、無視しないでよ~」
変わらず少年は愛子の方を一瞥さえしない。
「愛想がないな~。
ま、いいけど…」
ここまで徹底的にしかとされたら、流石に厚顔無恥な愛子でも傷つく。
だが、変な所で無駄に不屈の精神を発揮して、更に言葉を重ねた。
「ね、ね、名前教えてよ。
名前わかんないと呼び難くて仕方ないでしょ?」
明るく話す愛子に、それでも少年は反応しない。
流石に焦れて、愛子は振り向かせようと少年の腕に手を伸ばした。
「無視しないでってば! こっち向い……」
唯でさえ静かだった境内から、一切の音が失われた。
愛子の目には背景の社殿も、さわさわと降り続く雨粒も、何もかもが消え去って、少年だけが映っている。
すうっと首を巡らせた少年の視線が愛子に突き刺さる。
冷たいなんてものじゃない…最早凍り付いてしまいそうな視線に、愛子は声も出せなくなった。
「…………」
「罪人が…まだ足りなかったらしいな。
あれで思い出していれば良かったものを……。
だが印は刻まれた。
贖いを…」
愛子には何の事かわからない。
罪人呼ばわりされる覚えはない……少年とはこの前会ったばかりだ。いや、もしかしたら幼馴染だったかもしれないが、それならそう言ってくれれば良いと思うのは愛子の傲慢だろうか…。
第一記憶がない事は話したはずだ。
ちゃんと説明してくれなければ、謝罪も出来ないとわからないのだろうか…?
愛子は素肌に冷えた嫌な汗が流れるのを感じながら、それでも無言で目の前の少年を責める。
責めるのだが、声は張り付いたように出ない。
どれほど時間が経っただろう……。
まるで蛇に睨まれた蛙の如く、ただただ固まっていた愛子だったが、睨み付けてくる少年が愛子に背を向け、社の脇から奥へ姿を消すと、呪縛が解けたかの様にその場にへたり込んでしまった。
支えを失った傘は石畳の上に転がって、自身の役目を果たせないでいる。
石畳の上にへたり込んだままの愛子の上に霧雨は降り落ちて、降り落ちて………いつの間にか止んでいた。
その頃、調べ物をしたいと出かけた伸子は、棚が並ぶ薄暗い場所で、今にも破れそうに脆くなった和綴じの冊子を開いていた。
上の方に換気用だろうか、小さな窓があるにはあるが、灯りとしては役に立たず、懐中電灯を持ち込んだのだが、照らし出された書面には、筆で書かれた走り書きのような線が、うねうねと波打っている。
一応旧家の嫁となったのだから、ある程度古い書簡も簡単な物なら読み解いたりも出来なくはないが、手にしている其れには太刀打ち出来そうな気がしない。
一部読める単語から、何とか文脈を探ろうとするのだが、わからない部分が多すぎてほとほと困り果てていた。
「はぁ、旦那が帰って来るまでお預けかしらねぇ…。
だけど、呑気にしてられない気がする。梅花藻の印は湖神様の印……それが真っ黒だなんて縁起が悪いじゃないか…」
誰に言うでなく独り言ちる。
伸子は手にしていた冊子も、脇の木机の上に広げた風呂敷に置いた。
関連してそうな冊子は、片っ端から風呂敷に重ねているのだが、本当に関係しているのかわからない。
あまり多く持ち帰っても…とは思うのだが、出来れば何度も通う羽目にはなりたくなかった。
それと言うのも、此処は糸畑の蔵ではなかったから。
愛子が訪れた神社と同じ敷地にあるものの、かなり離れた場所にある神社の蔵だった。
祭具なども収められた其処は、神職が居なくなって久しい為、幾つかの家が持ち回りで管理している。
昔の様な祭りもする事がなくなったので、神職が絶えても問題なくこれまでやってきたが、今は切実に続いてくれてさえいれば…と伸子は溜息を落とした。
伸子が小さい頃には既に無人となっていた神社だったし、掃除等手入れの手順は義母等から教わったものの、それ以外は殆ど御座形だった。
尤も義母達も知っていたのかどうかはわからない。
とりあえずはっきりとしている事は、神職が途絶えた理由も、この神社が守り繋いできた諸々も、その多くが失われて久しいと言う事だけだ。
顔役の家の当主達なら、今も連綿と引き継いでいる何かがあるのかもしれないが、少なくとも伸子は大事な事は何も知らなかった。
粗方の棚の冊子に目を通し、10冊程度を風呂敷に包んで持ち帰ろうと纏めていると、蔵の一番奥、何も置かれていない一角からカタリと、少し硬質な音が耳に飛び込んできた。
一瞬伸子はビクリと身を震わせる。
しかし、ここは腐っても神社の境内で、悪いモノではないと、伸子は必死に自分を宥めた。
そうっと近づくと、漆喰の壁の前の床板が浮いていた。
滅多に人の入ることのない場所だったし、今日は雨だった事も相まって、もしかすると湿気の影響が床板に出たのかもしれない。
そうなら補修しなくちゃと、破損状況を確認する為にすぐ横に膝をついて覗き込んだ。
「あら…?」
膨張で割れたとか言う感じには見えず、元々外れるように細工されていたらしい事がわかる。
「何?
やだよ…床収納ってやつ? 神社の蔵で?」
つい苦笑交じりに声でも出さないと、何か悪い事をしてしまったかも…という思いに押し潰されそうだ。
だが此処へは調べに来たのだから、ちょっと落ち着かない気がするからと言って、その不審な個所を見ないふりする事は出来ない。
自分でもわからないが、酷く緊張し、喉がゴクリと鳴る。
そっと浮いた箇所に指先をかけて、そのままゆっくりと引き上げた。
其処には、掛け軸が入っているような細長い木箱が治められている。
蓋部分に、やはりうねうねとした文字が書かれているが、かなり掠れていて、理解する事は難しい。
「なんて書いてあるんだろうねぇ…これも旦那なら知ってるのかしら。
えっと…これは『湖』かしら? こっちは……『印』?」
だが、もう一つ判別可能な文字に、伸子は目を瞠って固まってしまう。
何故なら、その文字は確かに『呪』と読めた……からだ。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございます。
そして、ブックマーク、本当に、本当にありがとうございます!!
夢ではないかと2度見どことか、何度も見返してしまいました!
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リアル時間が少々慌ただしく、隙を見計らっての創作、投稿となる為、不定期且つ、まったりになる可能性が高いですし、何の予告もなく更新が止まったりする事もあるかと思いますが、どうぞ宜しくお願い致します。
もう誤字脱字他諸々のミス、設定掌ぐる~が酷い作者で、本当に申し訳ございません。見つければちまちま修正加筆したりしてますが、その辺りは生暖かく許してやって頂ければ幸いです<(_ _)>