12
額にペタリと触れた何かは、ゆっくりと愛子の体の表面を覆い、包み込む。
その様子はまるで、水が溢れて何もかもを飲み込んでいく様に似ていた。
感覚的に水を感じた愛子は、磔にされたまま絶叫する。
「い、いやあああぁぁぁああああ!!!!!」
ゴボリと最後は愛子の顔も覆いつくし、ゆっくりと肌から浸み込んでくるような不快感に、苦しさと嫌悪、そして恐怖に暴れる。
しかし、暫くしても思ったような息苦しさは訪れなかった。
意識を失いそうになりながら、それでも気付いた事で、愛子は暴れるのを止め、恐る恐るギュッと閉じていた目を開く。
てっきり遥か過去に見た事があるかもしれない、水中の揺らぐ光景を目にすると思っていたのに、視界に広がるのは、一面の闇でもなく、どこか懐かしい水辺の風景だった。
思わず足を踏み出して、初めて自分の身体が動く事に気がついた。
足元を見ればしっかりと地面がある。
オオバコにタンポポ、ミゾホオズキ……蔓の様なあれは、確か小さな実がゴロゴロと生るのだ。
愛子は自分が雑草の名前を知っている事に驚く。
それだけでなく、少し視線を上げれば、大きな湖が目に入った。
風もなく、水面は凪いでいて、まるで鏡のように周囲の風景を溶かし込んでいる。
あれほど水を恐れ、一時はお風呂でさえも恐ろしくて怯えていたのに、どうしてだろう……特に恐怖感はない。
そっと湖の縁に近づけば、湛える水は澄んでいて、水中に揺らぐ鮮やかな緑色が目に飛び込んできた。
名にもなっている可愛らしい白い花の時期は疾うに過ぎていて、今はただの水草に見えるが、愛子は何故かそれが梅花藻だと直ぐにわかった。
ゆっくりと顔を巡らせると、釣りでもするのだろうか、湖に向けて少し突き出すように組まれた、木製の桟橋の様な構造物が見える。
だが『この湖で釣りは禁止されていたはずだ』と、するりと出てきてしまい、驚きの連続に愛子は背筋に冷たいモノが走るのを感じた。
何故そんな事を知っているのか、それに何故今見えている風景を知っているのか、突き詰めるのは怖くはあるが、何となく放置してはいけないと感じて、じっくり考えようと桟橋に座り込み、穏やかな気持ちで水面を眺めていると、不意に静寂を破る声が耳に届く。
【………ゃん】
顔を上げて振り向くと、とてとてと小走りに駆け寄ってくる小さな人影があった。
小学生くらいだろうか、小柄な女の子で、くっきりとエンジェルリングの浮かぶ艶やかな黒髪を肩口で切り揃えている。
顔はどうしてだろう、愛子の母親に似て見えた。
(誰…?
なんでお母さんに似てるの?
羨ましい……あたしはお父さん似で……あたしもお母さん似の美人になりたかった…)
少女は愛子の直ぐ傍までやって来て足を止める。
【お姉ちゃん、帰ろう?】
この少女は何を言ってるのだろう?
『お姉ちゃん』と言う言葉は、普通に考えれば特におかしな単語ではない。
どうみても少女の方が愛子より年下だし、血の繋がり等関係なく年長者は『お姉ちゃん』『お兄ちゃん』と呼称されるのは普通に思える。
だが、愛子には別の感情が湧き上がっていた。
不快感
嫌悪
怒り
憎しみ
愛子自身も変だと思うが、そんな感情を止められない。
【お姉ちゃん、此処は立ち入り禁止だって言われてたんだから、早く帰ろう?】
イラっとした。
少女が伸ばしてきた手を振り払う。
振り払われた手が痛かったのか、少女は自分の手をもう一方の手で庇う様に撫でていた。そして愛子に驚愕の目を向けてくる。
「鬱陶しいなぁ」
少女の事は知らない他人のはずなのに、そんな言葉が口を突いて出た。
「アンタは何時だってそう。
いい子の振りして、お母さんもお父さんもあたしから奪っていく…」
躊躇なく飛び出た言葉に、愛子の方が驚く。
だが、どす黒い感情は次から次へと、止めどなく溢れてきた。
自身の感情と言動に戸惑っている間にも、身体の方はゆっくりと立ち上がって、少女の方へ向く。
「アンタばっかり褒められて…。
その真っすぐな髪も、白い肌も、お母さん似の顔立ちも……お前があたしから盗ったんだ!」
何故こんなおかしな事を言うのだろう…愛子は自分の思う通りにならない身体に戸惑いながらも、自分の身体が勝手に並べる言葉が言い掛かりでしかないとわかっていた。
どうみても少女の方が自分より後に生まれている。
それなのに、盗ったとか、そんな方法があるなら知りたいくらいだ。
確かに目の前の少女は、羨ましくなる程の美貌を持っている。
10人居たら10人共美人だと評価する母親そっくりで、心底羨ましい。
愛子だって可愛いと言って貰える。
しかし、それは子供相手なら誰もが口にする社交辞令の様なモノだと、幼いながらに愛子も気付いていた。
特に褒める所が見つけられないから『可愛い』と言って誤魔化すのだ。
そんな大人達の浅い感情等、子供は敏感に感じ取る。
「勝手に言いつければいいじゃない!
ダメだって言われる事も守れない、ダメ姉だって!!」
【お姉ちゃん、私そんな事しないよ……?】
「煩い……煩い煩い煩いッ!!」
知ってる。
知らないはずなのに知ってる。
この少女はそんな事をしたりしない。
何時だって慕ってくれて、何時だって遠慮がちで我儘も言わない、何時だって……。
なのに愛子は憎しみを募らせる。
海底に降り積もるマリンスノーのように、ただ静かに、だけど確実に負の感情の層を、厚く強固にしていく。
もうこの感情はどうしようもない程に育ってしまっていた。
右手を無意識に振り上げる。
頭は真っ白で何も考えられない。
なのに、少女の雪の様な白い頬を穢したいと、愛子の身体は黙って右手を振り下ろした。
叩かれた少女は、ギュッと痛みを堪える様に目を閉じてよろめく。
自分より年上の大柄な愛子に平手打ちを喰らったのだ。転ばなかった事が不思議なくらいだが、その反動は加害者である愛子に、見事に跳ね返ってきた。
大柄とは言え、身長が平均より高いと言うだけで、運動好きでもない愛子の身体は、普通にもやしっ子だった。
自分が勢いよく少女をぶったのに、その手を振り抜く事が出来ずに自分の方が体勢を崩してしまう。
『ぇ』と小さく声が洩れる。
自分の身体が暴虐を加えた少女の方が、慌てたような表情になっているのが、まるでコマ送りのように見えた。
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