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「怒らせたなんて……だってあんなに水を怖がるから、湖に近づくなんて…」
掠れて絞り出された卓郎の言葉に、麻砂子は必死に首を横に振った。
「だけど、以前はそんな事なかった……わ、ね…」
伸子の声に室内はシンと静まり返る。
だがそんな空気を破って卓郎が、腕組みをしたまま呟いた。
「そうだな…。
じゃあ何かあったとしたら、水を怖がる以前……あの子が行方不明になった時っちゅう事になる、か…」
話がおかしな方に進みそうになり、勝則は声を荒げた。
「ちょ…義兄さんも姉さんも、待ってくれよ。
絵…ぃゃ、あの子が行方不明になった時って……愛子は助けようとしたんだろうって……そう言ってたじゃないか」
勝則の声は途中で震えて止まる。
つい妹の名を呼びそうになってしまったからだ。
記憶が欠けた愛子は、その事を考えるだけで酷い頭痛に苛まれるようになり、皆が妹の事を半ば封印してきた。
荷物は此処、伸子達に預けて痕跡を消し、名も呼ばず、精々『あの子』とか言うだけ……。
行方不明で死亡とは考えないようにしていたので、供養もしていない。
そんな諸々が渦巻いているのだろう…勝則の声は小さくなって、最後は殆ど掠れ声だった。
「本当のとこは、誰にもわからん。
状況からそうじゃないかって言うだけだっただろう?」
「止めて下さい…。
まるで愛子が何かしたみたいじゃないですかっ。
あの子は湖か川に落ちて……でも…………でもっ! 何も出てきてないっ!
何処かで生きてる可能性だって……」
勝則の祈るような言葉を聞いて、麻砂子は声を上げて泣き出した。
その妻の肩を宥める様に、勝則は沈痛な面持ちでそっと手を置く。
麻砂子の嗚咽だけ微かに響く中、卓郎がきゅっと眉根を寄せ、厳しい表情を形作った。
「あん時も……今もだがな…。
俺も伸子も…いや、村中がかっちゃん家族の悲劇に何も言えんかった…。
実際なんも見つかってない訳だし、死んでしもたなんて…思いたくない気持ちもよくわかったから。
だから言えんかったけど……でも、変だなとは、やっぱり思っていた」
「義兄さん……。
違う……頼むから止めてくれ!」
必死の形相で首を振る義弟である勝則を、卓郎は痛まし気に見つめる。
麻砂子に至っては、魂が抜け落ちてしまったのように静かになっていた。
「愛子ちゃんがあの子を怒鳴ったり、突き飛ばしたりしてるんは、何人か見てるのよ…。
あたしも……だけど…」
「それは…」
伸子の言葉に、勝則が呻いた。
小縁村に来た時だけでなく、愛子は幼い事から妹を邪険にしていたのは事実だ。
勝則も見たり聞いたりした事があったので、それそのものを否定する事は出来ない。
最初は姉妹喧嘩か何かだと思っていた。
しかし、何時見ても妹の方は姉の愛子に縋る様な、不安を湛えた目で見つめていて、そこに姉に対する悪意を感じた事はなかった。どちらかと言うと愛子の方が悪意を漲らせていたように思う。
だが、だからって血の繋がった妹を、愛子がどうにかしたなんて考えたくはなかった。
「いい加減、あたし等もちゃんと向き合わなきゃいけないのかもねぇ…」
そんな伸子の苦みを内包した声を、愛子は廊下で聞いていた。
何時もの事だがタイミングが本当に悪い。
絶対に帰ると息巻いて部屋を出た後、真っすぐに両親の元へと急いだ結果だった。
(何なのよ……それに『あの子』って誰よ…。
この村の子の話?
それ、あたしに関係ないわよね? なのに何なの……?
はぁ、やっぱり糞だわ。
こんな所、つまんないし……ううん、つまんないどころか嫌な思いしかしてない。まぁ、かっこいい男の子はいたけど、彼とは相性悪いみたいだしな……それに……)
愛子は自分の足元をじっと見降ろした。
さっき着替えている時に気付いたのだが、自分の足…それも両足に絡み付く様に黒い痣が浮かんでいたのだ。
多分だが、あの入浴時に付いたのだろうと思う。
本気で忌々しくて、擦ってみたが肌が赤くなるだけだった。
其処まで考えて、愛子はグッと手に力を入れて、声を掛ける事もなくバッと開いた。
「あたし、帰るからっ!!」
「あ、愛子…?」
「………愛子…」
部屋へ足を踏み入れず廊下に立ったまま、愛子はきつい形相で室内の大人達を睨み付けた。
「何だって言うのよ……あたし被害者でしょ?
何にもしてないのに!!
おじさんも伯母さんも大っ嫌い!!」
プイっと玄関の方へ足取りも荒く出て行こうとする愛子に、呆けたようになっていた麻砂子がハッと気を取り直して追いかける。
「愛子…愛子!」
玄関に辿り着く前に愛子に追いついた麻砂子が、愛子の腕をつかむ。
「愛子、落ち着いて。
帰るったってまだ道通れないのよ」
「だったら歩いて帰るっ!!」
「そんなの無理よ」
「いやっ!
放して!!」
愛子は泣いていた。
泣いて頭を必死に振る。
もうどう言う感情の涙か、自分ではわからなくなっていた。悲しさ、悔しさ、苛立たしさ……そんなこんなの感情全てに恐怖まで加わって、愛子には『もう此処には居たくない』という、それしかわからなくなっていた。
「一体何なのよ!
あの子って何?
あたしが何したって言うの!?
知らない話なんかされたって、怒りしか出てこないよ!!」
泣いて暴れる愛子を、麻砂子はギュッと抱きしめた。
『これでもまだ思い出さないか…』
ゾクリと背が震えた。
暴れるのをやめ、眼球を動かし、音源を探す。
いつの間にか、愛子は真っ暗な空間に一人になっていた。
さっきまで確かに糸畑の家の玄関近くだったのに……。
さっきまで確かに母親に抱き締められていたのに……。
『さっさと思い出せ。
そうしないと彼女が存在出来ないんだ。
お前のせいで……』
「ヒッ!!!」
唐突に耳元を掠める声と吐息に、愛子は震え上がる。
飛び跳ねる様に身を翻そうとするが、失敗して転げ倒れた。
何処も、何処までも真っ暗で真っ黒で、なのに地面らしきものはあるらしく、愛子は倒れたまま、逃げを打つように這いずる。
視界の端に白い何かが映り込んだ。
声にならない悲鳴に、口を開くだけになったが、慌てて白い何かから離れようと身を捩る。
其処には白い足が見えた。
高価そうな草履を履いている。鼻緒の文様がとても美しい。
ゆっくりと見上げる。
其処に居たのは精巧な人形の様に美しい少年。
これまでは学生じみた格好だったのに、今は全く異なる装いをしている。
黒味がかった袴に、鮮やかな群青色の……これは狩衣とか言う装束だろうか…。
銀糸の刺繍が施され、その文様がまるで波紋のように見る者の目を奪う。
その上に乗る顔はやはり美しい。
血の気のない氷の肌には、すっと通った鼻梁、ゾクゾクする程の赤い唇、切れ長の凛とした双眸には吸い込まれそうになる様な黒曜石の瞳……何もかもが計算されつくした、完璧な美の形に配されている。
黒く艶やか髪が一房目に掛かり、それも底知れぬ色香を放っていた。
だが、愛子はその圧倒的な存在を前に、必死に弱々しい抵抗をしている。
「こ、こないでっ! こないでったら!!」
少年に呑まれてしまえば、愛子は二度と日常に戻れなくなる気がした。
『思い出せ』
息を飲む間もなく、愛子はずるりと絡み付いてきた何かに引き倒される。
ハッと意識を手繰り寄せた時には、既に手遅れだ。
愛子の両手首にあの黒い藻が絡むや否や、グンと引き絞られて、愛子の身体を磔の形に拘束する。
途端、見えない何か…ひやりとした何かが額に触れた。
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