第22話 俺、身を挺して守る
ちりん──
ドアのベルが鳴ると、奥から誰かの足音が近づいてきた。
「いらっしゃいませ──」
その声で、心臓が跳ねた。
白いシャツにエプロン姿。
あの横顔。
……間違いない。
彼女だった。
ミナト。
「……っ」
俺は言葉が出なかった。
けれど彼女は、柔らかく微笑んで、言った。
「お花、何かお探しですか?」
いつも通りの、接客の言葉。
でも、どこか遠い。俺の知っている彼女の目ではなかった。
──忘れている。天国でのことを。
俺のことも──きっと。
「……いや、その……あのとき……」
しどろもどろになりながら口を開こうとした俺に、彼女は首をかしげた。
「もしかして、どこかでお会いしましたか?」
笑顔には、悪意も、気配もない。
ただ──心の底から、思い出していないんだという確信だけがあった。
「──いや、こっちの話。
……ごめん、ちょっと似てる人がいたもんで」
「ふふ、よく言われます。昔、芸能の仕事をしてたので」
その声を聞いた瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
ああ、やっぱり。
あのとき、俺が助けた人だ。
でも、あの出来事は、彼女の中にはもうない。
彼女の中の「俺」は、もういない。
「お花、贈り物ですか?」
「……ああ。大切な人への。
──元気でいてほしいって、そういう願いを込めて」
ミナトは一瞬だけ、真剣な顔になった。
「なら……これなんて、どうですか」
彼女が差し出したのは、優しい紫と白、薄紅色の小花を束ねたアレンジメントだった。
「花言葉は、『再生』と『赦し』です」
俺は、声にならない感謝を胸に、ただ静かにうなずいた。
忘れられていてもいい。
でも──また、出会えた。
今度は、最初から、やり直すだけだ。
その日から、俺は《Le Lien》に何度か通うようになった。
ミナトに会う理由が欲しかった。
王としてではなく、俺として、また彼女に近づくために。
花の名前も、意味も知らなかった俺が、今では店頭に並ぶ花を見るだけで、
「それ、紫苑ですね」とか、「これはクレマチスの八重咲きか」と言えるようになっていた。
ミナトは、それを楽しそうに笑って聞いてくれた。
「ほんと、花のこと詳しいですね」
「まあ……最近ちょっと勉強したんだ」
「どうして?誰かに贈りたい人でも?」
その問いに、少しだけ迷った。
──君に贈りたい、って言いたかったけれど。
「……うん。自分に、かな」
「自分に?」
「頑張れって、言ってやりたかったんだよ。前より、ちゃんと」
ミナトは目を瞬かせてから、ふっと微笑んだ。
「……それ、いいですね。私もやってみようかな」
ある日、閉店後の店先で、彼女がつぶやいた。
「……不思議ですよね。あなたと話してると、何だか懐かしい感じがするんです」
俺は、その言葉に動揺しないよう、必死に平静を装った。
「懐かしい、って……俺の顔、見たことあるとか?」
「ううん、そうじゃなくて。
……なんて言うんだろう。ずっと前に、どこかで誰かに助けられた気がしてて。
夢だったかもしれないけど、そのときと、少し似てる気がして」
心臓が跳ねた。
記憶はなくても──魂のどこかには、残ってるのかもしれない。
あの「ありがとう」の余韻が。
「たぶん、それ、夢じゃないよ」
俺は、静かに言った。
「誰かが、ちゃんと君を助けたんだ。
その人、たぶん……君が今ここにいるの、すごく嬉しいと思うよ」
ミナトは少しだけ伏し目がちになって、息を吸った。
「……じゃあ、ちゃんと生きなきゃですね」
「うん」
「その人が、後悔しないように」
俺は、言えなかった。
「俺がその人だよ」なんて。
そんな言葉を投げたら、この静かな時間が壊れてしまいそうで。
記憶は失っていてもいい。
でも、もう一度、心をつなげられるなら──それだけで、今は十分だ。
俺はまた明日も、《Le Lien》に足を運ぶだろう。
そして、少しずつ。
彼女の笑顔を、未来に繋いでいく。
*
それは、ある雨上がりの夕方だった。
《Le Lien》の店先に、水たまりが小さく残り、花の香りと湿気がまざった空気の中。
ミナトは閉店作業の手を止めて、ぽつりと呟いた。
「ねぇ……私、ほんとは、死んだことあるんです」
声は静かで、でも確かに震えていた。
「……でも、目が覚めたら、病院のベッドで。家族は泣いてて、私だけ、なぜ生きてるのか分からなかった」
俺は言葉を飲み込んだまま、ただ彼女の横顔を見ていた。
「芸能やってた頃……しつこい人がいて。
『全部自分のものにならないなら壊す』って、そんな目をしてた」
「その人に、ずっとつけられてて──」
「駅でも、スーパーでも、誰かに見られてる気がして、息ができなくなって。
誰にも言えなくて、でも、耐えられなくて……」
雨の匂いが、急に鋭くなる。
空気がひやりと冷えて、言葉が凍るようだった。
「──だから、ある日、走ったの。車道に向かって。
もう全部、終わらせたくて」
「でも、間に合わなかった。私の前に誰かが飛び込んで──」
彼女はそこで言葉を止めた。
「その人は、助けてくれたの。
私、あの瞬間のこと、よく覚えてないんだけど……夢で何度も見るの。
白い光と──誰かが手を伸ばしてくるのが」
俺は、ただ静かに、うなずいた。
胸の奥で、何かが軋むように鳴っていた。
言葉にすれば、すべてが壊れてしまう気がして、何も言えなかった。
その夜だった。
閉店後、忘れ物を取りに戻った俺が店に入った瞬間、背中がぞわりとした。
見知らぬ男が、ミナトに詰め寄っていた。
「ようやく見つけた……やっと、また会えたんだ、ミナト……!」
その目は常軌を逸していた。
雨に濡れた髪、握りしめた紙袋の中に、鋭利な光がのぞいていた。
「やめろ!!」
俺は叫んで飛び込む。
ミナトを後ろにかばいながら、男に体当たりをする。
が、次の瞬間──
ズブリ、と何かが腹に刺さった感覚。
時間が、止まった。
体がぐらりと揺れて、視界が一瞬、真っ白になる。
「──っ……!」
ミナトが、俺の身体を支えながら絶叫する。
「だれか……だれか助けて!嫌!ダメ……!」
「──お願い、死なないで……!」
そのとき、ミナトの瞳が、なにかを思い出すように開かれた。
「──あ……あなた……っ!」
空気が震えた。
まるで、遠い記憶の波が、堰を切ったように。
「私……あなたを……天国で……」
涙が頬を伝う。
「わたし、生きるから……!
今度こそ、ちゃんと──生きて、あなたに『ありがとう』を言うから……!」
その声が、最後に聞こえた。
俺の身体が、意識を手放していく。
光が遠ざかる。
温度が消えていく。
──ああ、まただ。俺はまた、死んだんだ。
けれど──今度は、何も怖くなかった。
ミナトが「生きる」と言った。
あの言葉ひとつで、俺の命は、無駄じゃなかった。
次に目を開けたとき──
そこは、また天国だった。
眩しいほどの、澄んだ光に包まれていた。
俺はゆっくりと息を吸って、立ち上がる。
「……ただいま」
この場所に。
そして──俺自身に。