表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/24

第22話 俺、身を挺して守る

ちりん──


ドアのベルが鳴ると、奥から誰かの足音が近づいてきた。


「いらっしゃいませ──」


その声で、心臓が跳ねた。


白いシャツにエプロン姿。

あの横顔。

……間違いない。


彼女だった。


ミナト。



「……っ」


俺は言葉が出なかった。

けれど彼女は、柔らかく微笑んで、言った。


「お花、何かお探しですか?」


いつも通りの、接客の言葉。

でも、どこか遠い。俺の知っている彼女の目ではなかった。


──忘れている。天国でのことを。


俺のことも──きっと。



「……いや、その……あのとき……」


しどろもどろになりながら口を開こうとした俺に、彼女は首をかしげた。


「もしかして、どこかでお会いしましたか?」


笑顔には、悪意も、気配もない。

ただ──心の底から、思い出していないんだという確信だけがあった。



「──いや、こっちの話。

……ごめん、ちょっと似てる人がいたもんで」


「ふふ、よく言われます。昔、芸能の仕事をしてたので」


その声を聞いた瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。


ああ、やっぱり。


あのとき、俺が助けた人だ。


でも、あの出来事は、彼女の中にはもうない。


彼女の中の「俺」は、もういない。



「お花、贈り物ですか?」


「……ああ。大切な人への。

──元気でいてほしいって、そういう願いを込めて」


ミナトは一瞬だけ、真剣な顔になった。


「なら……これなんて、どうですか」


彼女が差し出したのは、優しい紫と白、薄紅色の小花を束ねたアレンジメントだった。



「花言葉は、『再生』と『赦し』です」


俺は、声にならない感謝を胸に、ただ静かにうなずいた。


忘れられていてもいい。

でも──また、出会えた。


今度は、最初から、やり直すだけだ。


その日から、俺は《Le Lien》に何度か通うようになった。


ミナトに会う理由が欲しかった。

王としてではなく、俺として、また彼女に近づくために。


花の名前も、意味も知らなかった俺が、今では店頭に並ぶ花を見るだけで、

「それ、紫苑しおんですね」とか、「これはクレマチスの八重咲きか」と言えるようになっていた。


ミナトは、それを楽しそうに笑って聞いてくれた。


「ほんと、花のこと詳しいですね」


「まあ……最近ちょっと勉強したんだ」


「どうして?誰かに贈りたい人でも?」


その問いに、少しだけ迷った。


──君に贈りたい、って言いたかったけれど。


「……うん。自分に、かな」


「自分に?」


「頑張れって、言ってやりたかったんだよ。前より、ちゃんと」


ミナトは目を瞬かせてから、ふっと微笑んだ。


「……それ、いいですね。私もやってみようかな」



ある日、閉店後の店先で、彼女がつぶやいた。


「……不思議ですよね。あなたと話してると、何だか懐かしい感じがするんです」


俺は、その言葉に動揺しないよう、必死に平静を装った。


「懐かしい、って……俺の顔、見たことあるとか?」


「ううん、そうじゃなくて。

……なんて言うんだろう。ずっと前に、どこかで誰かに助けられた気がしてて。

夢だったかもしれないけど、そのときと、少し似てる気がして」


心臓が跳ねた。


記憶はなくても──魂のどこかには、残ってるのかもしれない。

あの「ありがとう」の余韻が。


「たぶん、それ、夢じゃないよ」


俺は、静かに言った。


「誰かが、ちゃんと君を助けたんだ。

その人、たぶん……君が今ここにいるの、すごく嬉しいと思うよ」


ミナトは少しだけ伏し目がちになって、息を吸った。


「……じゃあ、ちゃんと生きなきゃですね」


「うん」


「その人が、後悔しないように」



俺は、言えなかった。


「俺がその人だよ」なんて。

そんな言葉を投げたら、この静かな時間が壊れてしまいそうで。


記憶は失っていてもいい。

でも、もう一度、心をつなげられるなら──それだけで、今は十分だ。


俺はまた明日も、《Le Lien》に足を運ぶだろう。


そして、少しずつ。

彼女の笑顔を、未来に繋いでいく。



それは、ある雨上がりの夕方だった。


《Le Lien》の店先に、水たまりが小さく残り、花の香りと湿気がまざった空気の中。

ミナトは閉店作業の手を止めて、ぽつりと呟いた。


「ねぇ……私、ほんとは、死んだことあるんです」


声は静かで、でも確かに震えていた。


「……でも、目が覚めたら、病院のベッドで。家族は泣いてて、私だけ、なぜ生きてるのか分からなかった」


俺は言葉を飲み込んだまま、ただ彼女の横顔を見ていた。


「芸能やってた頃……しつこい人がいて。

『全部自分のものにならないなら壊す』って、そんな目をしてた」


「その人に、ずっとつけられてて──」


「駅でも、スーパーでも、誰かに見られてる気がして、息ができなくなって。

誰にも言えなくて、でも、耐えられなくて……」


雨の匂いが、急に鋭くなる。

空気がひやりと冷えて、言葉が凍るようだった。


「──だから、ある日、走ったの。車道に向かって。

もう全部、終わらせたくて」


「でも、間に合わなかった。私の前に誰かが飛び込んで──」


彼女はそこで言葉を止めた。


「その人は、助けてくれたの。

私、あの瞬間のこと、よく覚えてないんだけど……夢で何度も見るの。

白い光と──誰かが手を伸ばしてくるのが」


俺は、ただ静かに、うなずいた。


胸の奥で、何かが軋むように鳴っていた。

言葉にすれば、すべてが壊れてしまう気がして、何も言えなかった。


その夜だった。


閉店後、忘れ物を取りに戻った俺が店に入った瞬間、背中がぞわりとした。


見知らぬ男が、ミナトに詰め寄っていた。


「ようやく見つけた……やっと、また会えたんだ、ミナト……!」


その目は常軌を逸していた。

雨に濡れた髪、握りしめた紙袋の中に、鋭利な光がのぞいていた。


「やめろ!!」


俺は叫んで飛び込む。

ミナトを後ろにかばいながら、男に体当たりをする。


が、次の瞬間──


ズブリ、と何かが腹に刺さった感覚。


時間が、止まった。


体がぐらりと揺れて、視界が一瞬、真っ白になる。


「──っ……!」


ミナトが、俺の身体を支えながら絶叫する。


「だれか……だれか助けて!嫌!ダメ……!」


「──お願い、死なないで……!」



そのとき、ミナトの瞳が、なにかを思い出すように開かれた。


「──あ……あなた……っ!」


空気が震えた。

まるで、遠い記憶の波が、堰を切ったように。


「私……あなたを……天国で……」


涙が頬を伝う。


「わたし、生きるから……!

今度こそ、ちゃんと──生きて、あなたに『ありがとう』を言うから……!」


その声が、最後に聞こえた。


俺の身体が、意識を手放していく。

光が遠ざかる。

温度が消えていく。


──ああ、まただ。俺はまた、死んだんだ。


けれど──今度は、何も怖くなかった。


ミナトが「生きる」と言った。


あの言葉ひとつで、俺の命は、無駄じゃなかった。


次に目を開けたとき──


そこは、また天国だった。


眩しいほどの、澄んだ光に包まれていた。


俺はゆっくりと息を吸って、立ち上がる。


「……ただいま」


この場所に。

そして──俺自身に。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ