第20話 王様、現世に戻る
「王様。地上から、報告が届いています」
ゲランが静かに書状を差し出す。
「ミナトさんの件です」
その名前に、俺の手が止まった。
報告書には、こう書かれていた。
『地上に帰還した者・ミナトについて、異常な変動を観測。
善行の痕跡が一部“断絶”しており、現世での存在に“ひずみ”が生じている』
『該当者の位置情報が一時的に途絶。
現在、再接続を試みているが、天界の加護が弱まっている可能性あり』
「……なに、これ」
声が震えていた。
「加護が……弱まってる?」
「はい。通常、帰還者は『魂の回帰経路』を保ったまま地上に戻るのですが……どうやら何らかの要因で、彼女との接続が断たれつつあるようです」
嫌な予感がした。
胸がざわつく。
あの時の笑顔が、ふいに浮かぶ。
「また、あいつに何か起きてるんじゃないのか……?」
「王様」
ゲランが、はっきりした口調で言った。
「すぐに判断はできません。ただ──ご希望であれば、
地上の監視者と通信し、直接『声』を聴く手段もあります」
俺は、迷わず言った。
「……繋いでくれ。今すぐに」
通信の準備には、半日を要した。
天界と地上を結ぶ術式の起動は、善行の“揺らぎ”がある者には不安定で、成功率は半分ほどしかないと言われていた。
それでも──会いたかった。
ただ、あの声を、もう一度だけでも聴きたかった。
そのときだった。
バシュッ、と淡い光が揺らぎ、視界の奥に映像が浮かび上がった。
そこには──
街角に立ちすくむ、ミナトの姿があった。
目の下にくまを作り、何かに怯えるようにして、携帯を握りしめていた。
その顔に、明るさはなかった。
「……っ、ミナト!」
呼びかけた。けれど、声は届かない。
通信は、あくまで観察用の一方通行。
それでも、伝えたかった。
──俺がいるよ。
──君を天国で見送ったのは、無駄じゃなかったんだよ。
──お願いだから、もう苦しまないで。
彼女はふと、何かを感じたように振り向いた。
空を、じっと見上げている。
目が、揺れていた。涙でにじんだような、深く、迷った瞳だった。
その視線の先に──俺の想いが届いていたかは、分からない。
けれど。
ほんの少しだけ、彼女の唇が動いた。
──「たすけて」
俺は、拳を握った。
「……もう一度、行けるのか。地上に」
ゲランは驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を戻す。
「王様。
帰還は『王』に与えられた、たった一度の特権です」
「分かってる。でも──あいつは、俺を救ってくれた。
今度は、俺が行く番だ」
俺の善は、偽善かもしれない。
それでも、あの子の声に背を向けるわけにはいかない。
光がまた、淡く揺らいでいる。
俺の選択が、この世界の制度さえも揺るがすと分かっていても──
後悔は、しない。
「お待ちください、王様。それは、あまりに危険です」
ゲランの声が響いた。
穏やかな語り口にしては珍しく、明確な拒絶の色が滲んでいた。
俺は王宮の階段を降りながら、少しだけ足を止めた。
「危険でも……行かなきゃいけない気がするんだ」
「ミナトさんの件、ですね。お気持ちは理解します。
ですが──王が自ら加護の接続を断ち、地上に戻るなど前代未聞です」
「でも、ミナトは俺の命を背負って地上に戻った。あいつが再び『善行の流れ』から外れたってことは、俺が、王としてじゃなく、人として何もできていないってことなんだ」
応接の扉の前で、ゲランが俺の行く手を塞ぐように立つ。
「王様、制度には理由があります。
本来、帰還は王だけに許された、たった一度きりの奇跡です。それを使い、あなたが戻るなら──今度は、二度と戻れません」
「分かってる」
「いいえ、分かっていません」
ゲランの声に、初めて怒気が宿った。
珍しく、彼が感情を露わにしている。
「王という存在は、制度の要です。
あなたが抜ければ、再審査制度も、加護の維持も、すべてが脆くなる」
「それでも──!」
俺は言葉を切って、呼吸を整えた。
「それでも、今、あいつを見捨てたら──俺は、きっと『善』を語れなくなる」
「……あなたは、本気なのですね」
「本気だよ、ゲラン」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ゲランは視線を落とした。
「……制度の歪みは、予兆として現れます。
『王が王でなくなる可能性』──それが、最も大きな歪みです」
「……歪みが生まれたら、どうなる」
「天国というシステムそのものが、反転を始めます。『善を積んだ者が上にいく』という構造が、不安定になってしまいます」
俺は静かに頷いた。
「それでも、王様としてじゃなく、『俺』として、決めたいんだ」
ゲランはしばらく沈黙していた。
そして、わずかに口元をゆるめた。
「……ならば、仕方ありませんね。
この私が、制度を維持しましょう。
あなたが帰る場所を、ここに残しておきます」
「ゲラン……」
「戻ってこられる保証はない。けれど、『戻る努力をする者』には、必ず道が残されると、私は信じています」
俺はその言葉を胸に刻み、転送の間へと歩を進めた。
扉の奥には、神々の加護を受ける「転還の泉」があった。一度しか使えない。
ここを使えば、王である資格を一時的に放棄することになる。
それでも──
「行ってくる。ミナトに、また会いに来たよって言わなきゃな」
泉に足を踏み入れた瞬間、世界がぐらりと傾いた。
強烈な光。
心が引き裂かれるような感覚。
何かを置き去りにしていくような、喪失の痛み。
でも──そのすべてを超えて。
俺は、ミナトのもとへ還っていく。
もう一度、「人間」として。