第19話 王様、ゲランの過去と向き合う
「下から文句が来てるぞ。王様の耳に届くように、ってさ」
朝、報告を読んでいた俺は、思わず息を吐いた。
第九下位区。
再審査制度によって「上位から降格してきた者たち」が、新たに住み始めた場所だ。
そのせいで、もともとそこに暮らしていた住民たちとの間で、あちこちに亀裂が生まれていた。
「あいつらは高慢だ」「自分を下位の人間とは思っていない──」
「こっちは何百年もここで生きてきた」「今さら平等面されるのは迷惑」
一見、平等の再配置に見えても、
「下がった者」と「ずっと下にいた者」がうまく馴染むわけがない。
善行の数だけで測られてきたこの世界で、
「善をやり直す機会」そのものに不信が生まれている。
「現場を見る必要がありますね」
ゲランが言った。
「制度の理念が、現実と乖離しているかどうか。それを確かめずに、紙の上だけで判断しては意味がありません」
「……それだけじゃないんだろ?」
俺が問いかけると、ゲランはわずかに視線を落とした。
「第九下位区に、前世で私の命を奪った男がいます。名前は──ロシュ・ザンガン。裏社会の長の一人でした」
ゲランの前世──
清廉な改革を進めた儒教政治の文官。
だがその改革が、闇の商いを潰し、反発を生み、
最後には見せしめとして“暗殺”されたという。
その刃を握っていたのがロシュだった。
「行こう、一緒に」
俺はそう言った。
「制度のほころびを見に行くついでに、
あんたがその男と向き合うことにも、意味があると思う」
「……はい」
ゲランは一瞬だけ目を閉じ、短く頷いた。
*
第九下位区は、どこか空気の重い場所だった。
建物は灰色がかっていて、街の広場には使われなくなった井戸がぽつんと残っていた。
歩く人の数は多くない。すれ違うたび、ちらりと視線を向けられる。
「……見られてますね」
「王って気づいてるわけじゃないよな?」
「服装は周囲に合わせましたが、雰囲気で分かる人もいるでしょうね。
それに──」
「?」
「彼らは、今、誰にでも『疑い』の目を向けているのです」
確かに、すれ違った中年の男が、俺たちを睨みながらつぶやいた。
「また偉そうな奴が来たぜ。今さら善人ぶって……」
その隣で、別の男が返す。
「お前だってもともとは上だったろ。下に落ちたからって被害者ぶるなよ」
ピリついている。思った以上に。
「階層のシャッフルが、いちばん摩擦を生むのはここかもな……」
「ずっと下だった者と、降格してきた者では、
『善の重み』の感じ方がまるで違うのです」
ゲランが、廃れた案内板の前で立ち止まる。
「──この先です。彼がいるのは」
廃工場の一角を改装した、半地下のような空間。
ろくに明かりもなく、天井からはひび割れた鉄骨がのぞいていた。
そこに、いた。
ロシュ・ザンガン。
白髪を後ろに束ね、薄い外套を羽織っていた。
鋭い眼だけが、今も鋭利な刃のようだった。
「……来やがったか、文官様」
ゲランは静かに一礼した。
「前世の借りを返しに来たわけではありません。ただ、あなたに問いたいことがある」
「……問え」
ロシュは低く笑った。
「正義の味方が、俺みてぇな外道に、何を問うってんだ」
「なぜ、私は殺されたのですか」
「は?」
「私が知りたいのは、あなたの怒りの理由です。民を救おうとした私の改革が、なぜ『あなたの殺意』を生んだのか」
しばらく、ロシュは黙った。
そして、かすれた声で言った。
「……俺たちを、『人間』として見なかったからだよ」
ゲランは目を伏せる。
「てめえの改革は、美しかったよ。
でもな、それは紙の上での話だ。
俺たちみてぇな裏稼業の者からすれば、てめえは法の刃だった」
「確かに……私は、声を聞かなかった」
「正しさってのは、片方の側だけ見て進めば、
もう片方を潰す凶器になる。
てめえはそれをやった。だから、俺は刃を向けた」
俺は黙って、二人の会話を見ていた。
正しさは、万能じゃない。
それを持つ者の手によって、毒にもなる。
ゲランが、ゆっくりと頭を下げた。
「私は、あなたを赦しません。
でも、あなたの言葉は──理解しました。
それが、王政のもとで共に生きるということだと、今なら分かります」
ロシュは少しだけ目を細めた。
「……なら、それでいい」
工場を出るころには、空が傾き始めていた。
夕陽が鉄の瓦礫を、赤く染めている。
「ゲラン」
「はい」
「……あんた、少し変わったな」
「王様の影響です」
その言葉に、俺はちょっとだけ笑ってしまった。
そして、ふと振り返った俺の目に──
ぼろぼろの掲示板に貼られた、子どもの絵が映った。
たすけてくれたおじさんの顔。
白い服、優しい目、にこっと笑った絵。
「……あの絵、誰だ?」
「分かりませんが……この区にも、『善』は残っているようです」
俺はそのまま、小さな紙を剥がさずに残した。
今度こそ、善は評価されなくても生き残る。
そんな世界を、俺たちはつくろうとしている。
*
王宮の窓を開けると、春の光が差し込んでいた。
街路樹の葉が風に揺れて、どこか遠くから鐘の音が聞こえる。
けれど──心はまるで晴れなかった。
第九下位区の視察を終えてから数日、
俺の胸の奥に重く残っていたものがある。
「正しさ」は、人を救うはずのものだった。
でも、時に人を壊す。ゲランがそうだったように、ロシュもまた、そうだった。
じゃあ、俺の善は──?