第16話 王様、火の王政を始める
夜明け前、まだ空に薄明が滲むころ──
王宮の外れ、審査局の裏門にて、ゲランはひとり立っていた。
背筋はいつも通りに真っ直ぐ。
だが、その横顔には、滅多に見せぬ翳りが差していた。
きっかけは些細なことだった。
再審査制度に関する内部調査で、旧記録の確認が必要になった。
そして、そこに記されていた名──
《サイ・カジヤ》
下位第九位。暴力行為、恐喝、贈賄、脅迫未遂。
数多の罪状とともに、最後の一行にこう書かれていた。
「前世:シンセリア国、文官殺害に関与」
その名を見た瞬間、ゲランは口元を強く結び、何も告げず出ていった。
俺がそのあとを追ったとき、
彼は、審査局の独房前で、じっと中を見つめていた。
薄暗い空間に、ひとりの男がいた。
骨ばった手足、鋭く濁った眼。
見るからに、ならず者──けれどその姿は、ゲランの記憶の奥に、深く刻まれていた。
「……おまえが、『サイ』か」
ゲランの声は低く、凍っていた。
「おう。てめえの顔、覚えてるぜ。相変わらず澄ました面してやがる」
「なぜ、俺を殺した」
「知るかよ。言われたからやっただけだ。上の奴らが、あんたのきれいごとが邪魔だってさ」
サイは悪びれもせず笑う。
「ま、あのときの顔は最高だったぜ。『善を尽くした者がこんな死に方をするのか』って目してた」
ゲランの拳が震える。
普段の理性も、秩序も、彼の指先から滑り落ちそうだった。
俺は横に立ち、そっと言った。
「……おまえが許さなくても、俺はおまえを裁かない。けど、怒っていい」
ゲランは何も言わなかった。
けれどその目の奥に、燃えるような赤い光が宿っていた。
「この天国で、また力ある者のために罪を重ねるなら……そのときは、俺が裁く。王として、ではない。──人としてだ」
牢の奥で、サイは薄笑いを浮かべながら沈黙した。
去り際、ゲランは一度だけ振り返った。
「……俺の正しさは、誰にも理解されなかった。それでも、俺は、道を曲げない」
その言葉は、風のように背中へ抜けていった。
その夜、ゲランは珍しく、ワインを口にした。
「……王様、私にはまだ怒りがあります。許せない人間が、この国にも、この空にも、いる」
グラスの影が、机に滲んだ。
「それでも、あなたの言葉に、心が止まらなかったことを……感謝しています」
その声は、はじめて人間らしい温度を持っていた。
「……読み上げます」
重く張りつめた空気のなか、玉座の間に文書を持つ侍従の声が響いた。
『再審査制度を、上位・中位・下位すべてに適用する。
善行の評価基準は、行為の量から質へと移行し、
その者の動機と影響を含めた再評価を行うこととする』
法文の読み上げが終わると同時に、王宮の静けさに波紋が広がった。
まず口火を切ったのは、中位の評議員たちだった。
「これは、制度の根幹を揺るがす暴挙です!」
「善行を積んできた者の価値を否定するおつもりですか!」
続いて、上位区の貴族たちが怒りに満ちた顔で進み出る。
「このような改変は、『劣った者』が平等を叫ぶための詭弁だ!」
「王が情に流された結果、制度を腐らせるなど、前代未聞!」
だが俺は、彼らの怒声を真正面から見据えていた。
「善を独占しているつもりか?
ならば問おう。善とは、誰のためにある?」
その日──
俺の施政は、ついに「火」を灯した。
制度を焼き、古い「善」の形を一度壊す覚悟を持って。
王令が布告されてから、街はざわつき始めた。
広場の掲示板には再審査の予告通知が貼り出され、
善行点で上位にあった者が、一時的に評価を保留されるケースも出てきた。
「不公平だ!」
「王は気まぐれで人を裁いている!」
一部では、俺に対する風刺画まで描かれる始末だった。
王冠の代わりに薪をかぶり、燃え盛る火を背負った「炎の暴君」。
でも、それでいいと思った。
火は、何かを焦がす。
でも、同時に、新しい芽を育てる土も、あたためてくれる。
その夜。
俺はひとり、王宮の外にある審査場跡に立っていた。
風に吹かれて、砂埃が舞う。
かつて、罪が一方的に宣告されていた場所。
今はまだ、そこに対話も、赦しも、根を張っていない。
けれど──
俺は、その焦げた土を見下ろし、ひとことだけ呟いた。
「ここから変える。偽善じゃなく、本物を生きるために」
その言葉に応えるように、足音が近づいた。
振り返ると、ミナトが立っていた。
手には小さな花苗の鉢。
「……火があるところに、芽は育ちやすいんですよ。焦げた土って、養分が多いから」
そう言って、彼女は膝をつき、花をそっと埋めた。
俺は、何も言えなかった。
ただその横で、土を手伝った。
火の王政は始まった。
俺たちのやり方で──ゆっくり、けれど確実に。