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5 むすんでひらいて

 学校では朝から体調を気づかう友人たちに囲まれ、差し入れとばかりに野菜ジュースやヨーグルト、バナナや売店で売られているメロンパンなどを押しつけられた。クラスの仲間との関係は良好で気兼ねしない。適当にあしらいつつ、その日の授業は最後までしっかり受けきったものの、頭のなかは透子さんのことでいっぱいになっていた。

 古典の授業中(当時はほかの教科よりも罪悪感が少なかった)、彼女は読み聞かせのときに透子さんが読んでいた言葉を思い出し、スマホで検索して出てきた作品をこっそり読んでいた。夢野久作が別名義である海若藍平(かいじゃくらんぺい)の名で書いた『虫の生命(いのち)』という作品で、青空文庫で公開されていて全文が読める。

 古典の教科書を立てて目隠しを作り、ノートの上にスマホを置いて透子さんが読み上げる声を想像しながら黙読する。


 小さな虫を救うても、救うた生命(いのち)は只一つ、象の生命を助けても、助けた生命は只一つ、虫でも象でも救われた、その有り難さは変らない、虫でも象でも同様に、助けた心の美しさ、人の生命を助くるは、人の心を持った人、虫の生命を助くるは、神の心を持った人、みんな仕えよ神様に、御礼申せよ神様に。


 夢野久作の名前は『ドグラ・マグラ』のタイトルでつとに知っていた身で、「チャカポコチャカポコ」で有名なそれが日本三大奇書のひとつなどと呼ばれていたものだから、きっと作者も相当へんちくりんな人なんだろうと勝手に思いこみ、彼が別名義でさまざまな作品を書いていることはこのときまで知らなかった。

 休み時間に友人に聞いても同様のありさまだ。夢かうつつかの曖昧さや蝶のモチーフを登場させるにあたり、彼女は二年生のころに古典の授業で習った胡蝶の夢を思い出すにとどまらせておいた。心のなかはもっぱら透子さんの読み聞かせの声が占めていた。


 ああ、蝶が沢山飛んできたな。今年の正月、あの夢を本当にしてあの樫の木の虫を助けておりゃあ、今頃はあんな蝶になって飛びまわっているかも知れない。その代りおれの方は日干しになって死んでいるだろう。馬鹿馬鹿しい事だ。こっちの生命(いのち)と虫の生命(いのち)と換えられるもんか。どれ一つ炭を焼き初めようか。今度のは特別に虫が多かったようだぞ。


 古典教諭が堅い調子で教科書を読み上げはじめた。「秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、となり……」と。

 いつもは退屈であくびを誘うには申し分ないその声も、ほかに集中することがあればこれほどまでに雑音を遮断してくれるものもない。

 心地よいまどろみをもたらしてくれる透子さんの声とは違い、古典教諭の朗読はさながら念仏のようだった。先生のことも念仏のことも悪く思うつもりはなかったが、なんだか陰気くさいしそもそもなにを言っているのかわからない、一度内容がわかってしまえば首をうんうん縦に振っておもしろいと思えるのかもしれないが、少なくとも弦の伸びきった三味線みたいなのっぺりした調子で読み上げられるそれらはいずれも彼女にとって大して魅力的なものとは思えなかった。

 授業はしっかり受けたもののけっきょくのところ馬の耳に念仏だった。彼女は終礼のチャイムのあと通学カバンに必要最低限のノートや教科書を詰めこんで学校を飛び出す。涼しく快適な場所を背後に遠ざかる後ろめたさはもうなかった。暑いけれど風と日陰の心地いい流れに身をゆだねながら透子さんの声を聞けるなら、これほどありがたいこともない。

 公園に着いたのは16時半だった。昨日と同じ場所に停めた新緑色のワーゲンバスの近くで透子さんが子ども連れの親御さんたちと談笑にふけっているのが見えた。他愛ない世間話に花を咲かせているのだろう。ときおり親にしがみつく子どもにちょっかいを出す仕草が見てとれ、子どもの目線にしゃがんで頭をなでたり、むすんでひらいてを歌いながら手遊びに興じていた。

 無邪気に入っていくのは気が引けてベンチに座って遠巻きにやりとりを眺めていると、やがて親御さんのグループは離れていき、ふたたび公園のなかで彼女は透子さんと二人きりになる。彼女はすっと立ち上がり、透子さんは親御さんたちを見送ったあと彼女に顔を向け手を上げた。

「こんにちは。今日も来てくれてありがと」

「あの! 昨日はありがとうございました」

 ほとんど同時に声をかけあったものだからお互いなにを言ったのか聞きとれず、怪訝な表情になって近づく。

「昨日は本当にありがとうございました。おかげで熱中症にもならずに家に帰れました」

「そっか、よかった。今日も来てくれてありがとうね。しっかしまあ小学生以下の子どもと高校生だとやっぱり時間合わないよね。今日の読み聞かせもついさっき終わっちゃったの。なるべくいろんな場所、いろんな人にとは思ってるけどなかなか難しい。車入れる公園て案外少ないし」

「わたしなんかに構わずやっちゃってください。ただその、ちょっとだけ聞きたいなって思って」

「そうだったね。そこ座って」

 まだ片付けられていなかったブルーシートにはひさしの影が落ち、夕暮れ間近の適度なそよ風が肌をなでにじんだ汗をさらってゆく。いつのまに梅雨って明けたんだっけ、とローファーを脱いでブルーシートに腰を下ろす最中に思った。スカートを巻きこんで横に両足を投げ出し、透子さんが準備できるのを待つ。

 ワーゲンバスの荷室は見上げる感じで見えていたが、本も箱もほとんど天井(ルーフ)までぎっしりで、下から見ると窮屈な迷路だ。判型も背表紙もばらばらで無秩序と表現しても言いすぎではないのに、本たちは荷室のなかで妙に秩序だった調和をえがき、太陽の光に反射する《《ちり》》を紙ふぶきの演出としてどっしり構えているように見えた。どこかのファンタジー世界の図書館につながっているみたい、と息を飲んでいると、透子さんの準備がととのったらしい。一冊の文庫本を手に荷室のへりに腰かけ足首を組みぷらぷらさせていた。

「なに見てたの?」

 にこにこした笑顔でいたずらっぽくいう透子さんに、彼女は投げ出していた両足をさっと正した。それで「いえっ、なにも見てないです」なんて慌てて言い返したものだから、透子さんはこらえた様子でくすくす笑った。

「そう? じゃあ読んでもいい?」

「あ、はい……」

 もしかしてからかわれているのかなと、そう思った。子どもにちょっかいを出していたのと同じく、子どもみたいに扱って楽しんでいるのか、と。そう考えると彼女は少し胸がしくしく痛む感覚がして、透子さんに気づかれないように体をこわばらせた。

「正座くずしていいよ。そんな学校の卒業式みたいにあらたまる必要ないからさ」

「正座好きなのでこのままでいいですか」

「それはもちろんご自由に」

 姿勢はくずさず鎮座したが、正座はふつうに大嫌いだった。ただ自分のことを透子さんによく見せたかったからという理由でとっさについた嘘だった。そんなに長い物語じゃありませんように、すぐ終わりますように、などとわずかでも考えてしまったらそこで終わりだと思った。

「なにを読むんですか」

「今日はね、これ読んだ」

 文庫本の表紙に書かれた作者は小川未明という人らしいが聞いたことがない。そんな表情を読みとられたのか、透子さんが少し解説をしてくれた。

「小学校の道徳の時間とかで読んだことない? 赤いろうそくと人魚って作品、あれを書いた人の本」

「あ、それなら知ってます。ろうそく屋の老夫婦に助けられた人魚がろうそくに絵を描いて売ったらお店が大繁盛して、お金に目がくらんで人魚を身売りに出したあと大嵐で街ごと壊れちゃうって話ですよね」

「そんな感じ。で、この短編集のいくつかを読んだってわけ」

 そういって透子さんは文庫本をぱらぱらとめくりはじめた。今日いちばん子どもたちに受けたものを、というリクエストをなんとなしに尋ねてみると、「『木と鳥になった姉妹』だね」と答えてくれた。それはどういうお話なのか続けて聞いてみると、「それは聞いてからのお楽しみ」と笑みをたたえた顔でひらりとかわされてしまった。

 彼女は正座していた姿勢をそのままに、わずかに目を伏せて文章に目を落とす透子さんの姿に視線を向けた。まつげ長いなあ、化粧品なに使ってるのかな、あ、また甘い匂い、とか考えながら少し待っていると、透子さんがすっと口を開いた。

「あるところに、人のよいおばあさんが住んでいました。このおばあさんはいろいろな話を知っていました。恐ろしいような話も、不思議な話も、またおかしいような話なども知っていました。この話は、やはりそのおばあさんが聞かせてくれたのであります」

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