3 想像の姿に、あの凛とした声を乗せ
帰宅が遅かったことで親に小言を言われてから、彼女は自室に向かい重苦しい通学カバンを放り出してベッドに身を投げ出した。大きなため息が自然と漏れ出る。
これから夕飯を食べに階下に降りるのが怖かった。親と顔を合わせるたびになにをちくちく刺されるのかわからない。気晴らしに、彼女はスカートのポケットに入れていた名刺を取り出した。
「読み聞かせボランティア、こころみ、代表」そこまで棒で読みあげて、ふとそこから先はなんだか棒で読んではいけなかった気がした。
「あき、とうこ、さん」
彼女はスマホを取り出して自身も登録していたSNSアプリを起動した。友だち検索で名刺に記載されたIDを入力するとサジェスト機能でワーゲンバスのアイコンが表示され、すぐにそれとわかった。彼女は出てきたアイコンをタップしページに飛んだ。
ヘッダーには後部にひさしを広げた新緑色のワーゲンバス、そして大量の本の背表紙。タイムラインには公園の写真といっしょに読み聞かせの時間帯と『ぜひみんなで聞きに来てください!』という宣伝文句が載せられていた。
さらにさかのぼると、旅先で撮影されたであろう道中の景色、名所の写真の数々が掲載されていた。場所はさまざまで多くは海沿い、砂浜や公園が多い。そのためかアルバムのページは海の青を基調としていてさわやかな印象だ。ときおり読み聞かせに訪れた子どもたちがワーゲンバスの前に集まった記念写真もあるが、透子さんはそのどれにも写っていなかった。
読み聞かせは車が停められるような公園で開催することが多いらしい。冬のあいだは休業期間として更新も止まるのが通例のようだった。
最も古い更新は5年前で、そのころはグッドボタンの数も0が多い。ゲリラ的でまちまちな開催だったのを事前に場所と時間帯を知らせるようになり、新しいSNSアカウントの開設宣言をさかいに徐々に増えてきたようで、数百人ほどのフォロワーがついていた。投稿記事のコメント欄は地元の人が参加したときの感想が主たるもので規模は小さいものの盛況しているのがうかがえた。
彼女は自身も利用していたSNSアカウントでそのページをフォローした。今日の読み聞かせのことはまだ投稿されていなかったから、最新記事のコメント欄に『今日はスポドリとタオルありがとうございました。明日また公園で会ったらあらためてお礼を言わせてください』と残しておいた。
投稿されたコメントにはワーゲンバスのアイコンでグッドボタンが押されていたので、それを既読の証にしているのだろう。コメント自体への返信は最低限にしているようだった。事務所などはないといっていたから、SNSの管理も透子さんがひとりでおこなっているに違いない。わたしのコメントには返信してくれるかな、とそんな気持ちになったのはごく自然なことだったが、忙しいのであれば無理に返してほしいとは思わなかった。
それからタイムラインをゆっくりとながめているとつい時間も忘れてしまい、階下から夕飯を呼ばれるまで彼女は透子さんがたどった足跡をなぞり続けていた。
スマホを充電器につないで急いで下に向かうと母親の不満顔があり、しかもその姿が仁王立ちだったので思わず立ちどまる。
「ご飯前にこんなこと言いたくないけど、どうして体調悪かったのにすぐ帰ってこなかったの。学校から連絡あったからお母さん心配したよ。熱はある?」
「途中コンビニのイートインで休んでたら寝落ちしただけ。熱はないよ」
イートインの件はともかく寝てしまっていたのは事実だ。
母親はそれで納得したのか彼女を食卓にまねいた。テーブルには町役場勤めの父親と、弟で小学生のソーイチがすでに着いており夕飯を食べはじめていた。夕飯はハンバーグだったがソーイチも手伝ったのだろう、少し歪な楕円形をしていた。それでも味は一級品で下ごしらえはおそらく母親がしたに違いない。とくに意識していなかったがお腹もずいぶん空いていたようであっという間に食べ終わってしまった。
夕食後、片付けを終えてからは順番にお風呂に入るのが古海家のルーチンだった。最初は父親、次にソーイチ、その次は彼女か母親が入り、順番を待つあいだはたいてい居間でバラエティ番組を見る。ソーイチが風呂上がりの牛乳をぐっと流しこんだときだった。不意に話題を切りだした。
「そういえばさ、いま町に読み聞かせのボランティア来てるんだってさ。めっちゃかっけえ車で来てるって」
ドキッとした。父親が反応する。
「ああ、そういえば役場にも来てたなあ。ボランティアでひと夏読み聞かせするので不審者じゃないです、って。若い女の人でしっかりした感じだったよ」
「へえ、そうなの。夏名は知ってる?」
「いや知らない」
とっさに早口で反応してしまったが、家族のなかで透子さんをいちばん知っているのは彼女だった。けれども、そのときは透子さんとの関係を家族に知られたくないと思っていた。コンビニで休んでいたという嘘や、関係を知られるというほどの関係はなかったにしても、だ。そもそも寝落ちしたのを見守ってもらっていたあげく、スポドリを奢ってもらっただけの関係など彼女にとっては恥以外のなにものでもない。露呈しようものなら今年の雪が解けるまでからかわれるのは明白で、それだけは避けたかった。
「ソーちゃんとこは読み聞かせ来ないの」
「わかんない。でも先生たち的には全校集会とかでやってもらおっかみたいなこと言ってた気がする」
「お父さんとこは」
「町役場では動きはじめてるよ。町営の保育園や特養なんかで、って話をちらほらな。まだ検討段階だけど」
「へえ、高校は?」
「高校でそんな子どもっぽい行事やるわけないじゃん。ていうか県立だし隣の市だよ」
そこで彼女は妙な違和感を覚えた。読み聞かせが子どもっぽい行事であることには事実らしさを感じたのに、その読み聞かせにうつつを抜かした自分はいったいなんなのだろう。
「あ、今日お母さん先にお風呂入って。わたし最後でいい」
「そう? じゃあお言葉に甘えて……」
そう言って母親はそそくさと居間から出ていった。彼女もソファから立ち上がり二階の自室へ舞いもどる。ベッド上の充電器につないでおいたスマホはまだ満充電には達していなかったが、通知が来ているのかランプがちかちか点滅していた。スマホに飛びついて確認するとSNSの返信マーク、そしてコメントがついていた。
『こちらこそ今日はありがとうございました。明日も同じ公園で読み聞かせするのでぜひ来てください。夕方、お待ちしてます!』
覚えていてくれた、と思った。ベンチでうたた寝しているのを見守ってくれた身で覚えていないというならおかしな話になってしまうが、そういう意味ではなく、透子さんはこのコメントを打っている最中、きっと彼女の姿を一瞬でも脳裏に思い描いてくれたに違いない、という甘やかな想像だ。
それだけで彼女は胸がいっぱいになって何度も何度もコメントを見ては透子さんの読み聞かせの姿を想像した。
そして、その想像の姿に、あの凛とした声を乗せたのだ。