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2 あとでフォローよろしく

 ひぐらしの鳴き声が夢とうつつの狭間に聴こえたとき、彼女はようやく目を覚ました。小高い山にある公園には地平線に降りようとしている夕日の光が柵でさえぎられ、放射状にのびて、天と地をオレンジ色の淡い幾何学(きかがく)模様に染めていた。

 ベンチに体を横たわらせていた彼女は甘い匂いと人の気配を感じた。寝ぼけまなこをこすりつつ身をよじって徐々に上に視線を向けると、白い足先、七分丈の紺のストレッチパンツで組まれた膝、パブリックドメインのボタニカルアートを利用した紙のブックカバー(当時、電車で一時間かかる市内の書店で本を買ったときにサービスでつけてくれた)が見えた。

 そして、あの新緑色のワーゲンバスがひさしを作って彼女がいるベンチに陰を作ってくれていた。

「あ、えっと、はあ」

 寝覚めのぼやけた頭でもだれかがいることは瞬時にわかった。だからこの間の抜けた言葉は誇張でもなんでもなく、ただそのとおりに漏れ出た言葉だ。

 本を読んでいるその人が言った。

「おはよう」それで彼女はようやくはっきりと認識することができた。ワーゲンバスで(うた)うような言葉を発していた女の人の声だった。「もう夕日落ちるよ」

「はあ、あの、つい眠くなって」

「わかる。私の朗読聞いてたでしょ。あのときすっごい私も眠かったんだよね、つられたのかもね」

 ゆっくり半身を起き上がらせて顔を上げると、若い女の人、髪の毛をアップスタイルでまとめて見える顔つきには少しの緊張感を張りつけているように見えた。ひとめ見ても感じのいい人だと思った。

「起きるの、待っててくれたんですか」

「見ず知らずとはいえ放っておけないし」

「いや、あの、起こしてくれれば」

 彼女がそういうと、女の人ははにかんだような笑顔を見せてくれた。

「汗だくなのに気持ちよさそうに寝てたから、起こすのも悪いと思って。はいこれ」

 横に置いていた保冷バッグから取り出したのは濡れたハンドタオルとキンキンに冷えたスポーツドリンクだった。公園の下で営業している個人商店「近江屋(おうみや)商店」のシールが貼ってある。そこでやっと喉がカラカラなことに気づいて、彼女はキャップを開けて三分の二をいっきに飲み下した。軽く息をついて「ありがとうございました」とぎこちなく答えると女の人から「これくらい当然」との返事。

 ハンドタオルでにじんだ汗を拭きながら、その次に自然と「あの」という声が出た。

「お名前、なんていうんですか」

 女の人は少し目を丸くして「お」の形にした口をいったん閉じ、すぐに「あきとうこ」と答えた。

(ひのえ)のあきに、透明のとう、子どものこで、丙透子(あきとうこ)

 そういって女の人はストレッチパンツのポケットからアルミ製の名刺入れを取り出し、一枚を手渡してきた。名刺にはかわいらしいワーゲンバスと本のイラストに〈読み聞かせボランティアこころみ 代表 丙透子〉と名前が記されてあった。

「ボランティアでやってるんですか?」

「そう。このワーゲンバスに本を載せて、いろんな場所で読み聞かせ会をひらいてる。小さな町とか図書館のない地域とか、あとは保育園、養護施設……だいたいは子どもたちに向けて、ね。ちゃんと地域の首長さんには許可とってやってるから安心して」

 ボランティア、代表、丙透子、彼女はふたたび名刺を見た。連絡先の電話番号は090から始まるキャリアのもので、住所の代わりに車種と車のナンバーが明記されていた。ほかにも各種SNSのアカウントIDなどが小さく付記されている。名刺から視線をバスに向けると透子さんが気づいたように言った。

「あ、これね。全国転々としてて事務所とかないからわかりやすいように車のナンバーにしてるの。SNSもやってるおかげで信頼度バツグン。あとでフォローよろしく」

 開け放たれた後部ドアから見える車内にはたしかに本や本棚の影が見えた。

「なか、ちょっと見てみてもいいですか」

「いいよ。足下気をつけて」

 うながされてワーゲンバスの横から入ると、後部座席はすべて取り払われ、代わりのように置かれているのは丁番とネジでしっかり固定された胸下ほどの本棚、そしてそこに厚さや背丈の不揃いな本がぎっしりとたくさん並んでいる小さな図書館のような光景が広がっていた。小さなダンボールも箱もいくつか積んで置かれており、力なく開かれたフタから垣間見えるそれにも本がはち切れんばかりに詰めこまれていた。ぱっと推察しただけでも1000冊近い本があった。

 彼女はそのうちのひとつに気づいて本棚から抜きとった。

『ふたりはともだち』──アメリカの絵本作家アーノルド・ノーベルが作者の児童文学で、彼女にとっては小学二年生のころの国語の教科書の題材として覚えている作品だった。彼女が二年生のころに触れたタイトルは「がまくんとかえるくん」や「手紙」だったが、『ふたりはともだち』という見慣れないタイトルにピンときたのは本のほうが彼女に見つけてほしかったからに違いない。

 彼女は本を開いてぱらぱらとめくった。昔は国語の教科書をだれより先に読破してしまって、気に入った作品については二次創作を書き始めたり、独自の挿絵を描いたりしていた。そんな時代もあったっけ、とたった10年そこそこ前の小さな小さな思い出に不思議と胸が満たされる。そこへふと、透子さんが声をかけてくれた。

「私もそれ好きだよ」

 その声があまりにも近かったから驚いて、思わず本を落としそうになってしまった。振り返ると肩口から覗いてきていたのかあっけらかんとして様子で首をかしげていた。

「短い物語だし読んであげよっか」

 心臓がずっと飛びはねていて、なにか言おうものなら口から出てきてしまいそうで、彼女は二の句をつげるどころか唇を固く結んでふるふると首を横に振った。

「そっか。ごめんね驚かして。日も暮れるし帰らなきゃ」

 それから透子さんはワーゲンバスから降りた。深呼吸して心臓を落ち着かせてから本を元の位置に戻して下車する。スマホで時刻を確認するとたしかに18時になろうとしている時間だった。ひさしの片づけを始めていた透子さんにいった。

「あの、また明日ここに来てもいいですか」

「うん。どうぞ。でも授業が終わったあとでね。その制服、このあたりの高校のだよね」

 そう言ってほほ笑まれて、彼女は顔が真っ赤になってやいないかとひやひやした。夕日の赤のおかげで多少はごまかせていただろうか。

 明日からはちゃんと授業を受けてからここに来たい。それがこの夏におとずれた、彼女の初めての変化だった。

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