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1 新緑色のワーゲンバス

 記憶を探るとなによりもまず最初に思い出されるのは風見鶏がしめっぽい風にゆられる錆びた音だ。

 風見鶏なんてつけるのはいまどきもの好きな人くらいで、たいていは経年で錆びた部品がこすれあう音がかん高く響きわたり、近所からの苦情に負けて取りはずすことになる。だからその風見鶏が錆びた音を立ててなお存在していられたのは、風見鶏が小高い山の上のひと気の少ない公園にあったものだからだろう。

 その公園は幼いころから彼女のお気に入りの場所だった。

 当時、彼女は高校三年生で進路に困っていた。いや、困っていたというよりは将来についてなにも考えが浮かばなかった、というほうが正しいかもしれない。

 高校生活も二年を過ぎて春休みを経たころには、この生活があと1年しか残されていない事実への名残り惜しさと、夏にはじまる試験対策の夏期講習、もしくは補講、夏休み後は授業の遅れを取り戻すためのハイスピード授業、そしてそれから数ヶ月と経たずにセンター試験や大学受験などの人生の試練が待っていることへの恐れがあったことだろう。

 それらをひっくるめて高校三年生の春は自分の人生に対して日和見でいられる最後の期間だ。もちろん、就職やAO入試や推薦入試を狙っている学生にとっては、この時期もけっして気を抜くわけにはいかないが。

 彼女は学校を仮病で抜け出してその公園に来ていた。六限目の授業をひかえた昼下がりだった。梅雨期にめずらしいカンカン照りだったその日は、憂鬱にとらわれていた彼女の足どりを軽くはさせない。汗でわずかに重くなったシャツを肌に張りつけながら低い段差の階段を一歩一歩踏みしめて公園に向かっていた。

 学校の教室は昨年度から設置されたエアコンで涼しく快適で、お昼ごはんを食べたあとのこの時間はとくにまどろみが心地よくもあったが、彼女はそうしたうしろめたさも無視して授業から抜け出したかった。将来の夢がないまま授業を受けるのは、苦手な国語の授業を聞いている以上に苦痛でならなかった。

 彼女には憂鬱なことがもうひとつあった。春休み明けすぐのころに実施された進路希望調査で、なにも書けなかった彼女は担任教師に親を呼び出され、急きょ三者面談をおこなうことになった。

古海(こうみ)さんの進路ですが、現段階でこれだとちょっとまずいですね。お母さまは古海さんと進路についてご相談されたことありますか」

「いいえ、この子あまり自分のことを喋ってくれないんです。自分の部屋にいる時間が増えました」

「そうなんですね。では普段の様子は」

「ええ、最近はなんだか会話も少なくて」

「ご家庭のほうは……」

「手伝いもとんと……」

 そんなやり取りを交わしながら担任教師も母親もどんどん話を進めていく。なぜ進路の当事者であった彼女が三者面談で蚊帳の外に置かれなければならなかったのか、それはいまもわからない。ただ、話に混ざって意見を述べたところで理解され受け入れられるとはとても思えなかった。

 それから三者面談が終わって自宅に着き、車庫から玄関までのわずかな合間、まだ肌寒さの残る春先の夕暮れを二人して歩きながら母親が不意に口をひらいた。

「大学行くなら学費とか生活費とかはなんとかしてあげるけど、夏名(なつな)の人生は、夏名が決めなきゃだめだからね」

 彼女はそれには答えなかった。「けっきょく進学なんじゃん」というのと「しかも家から出ていくの前提」という逆張りの気持ちが先行するのと同時に、母親の前を足早に歩いて目の前に見えた自宅の門扉に手をかけた。このごろ父親が油差しを怠っていたのか、錆びた音がさみしく響いた。家にいてなんとなく居心地悪くように感じられたのはそれからだった。

 学校へは行きたくないし、家には帰りたくない、そんな二つの憂鬱から逃れるには日本海を一望できるお気に入りの公園しかなかった。

 彼女はようやく階段の最後の一段をのぼり終えひと息つくため通学カバンに入れたサイダーをあおった。カラカラの喉に生ぬるいサイダーはお世辞にもおいしいとはいえなかったが、渇きを癒すには充分だった。

 それからキャップを閉めると、ふと耳にかすかに届いてくる音を感じた。鳴きはじめの蝉の()ではない。そよ風のようにかすかでささやかなその音はどうやら人の声だった。公園のなかから聴こえる。彼女はペットボトルをカバンにしまい直し、入り口に足を踏み入れた。

 新緑色のワーゲンバス。

 だいぶ錆びついている。

 最初に見えたのはそれだった。後部ドアが開け放たれ、油圧ロッドの部分と桜の木の枝に紐でひさしがくくりつけられていた。陰の下にはブルーシートが敷かれ、小さな子どもたちとその親らしき人々が体育座りや正座をしながらワーゲンバスの荷室を見つめていた。

 不思議に思った彼女は好奇心のおもむくままその場所に向かった。耳に届いていたかすかな人の声はだんだん高低が明らかになり、声の輪郭もはっきりしてくる。

「勘太郎は(ねむ)っているうちに、どこからともなく悲しい小さい声で歌う唄い声が聞こえてきました」

 その声は女の人のもので、息の長い台詞を読むような口調で凛とした言葉を発していた。

「街には人の冬ごもり、明るい楽しい美しい、樹々には虫の冬ごもり、暗い悲しいたよりない。冬の夜すがら鳴る風や、降る雪霜のしみじみと、たよりに思う樫の樹は、()り倒されて枯らされて、炭焼竈に入れられて、明日は深山にたつけぶり……」

 その女の人の声は風の音にまぎれてたゆたい乗ってくるかのようだった。抑揚がおさえられた詩的な文章はそのまま歌っているといっても間違いではなかった。昼下がりにこめかみをなぞるまどろみが声になったらたぶんこんな感じなのだと、彼女はすっと目をほそめた。

「その樫の樹ともろ共に、灰か煙かかた炭か、あとかたもなく消えて行く、悲しい悲しいそのいのち、()れがあわれと思おうか、小さい小さい虫一つ、()れがあわれと思おうか」

 彼女はワーゲンバスや子どもたちから少し離れた木陰のベンチに腰かけた。ちょうどバスから風下にあってかすかに香る甘い匂い。木洩れ日と葉ずれの音が女の人の声に重なりあって、彼女はしだいに重くなってきたまぶたをついには完全に閉じてしまった。

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