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まえがき

 夢や未来をいっぱいに詰めこんだトランクはいつも胸のうちに大事に抱えていたはずなのに、いつのまにかなくしていたことに気づいたのは、あなたと出会う少し前だった。

 うしなったのはトランクそれ自体なのか、あるいはトランクの中身であるのかはいまでもよくわからないことではあって、それは代わりの夢と未来(つまり心地よい重さがあって腐らずいつまでも目の前にあるもの)が新しくいっぱい詰めこまれたからだろう。

 あなたに出会ったのは高校三年の梅雨。ちょうど夏休みがはじまる二ヶ月前のこと、あなたは新緑色のワーゲンバスの後部ドアを開け放ち、麻布で作ったひさしの陰に子どもたちを座らせて本の読み聞かせをしていた。夏のはじまりの風に乗ってやってきた声はとても澄んでいて、鳴きはじめの蝉の喧騒の合間を縫ってはっきりとわたしの耳に届いてきた。そのたおやかな糸を手繰り寄せてあなたのもとへ向かったのだといっても、特別ロマンチックなことではないとあなたは思うに違いない。

 あの夏の永遠ともとれるひとときについて思い出すといまでも心がおどり、胸を打つたび熱いものがのどを通って溢れ出てきてしまう。あなたの放ったことばのひとつひとつをたしかめたくて、記憶の限り伝えようとしたそれらがけっきょくかすれた嗄声(させい)になる……。

 高校三年のあの夏のさなか、ふわりと胸のなかに天使が降り立ってからずっと、再会したときには絶対にこのことばを伝えようと思っていた──わたしといっしょにもう一度読み聞かせの旅をしませんか?──あなたの声を感じたと思ったら次にはすっかり喧騒にまぎれたなんて瞬間を何度も何度も味わった。

 居場所を探しあてて、どこにいようと会いに行こうという思いが先走ったこともあったけれど、日々の生活とをのせた天秤のかたむきがやがて均衡をとって静止するように二の足を踏んでしまい、ついに一歩も動き出せないまま、あれからとうに10年の月日が経とうとしている。

 直接伝えたいことはあってもわたしの声は風に乗ってはくれないが、ペンをとって呼吸をするたび吐き出されては深緑の染みになってこの白い大地に深く根を張ってくれる。

 だから、ここから書くことはすべて、いつか芽吹いてその種が風に乗ってくれるように、置き土産にしよう。

 そしていつかここにたどり着いたあなたが、あなたの声でまた、種を蒔いてくれることを願って。


 2020年8月某日  夕凪に沈む稲穂と頭垂れつつ

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