08.愛されたかった
「わぁ……」
外に出て初めて見る景色に、ロゼッタは感嘆の声を上げた。
太陽の光を浴びた木々は鮮やかな緑に染まり、鳥たちが飛び回っている。庭園には色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りが漂っていた。
「気に入ったかな?」
アイザックはそう言いながら、ロゼッタの顔を覗き込む。
「はい、とても」
ロゼッタが微笑むと、アイザックは満足げに微笑み返した。そして、手を差し伸べてくる。
「では、行こうか」
アイザックに導かれて、ロゼッタは花々が咲く道を歩いた。
爽やかな風が甘い香りを運びながら、頬を撫でていく。
「ロゼッタは、この庭に来るのは初めてなんだよね?」
「はい。ずっと、お部屋にこもってばかりでした」
「それは寂しかっただろう。父上は忙しい上に気が利かないからね。僕がもっと早く来ていればよかった」
残念そうなアイザックの言葉に、ロゼッタは苦笑した。どうもアイザックはコーネリアスに対して辛辣なようだ。
「おにいさまは、おとうさまのことが好きではないのですか?」
疑問を口にすると、アイザックは不思議そうに首を傾げた。それから、困ったように微笑んだ。
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、父上はあまり子どもに興味がないみたいでね。あまり構ってもらった記憶もないし、ちょっと距離を感じてしまうんだ」
そう言って、アイザックは肩をすくめる。
「そうだったんですね……でも、おにいさまは結構おとうさまにいろいろ言ってますけれど」
「ああ、まあ最近はね。何せ父上には僕ときみ以外の子はいない。これから増えることもなさそうだし、王太子である僕を簡単に切り捨てることはできないだろう? それなら、少しくらいわがままを言っても構わないかと思ってね」
悪戯っぽく笑ってみせるアイザックに、ロゼッタは呆気に取られた。
だが、すぐにおかしさが込み上げてきて、くすくすと笑い声を上げる。
「おにいさま、悪い人ですね」
「そうかもしれない。僕は、自分勝手で欲張りな人間だからね」
アイザックはさらりと認めると、楽しげに口角を上げる。
「でも、ロゼッタ。きみだけは特別だよ」
そう言って、アイザックはそっとロゼッタの頬に触れた。
「きみは僕の、唯一の妹だ。たった二人きりの兄妹なんだから、仲良くしよう」
アイザックは優しく微笑む。その笑顔を見て、ロゼッタも自然と笑顔になった。
「はい、おにいさま」
「うん、いい子だ」
満足げに頷いてから、アイザックは再び歩き出す。ロゼッタも彼の隣を歩いた。
繋がれた手から、アイザックのぬくもりが伝わってくる。その温かさに、ロゼッタは心が満たされるのを感じていた。
しばらく歩くと、小さな東屋が見えてきた。そこには白いテーブルと椅子が二脚置かれている。
「ここで少し休憩しよう」
アイザックはそう声をかけると、ロゼッタの手を引いて椅子に腰掛けた。そして、すぐに侍女を呼ぶとお茶の準備をさせる。
準備を終えた侍女が下がると、アイザックはにっこりと微笑んだ。
「さあ、お茶を飲んで」
「ありがとうございます」
ロゼッタはお礼を言ってから、ティーカップを手に取った。ふわりと花の香りが漂うお茶を飲むと、体が温まるような気がした。
「おいしいです」
「そう、よかった」
アイザックは微笑んでから、自分もお茶に口をつけた。しばしの沈黙が流れる。
「……おにいさま、あの」
「なんだい?」
ロゼッタが声をかけると、アイザックは優しく微笑んで首を傾げた。その笑顔に勇気をもらい、言葉を続ける。
「さっき、わたしたち以外の子はいないとおっしゃいましたよね。しかも、これから増えることもなさそうだって。それって、どういうことなんでしょう?」
おずおずと尋ねると、アイザックは苦笑を浮かべた。
「ああ、そうだね……どこから話そうか」
アイザックは少し迷うような素振りを見せてから、ロゼッタを見つめた。そして、ゆっくりと語り出す。
「父上はもともと、王位を継ぐはずじゃなかった。三番目の王子だったからね。でも、父上の兄たちが次々と夭折してしまったんだ。で、父上が国王となった」
「そう、だったのですか……」
ロゼッタは、コーネリアスが国王になった経緯を初めて知った。
前世のニーナが生きていた時点では、コーネリアスは単なる第三王子だったはずだ。どうしてだろうかと思ったことはあったが、これまで知るすべはなかった。
「それで、当時の王太子の婚約者だった母上を、父上が娶ったんだ。ちなみに、父上には婚約者がいたけれど、その時点ではすでに亡くなっていた。何でも、人質として嫁いできた王女で、故国が裏切って処刑されてしまったらしい」
淡々と話すアイザックの言葉に、ロゼッタは衝撃を受けた。
処刑された婚約者とは、前世のニーナのことだ。思いがけず前世に関連する話題が出てきたことに、ロゼッタは動揺する。
そして、アイザックの母であるブリジットのことも思い出した。確かに、彼女は王太子の婚約者だったはずだ。
小国の王女にすぎないニーナとは違い、大国の王女だったブリジットはいつも堂々としていて、近寄りがたかった。未来の王妃としてふさわしく、王太子とお似合いだと周りから言われていたのを覚えている。
「ああ、すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ。大丈夫、きみにはそんなつらい思いは絶対にさせないからね」
暗い表情になったロゼッタに気づいたのか、アイザックは気遣わしげな視線を向けてきた。
ロゼッタの前世の事情など知らないアイザックは、王女が処刑されたことにショックを受けたと思ったのだろう。
その優しさに、ロゼッタは胸がいっぱいになる。
「おにいさま、ありがとうございます」
ロゼッタが礼を言うと、アイザックは柔らかく微笑んだ。そして、話を続ける。
「父上は、母上を妻として受け入れたけれど、二人の仲は冷めていた。まあ、政略結婚だからね。母上は、愛のない結婚をした上に、愛情のこもらない子どもまで産まされたわけだ」
一息つくと、アイザックはティーカップに口をつける。
まるで他人事のように語る彼を見て、ロゼッタは胸を痛めた。だが、彼の表情には憂いも怒りもなく、ただ静かなだけだ。
ロゼッタが見つめると、アイザックは微笑む。
「そんな顔しないで。大丈夫だよ。それに、今の僕にはきみがいるからね」
そう言って、アイザックは手を伸ばすとロゼッタの頬に触れた。そして、優しい手つきで撫でる。
彼の眼差しはとても優しく穏やかで、だからこそ切なく感じられた。
「それで、父上と母上の関係は冷え切ったままでね。二人の間に次の子は望めないだろうし、側妃……きみの母上も、病を得て療養中だ。もともと側妃だって、国内の貴族たちから押しつけられたものなんだ。だから、きっと新しい側妃を娶ることはないだろう。父上の子どもは、僕らだけなんだよ」
アイザックは寂しげに笑ってから、ロゼッタをそっと抱き寄せた。そして、優しく髪を撫でてくれる。
「大丈夫、僕がきみを守る。ずっと側にいるよ」
「……おにいさま」
ロゼッタはアイザックの服をぎゅっと握り、胸に顔をうずめた。
黄金色の頭をぽんぽんと優しく叩きながら、アイザックは囁くように語りかける。
「だから、きみはもう少し甘えていいんだ。我慢せずに、わがままを言ってもいいんだよ」
ロゼッタは顔を上げると、アイザックの顔を見つめた。すると彼は微笑み返してくれる。
「おにいさま……わたし……」
ロゼッタは何かを言いかけたが、口を閉ざした。
しかし、アイザックはロゼッタが何を言いかけたのか察したようだ。彼は頷くと、再び優しく頭を撫でてくれる。
「もちろんいいよ、言ってごらん」
アイザックが促すと、ロゼッタは少しためらってから言葉を紡いだ。
「……わたし、家族に、愛されたかったんです」
そう口にした瞬間、ロゼッタの目から涙がぽろりと零れた。そして、次から次へと流れ出て止まらなくなる。
前世のニーナは、幼い頃から家族に愛されなかった。誰も彼女を気にかけてくれなかったし、守ろうともしなかった。
だが、今は違う。ロゼッタには守ってくれる父がいて、アイザックも可愛がってくれる。
それはとても幸せなことで、だからこそ失うことが恐ろしい。もし、また家族に捨てられたらと思うと怖くてたまらなかった。
「ロゼッタ、大丈夫だよ」
アイザックは優しく囁きながら、そっと背中をさすってくれた。その温かさに甘えながら、ロゼッタはただ涙を流し続けた。
そうやってしばらくの間泣いてから、ロゼッタはようやく落ち着いた。
「おにいさま、ごめんなさい。もう大丈夫です」
ロゼッタはそう言って、涙を拭いながら微笑む。すると、アイザックは涙をハンカチで拭ってくれた。
「いいんだよ。僕の前でならいくらでも泣いていいんだからね」
そう言って、アイザックは優しく髪を撫でてくれる。そんな彼に心まで満たされながら、ロゼッタは微笑んだ。
「はい、ありがとうございます」
すると、アイザックも嬉しそうに微笑む。そして、もう一度だけ頭を撫でてくれたあと、立ち上がった。
「さて、そろそろ戻ろうか」
そう言って手を差し伸べてくれるアイザックに微笑み返してから、ロゼッタは彼の手を取る。二人で東屋を出て、宮殿に向かって歩き出した。
アイザックはロゼッタの手を引いて、ゆっくりと歩いてくれる。彼の優しさを感じながら、ロゼッタは穏やかな気持ちに包まれていた。
しばらく歩いて、東屋が見えなくなってきた頃、アイザックがふと足を止めた。
どうしたのだろうと思って見上げれば、宮殿からコーネリアスがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「父上だ」
アイザックはぽつりと呟いて、わずかに身を強張らせる。
ロゼッタも緊張しながら、父の様子をうかがった。