04.父親
翌朝、ロゼッタは優しい香りで目が覚めた。
ゆっくりと目を開けると、そこには見覚えのない天井が広がっている。一瞬混乱したが、すぐに昨日のことを思い出す。
そうだ、ここはコーネリアスの寝室なのだ。
まだ少しぼうっとする頭を押さえながら、ロゼッタは扉に視線を向ける。
すると、侍女が花瓶を持って部屋を出ていくところだった。
花瓶に活けられていたのは白い百合だろうか。すぐに彼女の姿が見えなくなったため、確認することはできなかった。
「ん……」
ゆっくりと体を起こすと、寝台の横にピンク色の薔薇が置かれていることに気がつく。
今の侍女は、花瓶ごと花を取り替えていったらしい。
ロゼッタは、そっと手を伸ばして花弁に触れる。ふわりと漂う甘い香りに、自然と頬が緩んだ。
その香りが、今が現実であることを教えてくれる。
「……夢じゃなかったのね」
ぽつりと呟く。
自分が生きていること、そしてコーネリアスが父親であること、すべてが夢ではなく現実だったということを実感する。
「目が覚めたか?」
不意に、扉の開く音がしてコーネリアスが入ってきた。手には水の入った桶と布を持っている。
ロゼッタは、思わず身構えた。しかしコーネリアスはそんなロゼッタの様子に構うことなく寝台に近づくと、そのまま腰を下ろした。
「熱はもう下がったようだな。体はどうだ? まだつらいか?」
心配そうに顔を覗き込んできたコーネリアスに、ロゼッタは首をぶんぶんと横に振る。
「だいじょうぶです」
そして、喉を押さえながら答えた。
喉が渇いていたため、水が欲しいと言えば、コーネリアスはすぐにロゼッタの願いを聞き入れて、水の入ったコップを差し出した。
「あの……」
それを両手で受け取ったロゼッタは、コーネリアスに声をかけた。
「どうした?」
「どうして、わたしを助けてくれたのですか?」
そう尋ねたロゼッタに、コーネリアスは一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、微笑を浮かべた。
「自分の娘を助けるのは当然のことだ」
当たり前のように告げられた言葉に、ロゼッタは目を丸くして固まってしまう。
そんなロゼッタの頭を優しく撫でながら、コーネリアスは言葉を続けた。
「お前は、私のたった一人の娘だ。だから、私がお前を守るのは当然のことだ」
「でも、わたしなんかを……ずっと放っておかれたのに……」
ロゼッタは戸惑いながら呟く。
生まれてから六年間、コーネリアスは一度としてロゼッタに会いに来てはくれなかった。
それどころか、ロゼッタの存在すら忘れていたのではないかと思うほど、何の音沙汰もなかったのだ。
なのに、なぜ急に助けてくれる気になったのか、ロゼッタにはわからなかった。
すると、コーネリアスは苦笑しながら口を開く。
「そうだな、お前には寂しい思いをさせてしまったな。お前の母親を遠ざけていた私のせいだ。すまない、ロゼッタ」
悲しそうに眉根を寄せたコーネリアスを見つめ、ロゼッタは不思議な感覚を覚えた。
コーネリアスとこうして話すのは、初めてのことだ。
前世で婚約者だったときですら、これほどゆっくりと話をしたことはなかった。
今、自分が見ているコーネリアスは、前世の記憶にある人物とはどこか違う。
前世の自分が知っている彼は、もっと冷淡で、どこか人を寄せつけないような雰囲気をまとっていた。
けれど、今目の前にいるコーネリアスは、優しく穏やかな表情を浮かべている。
それは、とても父親らしい表情だった。
よく見れば、年齢を重ねた故の深みのある美貌は、かつてとは違う。だが、今のコーネリアスは、前世の記憶にある彼よりもさらに魅力的な人物に思えた。
この人が今の自分の父親なのだと、ロゼッタは実感する。
「おとうさま……」
ロゼッタは、小さく呟いた。そして、ゆっくりとコーネリアスに手を伸ばす。
「……どうした?」
首を傾げるコーネリアスの頬に手を触れさせる。そのまま胸に飛び込めば、コーネリアスは少し驚いたような顔をしたあと、優しく抱き締めてくれた。
その腕のぬくもりに、ロゼッタは安堵の息を吐く。
「おとうさま」
コーネリアスの胸に顔を埋めながら、ロゼッタはもう一度彼を呼んだ。
「どうした?」
コーネリアスは、優しく背中を撫でてくれる。
「わたし、ずっとおとうさまにこうしてほしかった」
ロゼッタの呟きに、コーネリアスは苦笑したようだ。優しい手つきはそのままに、自嘲交じりの声が降り注ぐ。
「もっと早くこうしていれば良かったな」
コーネリアスのその言葉は、ロゼッタの心を満たした。
ずっと自分は愛されたかったのだ。
それが、今ようやく叶えられた。
そんな実感に、ロゼッタはコーネリアスの腕の中で目を閉じる。
そして、この幸福な時間が永遠に続くことを祈った。
こうして、ロゼッタはコーネリアスの宮殿で暮らすようになった。
コーネリアスは忙しく、一緒に過ごせる時間は短かったが、ロゼッタはそれでも満足していた。
彼はロゼッタと過ごす時間をとても大切にし、なるべく食事やお茶の時間を共にしてくれるのだ。
「ロゼッタ、何か欲しいものはあるか?」
ある日の昼下がり、一緒にお茶を飲みながらコーネリアスが尋ねてきた。
「ほしいもの……」
ロゼッタは、突然の質問に首を傾げながら考え込む。
欲しいものと聞かれても、思い当たるものが特にない。
あれほど苦しく、つらかった毎日から解放されたのだ。これ以上を望むのは贅沢というものだろう。
「何でもいいぞ。遠慮することはない」
ロゼッタが困っている様子に気づいたのだろうか、コーネリアスが重ねて問いかけてくる。
「えっと……」
ロゼッタは悩んだ末に、一つ思いついた。
「あの、もっとたくさんの本を読みたいです」
今も部屋には、コーネリアスが用意してくれた絵本や童話がある。しかし、それらは幼い子ども向けのものばかりだ。
ニーナの記憶がよみがえったときに、文字や言語の知識も思い出したロゼッタにとっては、少し物足りなかった。
「本か……」
コーネリアスは、顎に手を当てて思案しているようだった。そして、すぐに微笑む。
「わかった。手配しよう」
「ありがとうございます」
嬉しさのあまり、ロゼッタの顔にも自然と笑顔が広がる。
「他にはないか?」
さらに問われ、ロゼッタはしばらく考えてみたが、やはり何も浮かんではこなかった。
「いえ、とくにありません」
「そうか……」
残念そうな声音で呟いたコーネリアスは、それからロゼッタを膝の上に乗せると頭を撫でてくれた。
「私にできることならなんでも言ってくれ」
「はい……」
コーネリアスの優しさに、ロゼッタは心が温まるのを感じた。
そして、この人の娘になれたことを幸せに思った。
前世では婚約者だった相手だが、なぜか違和感なくコーネリアスを父親だと認識できる。
自分でも不思議だが、ニーナもコーネリアスに対して恋愛感情があったわけではなく、家族として愛してほしかったのだろうか。
いや、そう思うのも今の自分がロゼッタだからなのかもしれない。
どちらにせよ、今のロゼッタにとってコーネリアスは大切な存在だった。
ただ、この幸福がずっと続けばいいと思う反面、心のどこかで不安が頭をもたげる。
この国は前世の自分を処刑した国だ。
かつての故国の裏切りが原因なのだから、恨みはない。ただ、恐ろしかった。
今は大切にされているが、前世で自分が処刑されたときのように、何かよくないことが起こるのではないか。または、突然コーネリアスの態度が変わるのではないか。
そう思うと不安だった。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
黙り込んでしまったロゼッタを不審に思ったのか、コーネリアスが顔を覗き込んできた。
「あの……」
ロゼッタは悩んだ末、意を決して口を開く。
「どうしてあの日、おとうさまはわたしを助けにきてくれたのですか?」
ずっと聞きたかったことだ。なぜ、コーネリアスは自分を助けに来たのだろう。
もう六年も放置していた娘を、なぜいまさら気にかけてくれるようになったのだろう。
ロゼッタは、じっとコーネリアスを見つめる。
「そうだな……それは……」
コーネリアスは少し逡巡したあと、ぽつりぽつりと話し始めた。