02.虐げられる娘
「コーネリアス、さま……?」
無意識のうちに、自然とその名前が口をついて出た。
すると、コーネリアスが訝しげに眉を寄せる。
「何故、名を……まだ熱があるせいか?」
「え、あ……」
ロゼッタは戸惑いながら、コーネリアスを見上げる。
彼の深い青色の瞳は、記憶にあるとおりだ。それをロゼッタの紫色の瞳が映す。
すると、コーネリアスははっと息をのんだようだ。しかし、彼はすぐに表情を戻すと、気を取り直したように口を開いた。
「とにかく、今はゆっくり休め」
それだけ言って、コーネリアスは踵を返した。そのまま部屋から出ていこうとする。
「お、お待ちください、陛下! もうお戻りになるのですか!?」
女性が、焦ったようにコーネリアスを呼び止める。だが、彼はちらりと振り返り、冷たく女性を一瞥すると、すぐに部屋をあとにした。
「陛下、お待ちを……!」
その後ろ姿を追って、女性が部屋を出ていく。
バタン、と扉が閉まった途端、ロゼッタは全身の力が抜けた。起き上がろうとしても力が入らず、ベッドの上でぐったりと倒れこんだまま息を潜める。
今の状況がよく理解できず、呆然としたままだ。
そのまましばらくすると、女性が戻ってきた。
「この役立たずが! 陛下を引き留めることもできないなんて! お前なんて産まなければよかったわ!」
女性はロゼッタを見下ろし、憎々しげに吐き捨てる。
その瞬間、ロゼッタは唐突に思い出した。
この人は、自分の母親なのだと。そして、コーネリアスこそが父親なのだと。
自分は、国王コーネリアスと側妃マライアの間に生まれた、六歳の王女ロゼッタなのだ。
それを理解した途端、どっと冷や汗が流れ、動悸がして気持ち悪さが込み上げてきた。
「まったく、どうして私がこんな目に……それもこれも、全部お前のせいよ! お前が男に生まれていれば、こんな惨めな思いなんてしなくてすんだのに!」
マライアは、ロゼッタの髪をつかんで引っ張った。ぶちぶちと、何本か髪が抜ける音がする。
「い、いたいっ……!」
「うるさいわね! お前が男だったら、私は王太子を産んだ妃として王妃になって、陛下は私を愛するはずだったのに……! 全部、お前のせいよ! お前が男に生まれていれば……!」
何度も髪を引っ張りながら、マライアはロゼッタを罵る。
このままでは髪が抜け、禿げてしまうのではないかという恐怖と痛みに、ロゼッタは悲鳴を上げた。
「やめて! いたい、やめて……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
涙が滲んで、視界がぼやける。
それでもマライアはロゼッタの髪を引っ張り続けた。そしてひとしきり喚くと気が済んだのか、手を離して部屋を出ていく。
「……っ、はあ……はあ……」
ロゼッタは泣きじゃくりながら、母親にひどい目にあわされたショックとあまりの痛みに呆然としていた。
悪夢の中にいるような心地だったが、これは間違いなく現実だった。この肉体で生きており、命があることをまざまざと突きつけられたのだ。
「わたしが、男に生まれていれば、か……」
やがて少し落ち着いてくると、先程の母親の言葉を反芻する。
ロゼッタは、ベッドの上に散らばった髪を眺める。前世のニーナの黒髪とは違う、ボールド王家の象徴とも言える黄金色の髪だ。
ぼんやりと、ロゼッタとしての記憶がよみがえってくる。
「……むりよ。だって、王妃さまには立派な息子がいるのだもの。正嫡の王太子さまがいるというのに、側妃の子が男だったところで、王太子になれるはずがないわ」
ロゼッタは、弱々しく呟く。
コーネリアスの正妃であるブリジット王妃には、王太子アイザックがいる。それも優秀で、将来が有望と言われている人物だ。
側妃の子である自分が男に生まれていたところで、彼を押しのけて王太子になれるわけもない。
マライアはそのようなこともわからならないほど、頭がおかしくなっているのだろうか。
「そもそも、どうして……わたしは、たしかに死んだはずなのに……こんな、こんなことって……」
何度も頭を振る。世界がぐにゃりと歪んだような気がした。
ニーナとしての自分が死んでから十数年もの歳月が過ぎていたことも、今の自分の名前はロゼッタであり、側妃マライアの娘であるということも、とても受け入れがたいものだった。
もしも生まれ変わることができるのなら、温かい家族や、愛してくれる婚約者に恵まれた、幸福な女の子になりたいと思っていた。
けれど、現実はこれだ。
母親から虐げられ、父親からは無関心に放置されている。
「こんなの、ひどい……ひどすぎるわ……」
ロゼッタは、ぽろぽろと涙を流した。
前世でも、今世でも、こんなひどい目にあうために生まれてきたのか。だとしたら、自分は生まれてこなければよかったのではないか。
「だれか……いいえ、そんなひと、いるわけがない……」
泣きながら、ロゼッタは呟いた。
前世でも、今世でも、誰からも愛されなかった。誰も助けてはくれなかった。ならば、今世の自分だって助けてくれる人などいないのではないか。
そんな思いが脳裏をよぎる。
誰も助けてくれないのなら、このまま生きている意味はあるのだろうか。
「わたしは……死んだほうがいいのかも……」
ぽつりと呟いたそのとき、部屋の扉が開く音がした。
驚いてそちらを見ると、マライアがこちらに向かってやって来る。
どうやら、またロゼッタを虐げるつもりのようだ。
「いや、もういたいのはいや……」
マライアが迫ってくる恐怖に、ロゼッタはベッドの上で後ずさった。
しかし狭いベッドの中だ。すぐに背中が壁にぶつかってしまう。
逃げ場をなくしたロゼッタを、マライアは狂気の笑みを浮かべて見下ろしていた。
「高熱で死にかけたお前を、陛下はお見舞いに来てくださったわ。それなら、お前が死ねばきっと陛下はまた来てくださるはずよね?」
マライアは、ロゼッタの細い首に手を伸ばし、その首を締め上げた。
「お前を失った私を、きっと陛下は哀れんでくださるわ。そして、新しい子を授けてくださるのよ。役立たずのお前とは違う、優秀な子を。そうすれば、私も陛下に愛されて王妃に……」
「ぐっ……う……」
息苦しさに、ロゼッタは必死にもがいた。
けれど、マライアの手を引き剥がすことはできない。さらに強く首が絞まっていき、目の前がだんだんと暗くなっていく。
だが、これで楽になれるかもしれない。死んだほうがよいと思っていた自分にとっては、むしろ喜ばしいことではないか。
そんな諦めと安堵が入り交じった思いで、ロゼッタは力なく目を閉じた。