49 アルセール殿下一世一代の名演技
「はい!お約束の薬湯です!」
アマルをひと目見て言葉を交わしたことに多大なる感謝をしていたビルによって作られた特製魅了阻害剤を眼前に差し出されたアルセール殿下は僅かに怯んだ。
私がアマルと会ってから5日になる。
その間にアマルから聞き取ったレシピを元にビルに薬湯を作って貰った。それをさっそく朝一番で殿下に献上したのである。
ビルの料理に宿る治癒力がアマルの鱗粉に由来するものだとわかったことで、ビルは学園を辞めていた。以前の生活に戻れたことで、さらにビルのなかで私への感謝が増したらしく、人気店【馬の帽子亭】でパティスペシャルという隠語で注文すると裏メニューの新鮮桜肉の刺身が付くようになったらしい。
はじめてモーティマー侯爵家の使用人からその噂を聞いたとき、なんだか気恥ずかしくて胸の辺りがムズムズとした。
ダグラス様は、
「まだ僕だって呼んでない愛称をメニュー名にするなんてっ!」
とたいそうお怒りだったが、隠れて何度か、そのメニュー名を言いたくて【馬の帽子亭】に通ったと彼の従者からこっそり教えて貰った。
どうせなら一緒に行きたかったわ、と頬を膨らませたのは愛嬌。
「パトリシア、これはまた、なんとも…」
アルセール殿下が躊躇うのも仕方がない。
目の前に並々とカップに注がれた液体の見目が悪すぎる。
ドロリとした茶色の液体からは得たいの知れない湯気が立ち、時々コポリと泡が浮く。
匂いは多少苦い感じがするが、是非に飲みたい、と切望するほどそそられる匂いでもない。
寧ろ見た目からしてライトな香りだと、胸を撫で下ろす感じだ。
「はい、私もさすがにグロテスクだとは思いました」
使ってる材料が薬草をメインにしているだけに、やはりどうしてもこうなってしまうのだ、とビルが人の良い顔を申し訳なさそうに歪めて、悔しがっていたことを私はふいに思い出した。
「でもビルが作ったんですから、確実に味は悪くない、はずです!」
毒味が必要なら私が飲もう!と勢い込んだとき、横からすっと出てきた手が躊躇なくカップを握った。その腕の先を見上げれば、顔色ひとつ変えないダグラス様がいた。
「僕が毒味をしましょう」
言うが早いか、カップを傾けてこくりと一口、ダグラス様は飲んでしまった。
喉仏が上下して、彼の鋭い眼光がギラリと光った。そして信じられないものを見たとでもいうようにカップのなかのグロテスクな液体を凝視した。
「ダ、ダグ様?大丈夫ですか?」
「ダグ、どうしたのだ?」
心配する私たちなど視界にも入らない様子でダグラス様がもう一度カップに口をつけたので、私は慌てて彼を止めた。
「ダク様!ダメです!殿下の分が!!」
その言葉にハッとしたダグラス様は渋々カップを元に戻した。
「これは上手い、です。止まらなくなるかと思いました」
私の知らない過去も含めて、これまでに何度もダグラス様の掌で踊らされた経験を持つアルセール殿下はかなり疑い深く、ダグラス様の様子を窺っていたが美味しかったと惜しむダグラス様の姿に騙すつもりはないと判断して、男らしくカップを掴むと一気に呷った。
ゴクゴクと音を立てて飲み干す殿下をダグラス様はまだ羨ましげにじとりと見ていたが、諦めたように私に視線を移し、
「おかわり、あるか?」
と、小声で聞いてきた。
その可愛さにコロコロと笑いつつ、実は侯爵家のキッチンにあるので、ダク様も今夜飲んでくださいね、と伝えた。
するとダグラス様は晴れやかな顔で私の頭にキスをした。婚約誓約書にサインをしてちゃんと婚約が成立してから、ふとしたときにこうしてダグラス様が触れてくることが多くなり、私の心臓に休みがなくなった。
今も激しくタップダンスを踊っている。
全部綺麗に飲み干したアルセール殿下は呆然と陶酔していたが、私と目が合うと真剣な表情で訊ねてきた。
「パトリシア、これはまだあるか?」
私は無言で空のカップを奪うと、生徒会室隣にある殿下の執務室を辞した。
薬湯の効果はおよそ3日間。
殿下はさっそくその日の昼には行動に出た。
ダリアライト様は私が誘ってランチを一緒にとることになったので、いつもの通りダグラス様を伴ってサロンへと先に入っていた。
公爵家であるダリアライト様は準王族と位置付けられ、サロンも自由に使える。私は彼女の金魚のフンよろしく、静々と羨望の眼差しが刺さって痛い…と思いながらサロンでサンドイッチとパンケーキを食べていた。
お伴は珈琲だ。
楽しく話していたところへキャロラインを優雅にエスコートしながら颯爽とアルセール殿下がサロンへとやってきた。
彼は先に食べている私たちに冷たく一瞥したあと、
「目障りなのがいるから、あちらへ行こう、キャロライン」
とダリアライト様を汚いものでもみるように眼を眇めてからキャロラインの背中に手を回して、サロン内にあるバルコニー席へと誘った。
「あら、アル…」
たった一言。
ダリアライト様の小さな囁き。
けれどそこに彼女のなかではじめて芽生えたらしい黒い感情が僅かに滲んでいて、私は罪悪感を覚えた。
けれど、それを認識しなければ、彼女はアルセール殿下に対する気持ちに気付くのにどれほどの時間を費やすか、わからない。
だからこれは仕方のないことなんだと自分に言い聞かせて、罪悪感を未来への希望というオブラートに包んで飲み込んだ。
バルコニー席のアルセール殿下は甲斐甲斐しくキャロラインをもてなし、甘く囁き、熱の隠った瞳で彼女の美しさを讚美していた。彼の背後に立つスペンサー様はどんよりと陰鬱な表情で、嫉妬の炎を全身から吹き出しながらアルセール殿下を黙って睨み付けていた。
キャロラインに顔を寄せて、アルセール殿下は彼女の口元に付いたソースをぺろりと舐めとる様子を見て、さすがのダグラス様も私も薬湯が効かなかったのかと懸念した。
「そんな、アル、いえ、殿下が…!!」
ダリアライト様が声を震わせ、立ち上がろうとしたので、私は非情かと思ったが、彼女の肩をぐっと押さえ付けた。それに驚いたダリアライト様は私に視線を落とし、すぐに眼を伏せて身体から力を抜いた。
「ダリアライト様、今のお気持ちをお伺いしても?」
傷付いたような儚げな瞳を揺らして私を窺い見たあと、彼女は子供のように頼りなげにふるふると首を振った。
「苦しくないですか?胸が痛くなりませんか?それと同時に悔しかったり、腹が立ったり、哀しくなったりしてませんか?」
この質問に躊躇いながらも小さく頷いたダリアライト様を慮るようにダグラス様が私からすっと離れた。
本当に優しい人だと私は惚れ直す気分だ。
アルセール殿下から裏切られた気分でいる女性の前で相思相愛に溺愛している姿を見せない判断をするダグラス様に私はきゅんと胸が高鳴った。
「それはどうしてだと思います?」
畳み掛ける。
ダリアライト様は真面目な方だから、私ごときの質問にもきちんと答えを出そうとちゃんと考えてくださる。
今も自分のなかに湧いたはじめての感情に名前をつけよう必死で格闘していた。
「異性としてなにも想わなければ…」
ちらりとバルコニーに視線を転じれば、アルセール殿下がキャロラインの肩を抱いて、愛おしげに彼女自慢のストロベリーブロンドの髪を撫でている。
「あれを見てもなんの感情もないでしょ?」
怒りとも哀しみともつかない色を宿したダリアライト様の瞳がじっと2人に注がれた。アルセール殿下の演技にすっかり参ったらしいキャロラインが彼の胸に顔を刷り寄せて甘えた様子をみせている。
私ですら嫌悪感で吐き気がする光景をじとりと睨み付けていたダリアライト様の頬にこの場のすべてを凍らせるほどの冷気を纏った微笑みが浮かんだ。
まさに氷の微笑。
「とてもとてもとてもムカつくのだけれど、わたくしはどうしてしまったのかしら?」
およそ単調な口振りだが、勘違いのしようのない嫉妬が滲む。
「どうしてですか?」
なんとしても私はダリアライト様の口から殿下に対する気持ちを吐かせたかった。自覚するには自分で気付くしかないのだから。
「どうして?だって彼はわたくしの婚約者です」
「そうです、でもお互いの気持ちを確認されたことはあるんですか?」
「気持ち?」
「はい、私から見て殿下はとてもダリアライト様を愛しておられましたが、ダリアライト様は殿下に対して特別な感情は持っていないようにみえました」
「確かにわたくしは殿下に感情を揺さぶられることはありません。パトリシア様に誘われたり、触れられたりしたときのような高揚感はありません。パトリシア様だと挨拶を交わすだけでも胸が高鳴りますのに…!」
ダリアライト様、私はその言葉ですでに陥落しそうです。顔が紅潮して、くらくら眩暈までしてきます。
しっかりしろ、と自分に言い聞かせ、ダリアライト様の腕に手を触れた。
「では、今は?」
アルセール殿下はキャロラインの髪を一房手に取ると指で弄びながら、愛しげに髪にキスをした。
さすがにそれはやりすぎじゃないか、と思った瞬間、キャロラインが不敬にもアルセール殿下の首に腕を巻き付け、抱き締めた。
彼女の背中に手を回しながら、困ったようにこちらに目配せをして助けを求める殿下をみて、薬湯がしっかりと機能していることに安堵した。
すぐにダグラス様が殿下の元へと向かっていった。
「わたくし、パトリシア様がダグラス様と仲良くされているのを見ると悔しくて仕方ないときがあるんです。幸せそうで良かったな、と思っているのに、わたくしのパトリシア様なのに、とも…」
いや、ダリアライト様、私を口説き落としてどうするつもりですか?!
「今、殿下にも同じ気持ちです。とても悔しい。わたくしのアルなのに、わたくし以外の女性とあのような…!」
ダリアライト様が下唇を強く噛んだ。
ここまでだ、と私は考え、ダリアライト様にすべてを話した。
「ダリアライト様、私が殿下に頼んでキャロラインさんに誘惑されたふりをして貰っています。きっと今頃殿下は約束通りブローチを手にしていると思います。殿下はとても嫌がったのです、ダリアライト様以外の女性に触れることも、熱視線を送ることも、それどころか自分の視界に入れることさえも嫌がっていました。それほどまでにダリアライト様を想う殿下にあのようなことをさせて申し訳なかったと反省します」
ダグラス様の登場によってキャロラインは殿下から引き離された。その際に彼女の胸を飾っていたブローチがなくなっていることも確認する。
「…パトリシア様、もしかしてわたくしはアルを慕っているのでしょうか?」
そう問い掛けるダリアライト様は真っ赤に染めた頬を両手で包み、困ったように視線を彷徨わせていた。
「そうじゃないですか?」
「そう、もしかしてこれが嫉妬というものかしら?」
「だと思います」
「では胸が痛くて甘くて、アルを見るだけできゅんきゅんするのが恋、なんでしょうか?」
改めていわれるとなかなか恥ずかしいものだ、と思いながら私まで頬を染めてこくりと頷いた。
「そうなんですね、わたくしはアルが好きなんですね…」
そうしてダリアライト様は見たこともないほどスッキリとした表情で艶やかに微笑んだ。