43 モーティマー侯爵家
私は帰宅もせずに、またサロンで今度はダリアライト様とお喋りを楽しんでいた。まだ私たちには刺激が強すぎるとダリアライト様に渋い顔をされたけれど、お喋りのお伴は珈琲とチョコレート。
この組み合わせはまさに神!
口腔内で蕩けるチョコ以上に私が溶けて、ダリアライト様も呆れたように笑っていた。
授業が終わったあと、ダグラス様が教室にいつものように迎えに来てくれたとき、モーティマー侯爵家の馬車で今日は一緒に帰ろう、と誘われたのだ。
「ただ少し用事を済ませてからだから遅くなるけどね」
それで私はサロンで楽しい時間を過ごしていた。
「わたくしとしては寂しいけれど、パトリシア様、ご婚約おめでとう!」
お喋りの内容は専ら昨日からバタバタと起きた婚約騒動のこと。
「ありがとうございます」
見た目以上に恋ばなに眼がないらしいダリアライト様から根掘り葉掘り尋問を受けて、私はすっかりすべてを話してしまっていた。
散々語り尽くしたとき、ダグラス様がサロンに迎えに来てくれた。
「パトリシア、待たせた」
「ダリア、遅くなったから私が送ろう」
ダグラス様の後ろからひょっとこりと顔を出したアルセール殿下がダリアライト様を手招きした。ダリアライト様はすん、と氷の微笑に早変わりすると、ごきげんよう、と膝を折って挨拶してから殿下のところへ行ってしまった。
「もう少しだけ、時間、いいか?」
「はい、大丈夫です」
ダグラス様が私の横にするりと座ると、暫くじっと甘い視線を向け続け、にっこりと微笑んでから私の頭をくしゃりと撫でた。
鬼瓦には慣れても、この抜群の攻撃力を誇る笑顔にはちっとも慣れない私の頬が一気に朱に染まる。
「ジャンのことなんだが…」
「はい」
意外な話がきたな、と私は内心で驚いた。
「パトリシアがジャンを選ばなかったら警護任務解除になることは知ってるな?」
ダグラス様に言われて、私ははじめてそのことを思い出した。昨夜、お父様が確かにそう言っていた。突如、私のなかに罪悪感が生まれた。
「…はい」
「それでジャンはすでに任務を解かれて騎士団に戻った。これからは僕だけがパトリシアの護衛になるんだが、そこでパトリシアに相談があるんだ」
「はい」
相談とはなんだろう?
ダグラス様の緊張した様子をみると、厄介なことなのだろうか。
彼の喉がごくりと鳴って、喉仏が大きく上下するのがわかった。
そんな些細なことなのに、とても艶っぽくって私の心臓が途端に早鐘を打ち始めた。
「侯爵夫人教育も兼ねて、我が家で一緒に暮らさないか?」
「…はい?」
「バーナー伯爵には許可を得た。パトリシアが承諾してくれたら、今夜からでも迎え入れる準備はできている」
え?
いつの間に?
ダグラス様、ちゃんと授業受けてます?
「ダグ様、婚約はまだ正式には…」
「書類はできてる。あとはパトリシアがサインすれば僕たちは立派な婚約者だ」
「婚約期間からもう、一緒に?」
戸惑う私を慈しむようにダグラス様が両手で頬を包み込んだ。そしてじっくりと私の瞳を覗き込む。
「婚約期間は半年、それが過ぎたら結婚する。お互い学生だが、法律上は問題ない。僕もパトリシアも15歳を過ぎているから。いま、モーティマー侯爵家には女主人がない。パトリシアを導ける人材がないんだ、だからなるべく早く慣れて貰うためにも、来て欲しい」
そこまで言って、ダグラス様は突然、私からすっと離れた。包まれていた頬にひんやりとした空気が当たり、無性に寂寥感を覚えた。
「いや、違う。言葉を飾るつもりはないが、やはり本音を言えば、僕は片時もパトリシアと離れているのが嫌だ。不安なんだ。護衛が必要なら僕がやる。他の男にさせるつもりもない。だから一緒にいたい」
俯きながら絞り出されたダグラス様の本音に、私はほんわかと心が温かくなる気がした。
「わかりました。侯爵家に参ります」
「いいのか?」
私はダグラス様をしっかりと見据えてから首肯した。
「はい、私を護ってください」
「パトリシア!」
がばりと私を抱き締めるとダグラス様は何度もありがとうを繰り返して囁いた。お礼をしなくてはならないのは私なのに、と思いながらも、彼の喜びが高い体温を通して伝わってきて、感じたことのない充足感に包まれた。
「本当に好きだよ、パトリシア」
最後にそれだけを耳元で甘く囁くとダグラス様は私の頬に唇をふわりと触れさせた。
私も好きです、の台詞が頬に落とされたキスのせいで声にならずに消えていった。
その後、一度バーナー伯爵家に寄って、お母様とお父様に挨拶をしてからダグラス様も一緒に食事をして、私の荷物とマーガレットを連れてモーティマー侯爵家へと向かった。
どうしてもマーガレットと離れたくなかった私はお父様とダグラス様にお願いして、私専属メイドとしてマーガレットは侯爵家に就職することで落ち着いた。
「マーガレットにも説明しておくが、モーティマー侯爵家には女主人がいない。現在屋敷を取り仕切っているのは筆頭執事のベティスと侍女頭のニールだ。あと僕の従姉妹のマティアが離れにいる。叔父から頼まれて父上が住まわせているだけで僕とは関係ないからパトリシアは気にしなくていいが、離れには近付かないように頼む」
「承知しました、旦那様」
「はい、ダグ様」
「ベティスの妻がリーリーといって、キッチンにいつもいる。侯爵家のシェフはなかなか旨い料理を作るが、父上のお気に入りのオムレツを焼けるのはリーリーだけなんだ。とても気さくな人だから困ったことがあれば頼るといい、マーガレット」
「ありがとうございます」
「リーリー、て変わった名前ですね」
こてんと首を傾げた私の頬をダグラス様は手の甲で撫でながら、
「本名を知るのはベティスだけらしい。僕も彼女をリーリー以外で呼んだことがないんだ」
と教えてくれた。
これからはじまる新しい生活に私は単純に心を踊らせていた。