41 ダグラス様の想い
いつもと変わらない朝を迎えて、いつもと変わらない態度のジャンにエスコートされ、私は門前のダグラス様と挨拶を交わした。
平静なジャンと違い、ダグラス様はいつも以上に眉間に皺を寄せて、それでも幾分か頬を薔薇色に染め上げて、私の手を取って歩き出した。
「あの、ダグ様?」
私が声を掛ければ、こちらが恐縮するほど身体を震わせ、ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく私に視線を送ってくる。
「婚約のことなんですが…」
婚約ワードひとつで、ダグラス様から表情が消え、突如顔から火を噴く如くに真っ赤になってしまった。耳どころか首筋まで紅潮して、握る掌がしっとりと汗ばんできた。
ダグラス様がこんなにも緊張するの?
私は彼の思わぬ一面に驚きつつも、なぜか可愛くて仕方なくなった。
「パ、パトリシア、その、婚約のことは、すぐに返事をくれなくても、構わない。僕が父上に君のことを伝えたら、喜んでしまってね、先走って婚約の打診を……本当に申し訳ない!」
「いえ、あの、謝っていただくようなことではないです。驚きましたけど、嬉しくもありましたから…」
私の言葉にダグラス様はぱぁっと顔を輝かせた。
はじめて私は彼の渋面以外の表情を眼にして、そのあまりの眩しさに瞬きを繰り返してしまった。
「パトリシア、それは…!!」
期待に声が上擦っている。
そんなところまで可愛くて、私は微笑みを溢した。
「お話、しなくてはならないことがあります。お時間、いただけませんか?」
「パトリシアのためならいつでも、どれだけでも」
あぁ、ダグラス様が私を慕ってるのは本当なんだわ。
心が震えて、大きく心臓が一度跳ねた。
「ではお昼に」
「承知した」
男らしく頷いて、ダグラス様は私を教室まで送ってくれた。
この日のランチはアルセール殿下にダグラス様が頼んだらしく、サロンを貸切りにしてくれていた。王族専用サロン、女子憧れの聖地。
「気を遣っていただいてありがとうございます」
ペコリと頭を下げた私を眩しそうに見つめながら、ダグラス様は私に椅子を勧めた。
「構わない、僕のためでもあるから」
「そうですか?」
「あぁ、それで話とは?」
こくりと私は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
ちゃんと話せるのか、不安で胸が張り裂けそうだ。
「昨夜、婚約の話をお父様から聞きました」
「あぁ、本当は直接パトリシアに僕から伝えたかった。すまない」
実に残念そうに嘆くダグラス様に私は首を振ってみせた。
「それで、そのときにジャンが…」
「ジャン…?」
殺意すら孕んだ低い声が地を這って私の耳に届く。ぞくりと寒気を感じて、私は自分の身体を抱き締めた。
「はい、我が家の護衛のジャンが婚約は嫌だと、誰にも渡したくないほど私のことを…」
「好きだと?」
ダグラス様の口から出た言葉に瞠目して、私は横に座る彼を見上げた。優しさと甘さを過分に含んだ瞳がなぜか恐怖に震えていた。
「はい、結婚してほしいと…」
「それで、パトリシアもジャンが…?」
「わからないんです」
ダグラス様からため息が洩れた。
「ジャンのことは好きです。でも結婚したいかと聞かれるとわからないんです」
酷く傷付いたように目尻を下げたダグラス様を見て、私のなかでなにかが動く。それはとても温かくて、幸せなもので、だからこそ、彼に悲しい顔をさせてしまって、私は苦しくなった。
長い沈黙のあと、ダグラス様が私の手を取って、指を絡めてきた。それがあまりにも艶かしくて、私は赤くなって俯いた。
「パトリシア」
「…はい」
「僕は女性が嫌いだ。信じられないんだ。幼い頃、母上は社交界の蝶ともて囃され、勘違いをした挙げ句、僕と父上を捨てて自由気ままな生活を選んだ」
彼はとても傷付いて、その傷はまだ治ってはいない。ジクジクといつまでも血膿を流してダグラス様を苦しめていた。
「何度も父上には婚約者を定めるように言われたが、僕は信用できないものとの生活なんて地獄だと思っているから、ずっと断ってきた。誰かを愛せるなんて考えられなかったし、愛のない夫婦がどれほど家族を壊すのかも知っていたから、一生連れ添う相手がなくても構わない、と思っていた」
彼の大きな手が震えている。
それがとても私の心を揺さぶって、もう片方の手を添えた。
びくりと私の手に包まれた彼の手が強張ったが、すぐに淡く融けていった。
「アルセール殿下からパトリシアの警護を持ちかけられたとき、僕はローズウッド様を助けた君を思い出していた。思えば、あのとき僕はパトリシアに恋をしたんだ」
「見て、らしたんですか?」
恥ずかしさに震える私にダグラス様は微笑まれた。それはそれは破壊力半端ない、超弩級の微笑みを浮かべて。
鼻血を噴いて倒れるかと思ったほど。
「君が木立に隠れたところからしっかりとね」
はじめから!
まさかのはじめから目撃されてたなんて!
「だから君の護衛も受けた。それから毎日、君の傍にいて僕はいつしかとても居心地よく感じるようになっていて、気付けばパトリシアばかりを眼で追い掛けていた」
ダグラス様は愛おしげに私の髪を一房持ち上げて、ふわりと唇を触れさせた。そしてそっと頭を優しく撫でた。
「君といると幸せだ。離れると耐え難く寂しくなる。君が誰かといるのを想像しただけでも気が狂いそうになるし、僕といるときはパトリシアのその綺麗な瞳に僕以外を映して欲しくないとさえ思う」
絞り出すように告げられる彼の想い。
私を苦しめ、悦ばせる。
「僕はパトリシアを幸せにしたい。ずっと傍で護りたい。他の誰かではダメなんだ。パトリシアでないと僕は生きていけない気さえする。君の声も、髪も眼も、吐息さえも僕だけのものにしたいと望んでしまう」
紡がれる真摯な想いが真っ直ぐに私に届いて、気付けば私はダグラス様を抱き締めていた。
「パトリシア?」
「ダグ様、私、私!」
そっと私を引き離すと、彼は見たこともないくらいの甘く蕩けた眼差しを寄越して、私の唇に人差し指を当てた。
「僕に、言わせて?」
深呼吸ひとつ。
「僕はパトリシアを愛してる。誰よりも強く、誰よりも深く、パトリシアが好きでたまらない。君が手に入らなければ僕はきっと生きていけない。パトリシアのない僕の人生なんて存在しないんだ。だからパトリシア、どうか僕の気持ちに応えて婚約を承諾してくれないか?」
真っ直ぐに真っ直ぐに柔らかく刺さる甘い視線。
掠れ、震える彼の声が真実の想いを切々と伝えてくる。
あぁ、私はダグラス様をとても愛しく想っているんだ、とこのときはじめて理解した。
だから私は躊躇うことなく、彼に頷いていた。
「パトリシア?!」
「ダグ様、私、やっとわかりました」
「パトリシア?」
「私もダグ様が好きです。侯爵家には不釣り合いかもしれませんが、精一杯努力します。宜しくお願いします」
深く頭を下げた。
彼のためなら頑張れる。
だって私はこの鬼瓦のような彼がとても可愛く思えるのだから。
「パトリシア、嬉しいよ!」
ダグラス様がきつく私を抱き締めた。
私も彼の広い背中に腕を回して、抱き締め返した。
私の肩に顔を埋め、密やかに泣く彼が愛しくて、その漆黒の髪を何度も撫でていた。